16
疲弊したように一同はレストランの円卓を囲む椅子に腰を下ろしていた。それぞれの前には雛森の探し出してきた飲み物が置かれている。容器の表面には玉の汗、それだけが時間の過ぎるのを伝えていた。
結城と雛森はその容器を見つめたままだったが、神崎は中のコーヒーを飲み干すとこつんと音を立てた。
「片桐さんが殺されるなんて」
無感動とも思えるような表情で雛森が口火を切った。
「何でこんなときに」
矢継ぎ早の2つの言葉に触発されたのか、結城が顔を上げた。
「さっきまで話して、笑って、動いていたのに。もう死んでしまった。僕は昔からちょっと考えていたことがあるんです。命を動かしているものはなんだろうとね」
雛森も神崎も黙って彼の顔を見ていた。
「以前フロリダの刑務所で行われた公開処刑を目にする機会があったんです。昔からの電気椅子ですよ。未だにそれを用いているのは、多分悪の末路を見せしめるためだと思うんですが、とにかくその公開処刑でした。その死刑囚ははじめ憮然とした態度でいたんです。ところが通電させるためのヘルメットや麻袋を被せられる段になって、一目見て分かるような恐怖を表したんです。通電が始まると、彼の体は海老反りのようになり、被せられた麻布に鼻血が広がりました。焦げ臭いにおいと共に麻袋が取り外されると、青紫の顔をして鼻から下を血で染めている死刑囚が現れたのです。さっきまで歩いて、憮然として、恐怖を感じていたあの顔には、もはや何も読み取れませんでした。顔は案外穏やかで、息を潜めれば寝息でも聞こえるのかと思ったほどです。彼は死んでしまっていた。通電の前後で生と死が存在していたのです。
「爾来、僕はあの通電の前後に命というものがどういう風に失われたのか、ふと気づけば考えるようになっていました。もちろん法医学的な死亡原因は分かるんです。そうではない、どういう状態が死なのか。何かが抜け出てしまった状態が死だとするのならば、その〝何か〟とは一体何なのか?」
「魂……」
「そう。芽衣ちゃんのいうとおり、魂だと思った。でもあるとき、僕は人間の根源がどういうものなのか分からなくなってしまった。
「人間の脳は体内で生を受けた瞬間から電気を発しています。だから、知覚し、意識することが出来る。動くことが出来る。考えることも出来る。脳波は揺らぎ、それがそういった諸々の行為へと繋がっていくのです。じゃあ、この揺らぎを起こさせるものは一体なんだろうか。
「ちょっと余談になるんですが、人間の感覚の仕組みを知ったとき、僕は生物というもの自体に何か得体の知れない恐怖のようなものを感じたんです」
「聴覚は、最終的には細かい毛の歪み具合で認識されるんですよね。この前学校で習いました。その毛が擦り切れると音は聞こえなくなるって」
「そう、だから昔空気伝導式のヘッドフォンが普及していた頃はそれで音を聞きすぎると耳によくないといわれていたんだけどね。今の骨伝導式なら多少その危険が減るんだけど。
「それに嗅覚は分子をキャッチする器官があって、そこが得た分子の情報が脳内で変換されてにおいとして認識されるようになっている。味覚も似たようなものだ。とにかく、これらのことを知ったとき、僕は衝撃を受けた。自分の感じるこの世界が本当に自分の感じているものなのかという疑いさえ持ってしまったんです」
「俺はそういう細かいことは気にしないようにしてるがな」
雛森は睨んだが、結城はもっともだというように頷いた。
「それが賢明ですよ。世界はこのようにしてある、と信じるのが一番いい。でも、そうなんです、世界は脳が見ている。その脳を動かしている〝何か〟とは一体なんなのか」
「さっき結城さんは似たような話をしていましたよね。ボトムアップだとかトップダウンだとか」
「俺はよ」神崎がいった。無関心そうに見えて、その実、話したいことがあったのだろう。「自分を動かすものが何だとかいう問題よりも、なんで生きてるんだってことのほうが知りたいがな」
「そういうことは気になさらないんではなかったですか?」
結城の含み笑いを交えた問いに神崎は不快になるようでもなく答えた。
「そういうことが気になるときもあるんだよ。特に今なんかはよ。なんで俺はこんな目に遭わにゃあならんのだ、とね。で、自分の存在意義を考えて、仕舞いには、そういう方向に行っちまうのよ」
「意外ですね」
顎を突き出して雛森の皮肉が飛ぶ。
「俺にだってそういうことを考える教養くらいあるわ」
「じゃあ、人を動かすものって何ですかー。答えてくださいー」
抑揚のない声でいう雛森を神崎は軽くいなしてしまう。
「だから、それは俺の興味の範疇じゃないっつーの」
「逃げた」
「逃げてねえ」
「何故生きるのかというのはいつの時代も難しい話ですよね」
何事もなかったように結城が続けると、2人の掛け合いも終わりを告げた。
「よく人生を何かに譬える人もいますが、どれもなるほどと思いますが、心の中で求めているものではないんですよね。よく死は安定であるといわれますが、では何故不安定である生という綱渡りをするのでしょうか」
「綱渡りってとこだけを取りゃあ、他人を楽しませるってところか」
「茶化さないでくださいー」
「いや」雛森の嫌味にはとことん無視する方針らしく、神崎はふんというように顎に手をやった。「綱渡りっつっても楽しませるだけじゃねえか。昔マンハッタンの地上何十メートルだかを綱渡りした女もいたそうだし、つい6年前には中国の誰やらが綱の上で30日ほどを過ごしたらしいしな」
「1ヶ月も」
結城も驚きを隠せない。
「うん。確か、そいつの祖父かなんかが2000年頃に当時の世界記録を出してたっていうな。20日間くらいだったか」
「それもすごい」
「綱渡りってのは本人が一番喜んでやってるんじゃねえか。人生もそうなんだろ」
どうだ、結論を出してやったぞといわんばかりに神崎の視線が雛森に注がれる。
「なるほど。楽しむために生きている、と。でも、楽しいことばかりではないですよね。今の世の中じゃ、辛いことがたくさんある」
「昔ある動物学者がいってたそうだぜ。辛い部分だけ見てりゃあ、そりゃあ辛くもなる。世の中楽しいことで溢れているのに、どうしてみんなそれを見ないのか、とね。それに、人間は悪いことはすぐ忘れるように出来てるそうじゃねえか。つまりはそういうことなんだよ」
「生物はテロメアという燃料を使って走っている車ともいわれることがありますね。確かに、死という目的地までにいろいろな場所に寄って楽しむのが一番いい生き方かもしれませんね。まあ、理論上不死は実現可能ということらしいですがね。倫理が許さないでしょうね」
「昔『火の鳥』っつう漫画があってな、今も古典漫画として手に入れられるかもしらんが、それは不死鳥の血を飲んだ奴が転生する地上で1人孤独に苛まれる話だったらしい」
「私、ずっと生きてても嫌かな。先生にちょっと聞いたんだけど、兼好法師は死は生を輝かせるものだっていってたらしいし」
「彼は1000年生きててもしょうがないといっているしね」
「そりゃあ、死ぬことを知っている奴だけがいえることだろ。死なない奴はどう考えてんのかね」
「そんなのいないでしょ」
「木かな。屋久杉は今もあるけど、樹齢3000年とかはザラだよ。8000年ともいわれているものもある」
それでも、木は長い時間を生きているだけで、不死ではない。そういったことを結城自身が告げると、雛森は残念そうに唸った。
「じゃあ、本当に死なないものってないんですね」
「昔『ARMS』っつう漫画があった」雛森は神崎の言葉に、またかというように顔を背けた。「地球の生命体は全部が炭素的な生物だが、宇宙からやってきた生命体は珪素的な生物だったというんだな。いわば金属生命体だ。作中では5万年の眠りについていたらしい」
「ずいぶん詳しいんですね」
結城の感心深げな顔に神崎は得意げになる。
「学生の頃にポップカルチャーの研究をしていた」
「ポップカルチャーの研究?」
「一般大衆に根付いた思想の変遷を調べたんだよ。漫画もその一環だ。和歌なんかもずいぶん見たな」
「そうか、カタカナ語だと騙されますが、昔の和歌や随筆なんかもポップカルチャーに位置づけられますね。さっきの『徒然草』なんかも。それに、日記などは昔に流行ったブログのようなものですしね」
神崎はそうなんだよ、と身を乗り出した。
「時代を追うごとに資料集めが大変だ。今いったブログも手に入れられるのは一部の書籍化されたものだけだ。他のウェブ上に存在していたものは、情け容赦なく悉くが滅却されていた。コンピュータ化に伴って後世に残るものが極端になくなった。俺の研究の中では、っつう話だがな」
「えーと」結城が困惑げな表情だ。「生きているとか人を動かすものがとかいう話、どこまで話しましたっけね?」
「さあな」
結城は唸って立ち上がった。
「あ、どこかに行くんですか?」
雛森は不安そうに自分も腰を浮かした。
「ああ、ちょっと棒みたいなのを探そうと思っていたのを思い出したんだ」
「棒、ですか」
「そう、棒。映画館の扉は鍵がかからないからつっかえるものが必要かなと思って」
「いい考えだ。囚人が逃げないようにしなきゃな」
「私も行きます」
「大丈夫。ちょっと探して沙羅さんに渡してくるだけだから」
こともなげに断言されてしまっては雛森も取り付く島がない。憮然として座りなおすと、結城の背中を見守った。
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