第二編 傍観の瞳
1
熱心に説明に聞き入る男は、LUNAの建造費を耳にして深い溜息を禁じえなかった。女性スタッフは、そうして感嘆の表情を生み出すことに快感を得るのが常らしく、このときも微笑みの裏に背筋を走る感覚を秘めていた。だから、普段子供を嫌っている彼女も、今そばを走りすぎた男の子の歓声にも笑顔を向けられることができた。
ロビーからは次々と人が捌けていく。どの顔も満面の笑みを浮かべている。はじめてこの宇宙空間に浮かぶ娯楽施設、LUNAへやって来る者もいるだろう。そして、そういった類の人間は不安も入り混じった、緊張したような顔を見せるのだ。女はもう慣れ親しんだここの空気に、そんな彼らに対する優越感を含んだ吐息を漏らした。
地上は冬の真っ只中だ。ここへやって来る顔ぶれの中にも、厚着をしたものが見受けられたが、LUNAの内部は人間がもっとも快適に感じる温度に調整されていた。暖かすぎず、寒すぎず。女は、正直な話、この空気は好きではなかった。つかず離れず、どこか人工的でよそよそしい。そんな空気感がなかなか好きにはなれなかった。
女は一人の青年に目を向けていた。背の高い、黒髪が少し長い面長の男だった。
男は結城黎人といった。
結城は片手に持ったウェブ・ランナーをポケットに仕舞い込むと、アミューズメント・エリアへと繋がるリニア・エレヴェータのホールへ足を向けた。女のスタッフが笑顔と共に歩み寄ってくる。
「ようこそ」
「どうも」
結城が柔和な顔を向けると、女は膝を軽く曲げて古風なお辞儀をしてみせた。
「ICタグはきちんとお付けですか?」
女から見れば一目瞭然であろうが、事務的というより下心が見えるようであった。
「ここに」
胸に取り付けたタグを人差し指でピンと弾く。
「こちらへははじめてですか?」
「ええ。はじめてです」
「まあ、それでは――」
「客としてはね」
結城は笑顔を崩さないままで女の脇を通り抜ける。女は怪訝な目を彼に向けた。彼の言わんとすることが理解できなかったのだ。臨機応変がままならないのだ。ただ何も返すことができずに、結城の去る様を見守っていた。
「ああ、そうだ」
結城は、そうそう、と言って人差し指を立てて振り返った。その指を前後に動かすと、目を女に真っ直ぐと据える。
「建造費がどうとかいう話はできるだけしないでください。ここは人を楽しませるための場所ですから、現実的な会話は好ましくない」
彼はそれだけ言うと、L‐5と大きく表示されているホールへゆっくりを歩を進めた。
*
アミューズメント・フロアは人の熱気というものが溢れていた。もちろん、温度的には調整されているものの、こういった娯楽施設にはつきものである、あの得体の知れない開放感と活気が、この空気を体感する者に熱気を感じさせるのだ。
その人影は走っていた。軽やかでなく、楽しげでなく。表情は固く、真剣な眼差しを保ったままだ。先ほど見た不可思議な現象が脳裏を占めていた。それが、駆り立てる力を与えていたのだった。
L‐4の物販コーナーにはICタグに反応するスライドドアが数箇所に設置されている。このエリアはこのようにして幾つかのブロックに分けられ、そのブロックごとに異なるテーマで商品を売り出していた。そこでドアがひとりでに開くのを見た。
「ルナは視覚を与えられてはいますが、多くの顔を一度に認識することができません。そこで、視覚と共にICタグを用いることで、多人数の活動状況や個別認識を可能となったのです。ICタグは重要ですので、必ず身につけておいてください。ルナはIC情報を読み取って、人を『見て』います……」
そう説明したスタッフの声が耳にはっきりとよみがえっていた。
(なら、ドアは開かなかったはず……)
人影は鋭い眼光を放つ漆黒の瞳を真っ直ぐと前に据えていた。それの緊張感漂う姿はさながら狩人といったところだ。
目前で、確かにドアは開いたのだ。
確信した。
その要因となったのは、数週間前に放映された軍事技術の特集だった。日本の開発した技術を元に米軍が光学迷彩の実用化を実現したというのだ。ナノマシンと高技術ディスプレイを併用した、プロジェクティブ・ステルスというものだ。巨額の開発費に対する必要性の低さが指摘されていたが、多様化する特殊部隊のミッションに対処するために半ば強行的に計画が推し進められたという。裏に国家レベルの陰謀が囁かれているのはゴシップ好きな大衆の性だ。
確信した。このLUNAに光学迷彩を装備した何者かが潜んでいると。
ひとりでに開くドアを目印に〝侵入者〟を追跡していく。L‐4から始まった静かな追跡劇は、L‐5を経て、騒がしいL‐6を越え、L‐1へと到達した。
宇宙観測機器に焦点を当てた展示がされており、学術的なテーマを扱うだけあって、このエリアの雰囲気もどことなく真摯なものを醸し出していた。敷き詰められたカーペットが足音を吸収してポスポスと木霊する。ひと気は他のエリアに比べ、極端に少なかった。
ジェネシス社は科学究明に並々ならぬ興味を示すので有名だ。会長・長田響には小規模ではあるが私設の開発機関があるというのは、知る人ぞ知るところである。そういった科学探究心に満ちた所だからこそ、こういった展示が重要視されているのだ。そうスタッフが説明しているのを耳にしたことがある。
この隣のエリア、L‐2の映画館でも、ジェネシス社の意向を反映して科学に着目したヒストリー・ムービーや、科学検証を綿密に行ったうえで製作されたオリジナルのSF映画が上映されている。
博物館的静寂の中で、人影は周囲を目を忙しくさせていた。
ひと気はほとんどない。チャンスだ、と感じた。密かに駆け寄って組み付き、悪事を暴露させるのだ。
息をひとつつく。緊張で鼓動が速まっているのが分かる。もうひとつ肩で深呼吸すると、床を蹴った。
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