12
沈黙といえば今までも何度か訪れた妖精のようなものだったが、このときのそれはまるで暗黒の奈落のようであった。誰も口を開かなかった。呼吸することも許しを得ねばならないような重苦しい空気。コンソールの微細な駆動音だけが静謐を乱していた。
その麻痺したような表情から一同が雷撃を受けたような驚きに枷を嵌められていることは容易に窺い知れたが、太田の驚きはその比ではなかった。彼は、L‐6へ続く唯一の経路であるL‐5にずっといたのである。片桐と言葉を交わしてからずっとだ。その片桐が死んだ……? 太田は自分が手に入れた謎を口にする前に強大な激流に飲み込まれたように放心していた。彼には俄かには信じられなかった。かといって目の前で蒼白な顔をした結城がこのような嘘をいうはずがないとも分かっていた。
「冗談じゃねえ!」
神崎が開口一番にそう叫んだ。
「どうせあいつが雰囲気を和ませようとかいってそんな嘘をつかせたんだろ!」
その言葉が太田には片桐の死を認めているように聞こえてならなかった。結城はもう一度口を開いた。
「本当に、死んでいるのです」
その言葉少なな訴えにもはや絶句以外の声はなかった。
「とりあえず、見ていただきたいのです。ええと、芽衣ちゃんと沙羅さんはここで――」
「私大丈夫です」
雛森の言葉に多良部も頷く。
「しかし」
太田はいったが、雛森の凄んだ眼差しの鋭さに身を引いてしまった。それを見守っていた結城は諦めたように一同を引き連れてL‐6へと向かった。鉛でも乗せられたかのように足取りは重かった。
結城のいう片桐の死亡現場までは口を開く者はいなかった。それぞれが最悪な現場を想像して心に備えているのだろう。L‐4を過ぎL‐5に到達すると、空気が半液体にでもなったかのような息苦しさを太田は覚えた。これを越えると、そこには死がある……。その思いがよりいっそう陰気さを増していくのだ。
片桐はゲーム機の傍らで仰向けに倒れていた。
もう動くことはない彼女の姿に全員の目が釘付けとなった。悲鳴などなかった。そこにはただ理解の容量を超えてしまった何ものかがあるだけだったのだ。
魅惑的な瞳を覆っていたあの黒縁眼鏡は、今では這い出したように鼻の頭辺りにかかっていた。その目は開かれ、見るともなく虚空を捉えている。顔面は、その死を伝え来た結城のように蒼白で、また彼とは違って一切の情念が読み取れなかった。半開きとなった口はもはやそこには意志などなかったとさえ物語り、全くの生を否定していた。細く白い腕は伸び、自らの腹部に達していた。そこは血に濡れていた。包丁が刺さっているのだ。人間に物が刺さっているという事実。そして、それに対しなんら感動を見せない片桐は、見る者に物質の損壊といったように生命の存在を忘却させた。根元近くまで突き立てられた包丁の黒い柄がまるで悪魔の腕のようであった。
片桐仁美は死んでいた。
5人は1人の死者に対し、言葉を持たなかった。ただ5つの影は横たわる彼女の上に重なり、沈黙という無言が交わされた。
「いつ亡くなったんでしょうか?」
結城の一声。それに答える形となった神崎の言葉はいやに冷静に正鵠を得ていた。
「普通に考えりゃあ、お前が殺したとしたっておかしくはないぜ。なんせ、お前が戻ってきてこいつが死んでいるといったって俺たちには確認しようがないからな」
「違う」
強い調子で否定したのは、雛森だった。彼女は躊躇なく遺体に視線を注いでいた。その目は鋭く、どこか冷たさを思わせた。太田は先ほど受けた強烈な眼光を思い出しながら、彼女をじっと見つめていた。同時に、不思議な少女だとも思った。血を流す肢体を前にして、彼女は何故こう毅然としていられるのだろうか。凛としてさえいる。
「片桐さんの手についた血が乾き始めてる。ということは、少なくとも15分は経っているっていうことです。結城さんが、モニターの接続状況の記述を見てL‐3から出て行ってから戻ってくるまで10分もかかりませんでした」
「何故、こんなことに……」
太田は呟いた。雛森の冷徹なまでの分析は確かだったようだが、何もかもが理解できなかった。
「最後に片桐さんを見たのは……」
結城は質問していたが、もはや問う必要はないといいたげにその目はもっぱら太田に向けられていた。太田もここは素直に頷く。
「ええ……。多分私でしょう。もちろん、犯人を抜きにしたとすればね。彼女と会ったのは」太田は腕時計を見る。1年で10万分の1秒しか狂わない優れものだ。太田は時計を見て少し驚いてしまった。望遠鏡映像を見ていた時間が思いのほか長かったようなのだ。「今から40分前の午後4時20分頃です。そのときは彼女は今と同じようにL‐6にいました。私が異状がないかと聞くと、ないと答えて、それから私に望遠鏡でLUNAの外殻を見て欲しいといいました。そうだ――」
太田はいうべきことがあったのを思い出した。それは、この片桐の死と同じくらい衝撃的なことだったのだが、口にしようとして今この場に相応しいことなのだろうかと自問した。
「なに黙ってんだよ?」
神崎に急かされるが、LUNAの外殻に何のダメージも見つけられなかったということをいえば、片桐の死を軽く見ていると思われると太田は感じていた。
「あ、いえ……、あの、その、そのときの彼女、なんか様子がおかしいような気がしたもので……」
神崎が怪訝な視線を突き刺す。それは太田の心中を見透かそうとする鋭いものだった。太田は、この男がいやに勘繰りのいい人間だと思った。居心地悪くしていると、
「もしかして、何か身の危険を感じていたのかもしれませんね……」
多良部が眉をひそめてそういっていた。結城がそれに応じるように口を開く。誰もが今までの饒舌を取り戻そうとしていた。話すことで、得体の知れない不安と陰鬱な空気を吹き飛ばそうという無意識からの行為だろう。
「片桐さんは前から刺されている。そのことから考えてもちょっと警戒していたのかもしれませんね」
「といっても、みんなここではじめて出会ったのであまり気を許してなかったのかもしれませんけどね」
太田は雛森の声を上の空で聞きながら、この光景をぼうっとして見ていた。どの顔も仮面を貼り付けたような無表情。ここにいる誰もが混乱の極みのさらに向こう側の境地に立ってしまっているのだと、太田は感じた。パニックを忘れ、半ば現実逃避的に彼らは現状に接しているのだ。そのために片桐の死を人間的に扱えていない。太田もまた、どうすることも出来ない1人であった。呆然としていた彼だったが、続く雛森の言葉に戦慄せずにはいられなかった。
「犯人は太田さんです」
太田は耳を疑った。雛森の瞳が照明を受けて光っていた。
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