29

 第1階層、ルナゲートへのエレヴェータ前のロビー。

 ここには、広域な特殊ガラスで窓が築かれている。窓には縦横のフレームが走り、升目を作っている。外には美しい星の光景が広がっている。遥か向こうには地球が姿を見せていた。一同は、ロビーに並ぶベンチに腰を下ろしていた。ベンチは窓のほうを向いている。

「はあ……」

 大仰な神崎の溜息が漂う。

「あんな手の届きそうなところにあるのになぁ……」

 青く光る地球は、地上で見る月の数倍の大きさがあるように見えた。幻想的な様子は、まるでスクリーンに映る映像を前にするようだ。

「こうしていると、空港のロビーで時間を待っているみたいですね。感覚としては地上と違いがないみたいだ」

 太田の感慨に結城が頷く。

「未来には、こういった宇宙空間に設置された〝港〟が建造されるでしょうね。惑星間航行があと100年後くらいには常識になっているといいますしね」

「なんか信じられねえな。昔『スター・ウォーズ』って映画があったんだが、あれみたいなのが実現するのかね?」

「人は」太田は星々に話しかけるようにしていた。「何かをしたいという欲を実現しないではいられない生き物なんですよ。荒野へ出たいと思ったから両手が自由になった。生活を楽にしたいと願ったから道具を生み出した。空を飛びたいと思ったから飛行機を作った。宇宙に出たいと思ったから、こうしてLUNAが生まれた……。人は生物としての原動力をそうした願によっているのです。だから、その願いが自然環境を上回ったとき、地上は汚れてしまったのです。あれは、避けられなかったことなのです」

「ルナは人間といえるのでしょうか?」

 多良部は窓の外の景色から目を離して太田を見た。先ほどまでのどこか苛々した表情はもう見えない。太田は落ち着きを取り戻していた。

「ルナは、少しコミュニケーションしただけですけど、限りなく人間だったような気がします。だったら、ルナもそういった原動力を持っているんでしょうか。多分持っているでしょうね。ということは、今回のことは、その原動力が原因となっているといえないでしょうか?」

「俺たちを閉じ込めようって欲の原動力か?」

 答えはない。太田は考えていた。

 ――あのルナが俺たちを恨んでいるとでもいうのだろうか? 何故? そんな素振りも見せなかったというのに?

 地球とこのロビーとの線上にきらりと光る白点が現れた。

「おい、あれ!」

 神崎が立ち上がり、窓の近くまで歩み寄る。窓へは手を触れることができないようになっている。窓との間に2メートルほどの感覚があるのだ。手前の手すりに一同が寄り添うようにしている。

「シャトルだ!」

 機体の側面に赤いシンボルが映える。救助隊である証だ。太田たちの乗ってきたシャトルとは規模が異なり、救助隊のものは若干小振りになっている。

 一同の足は自然とルナゲートへのエレヴェータへと向かっていた。間違いなく原動力が彼らを突き動かしていた。

「入り口で待ち伏せしてやろうぜ」

 神崎は元気を取り戻したように走り出していた。心なしか、他の者の顔にも笑顔が戻っている。

 ルナゲートへのエレヴェータも降りてきていた。上部ハッチを通ってチューブを行くのはアミューズメント・フロアから第1階層への先ほどと同じだ。神崎は先立ってハッチを開放した。振り返って叫ぶ。

「みんなついて来い!」

 走り寄る足音。しかし、1人だけが立ち止まっていた。結城が振り返る。

「芽衣ちゃん?」

 雛森は、寂しげな表情を浮かべて立ち尽くしていた。別れを悟るように仄かな笑みを口元に貼り付けてさえいた。駆け出していた4人も思わず彼女の挙動を見守ってしまう。雛森は彼らに聞こえるか聞こえないかの小声で告げた。

「私、もう地球には戻れないよ……」

「何いってるんだ! 助けはすぐそこまで来ているのに!」

「そうだよ、変な事をいうのはやめるんだ!」

「だって!」雛森の悲痛な声が、一同の耳を打つ。「私、人を殺したんですよ! もうダメですよ……」

「なら彼女の分も生きるんだ。償っていくんだ」

 雛森は涙を流して首を振った。そして、彼女は転進し、駆け出してしまった。太田も結城も神崎も多良部も呆気に取られていた。彼女の駆け出した意味を掴みかねていたのだ。

「芽衣ちゃん!」

 太田と結城は同時に後を追った。


 雛森はアミューズメント・フロアへ降りるエレヴェータチューブの前に佇んでいた。追ってくる2人のばたばたという音に振り返ると、意を決したように奈落へと滑り込んだ。

「くそ、何をするつもりなんだ!」

 太田は結城の前を行きながら、口を開けたエレヴェータドアまでを一気に駆け抜けた。

「よからぬことをしようとしているみたいですね!」

「あとちょっとでみんな脱出できるっていうのに!」

 2人はチューブの中に身を投じた。遥か先に雛森の静かに降下する様が見える。オレンジ色の微かな明かりの中で、姿が見え隠れする。やがてハッチの中にその影は消えた。

「まさか……」

 速度を高めるために壁面を手で蹴りながら、結城は蒼白な顔でいった。太田が不思議そうに彼を窺っている。

「空気制御室には、LUNA外殻内部への緊急ハッチがあります。まさかそれで……」

「宇宙空間へ出るつもりか?」

「分かりませんけど、万が一ということもあります。早く追いつきましょう」

 下に降りると、雛森の走り去る姿がL‐4の方面に確認できた。

「しまった……。LUNAの外殻内部は衝突で宇宙空間と同じ状況になっているかもしれません。ハッチを開けてしまえば……」

「でも、外殻にはダメージはなかったから……」

 結城は太田を追い越して叫ぶ。

「そんなことは問題じゃありません! ハッチを開けさせてはダメなんだ」

 彼の気魄に太田も思わず頷いてしまう。

 雛森はL‐4とL‐5の境にある第4空気制御室に駆け込んでいた。太田も結城も彼女を捕まえる機会がなかった。彼女は、すでに緊急ハッチに手をかけていた。ハッチ表面の「開放厳禁」の文字はなす術なく雛森を見つめていた。

「やめろ!」

 2人の後ろから遅れて神崎や多良部の近付くのが聞こえる。

 雛森が振り返る。唇が動くのが見える。声は聞こえない。「さよなら」といっているのか。

 がばん、という轟音がハッチを弾き飛ばす。途端に雛森の体が吸い込まれてしまった。気圧が急激に下がり、周囲の空気がぐんぐんと吸い出されていく。太田と結城も今や踏ん張って耐えるだけだ。近くの壁を掴んで死の風を凌ぐ。空気制御室の入り口までは距離がある。2人は雛森を止めることができなかった。ふと空気の流れが止まった。見ると、空気制御室が閉鎖されている。一同はよろよろとその閉ざされた扉に歩み寄った。

 結城が拳をそこへぶつける。どしんという音が空気を張り詰めさせる。

「くそ!」

 雛森の命が掻き消えたのが実感される。一同はただ肩を落としてその場に立ち尽くしていた。自らの無力さを噛み締めながら。

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