11
破滅の残響の中で身じろぎのような揺れが続いていた。はじめの衝突と比べ、今回は規模が大きかったにもかかわらず、L‐3に集まった面々は無事に顔を見合わせていた。
「皆さん、大丈夫ですか」
真っ先に口を開いたのは結城だった。さすがの彼も落ち着きを取り戻すのに、時間を要したと見えて、その声には多分に自己を律するような強みが秘められていた。
「今のは、大きかったわね」
「またどこかが閉鎖されてたりするんじゃ……」
雛森の泣きそうな声と同時に、結城は今まで横たえていた体を起こし、L‐2へと駆け出していた。
「神崎さんの様子を見てきます!」
その叫びを残して消え去った背中に触発されたのか、片桐も駆け出していた。結城とは反対の方向だ。太田は、その理由を問う必要はなかった。彼もまた、彼女を追っていた。いち早くLUNAの現状を知らなければならないのだ。
その構造のために延々と続く緩やかな上り坂を駆けながら太田は何か知らない漠然とした疑念を抱いたが、ただ漫然と前を走る片桐を見つめていた。彼女は太田が後ろからついてきていることに気付くと緊迫した声で彼に告げた。
「あなたはこっちから見ていって。私は向こうから見ていくわ! どこに異状があるか分からないから気をつけて」
「分かりました!」
ぴたりと立ち止まると、駆け去っていく彼女の姿が風のように消えていった。太田はまずL‐4の状況を調べていくことにした。このエリアは大きく2つに分かれている。エリアを貫く通路を挟んで、先ほどまで議論をしていたレストランと、結城と雛森が宇宙食を物色した物販コーナーが顔を合わせている。
まずレストランに入った太田はあれほどの衝撃があったにもかかわらず先ほどと変わらない景色が広がっていることに驚いた。それと同時に結城のいっていた安全性の保証という言葉が頭をよぎる。
――なるほど、これは頑丈だな。
しかしそう思うと同様にある疑問が湧き出てきた。これほどまで内部へのダメージをなくする装甲を持っているのに何故L‐1の悲劇が引き起こされたのか。最初の衝撃は先ほどのものより劣っていたはずである。それが現にL‐1を閉鎖させ、果てはあの大パニックを巻き起こした……。
太田はその疑問を抱えつつ歩き出した。こういった異常事態でなければ入ることはないだろう厨房へも足を踏み入れた。部屋の真ん中大部分を占める銀色の巨大卓は広いIHコンロが座を占めていた。その上にはフライパンや鍋などが置き去りにされていて、中には調理途中のものも認められた。その巨大卓の両脇は底の深いシンクになっている。卓の上部はもう一段棚が築かれていて、そこには調理器具が所狭しと置かれていた。ぶうんという音に目を転じると、不恰好な巨大パーシャルが厨房の隅に佇んでいる。部屋のぐるりを取り囲む作業スペースには切りかけの野菜が無残に放置されており、最初の衝撃のときの状況を想起させた。それでも、異状というものは目に入らない。
――しかし。
と太田は思う。様々の疑惑が彼の中には渦巻いているのだ。
スタッフさえ脱出できたこの状況に、一般人である彼らが取り残されているということ。
例の頑丈さと現状との辻褄……。
甚大な衝撃にもかかわらず内部の何一つ身動きしなかっただろうこと。照明もどれひとつ取ってみても煌々と照っている。
太田は、これはまた後でルナを交えての議論が必要だろうなと感じていた。
物販コーナーも見回り、L‐4には何の異状もないことが太田の目によって明らかとなった。彼は一度L‐3のほうに目をやったが、思い直してL‐5へと足を運んだ。
擬似ホログラムの小宇宙が輝いている。乱れのない画像が、このLUNAに波風も立てなかったことを暗示していた。あの衝撃など、なかったこととなっているのだ。太田は望遠鏡を目にしながら、ほんの数時間前に見た宇宙の宝石のような輝きの美しさを思い出していた。ところがどうだろう。その輝きの中に入ってしまえば、そこもただ死の空間であることに変わりはないのだ。現に、ここでは死を覚悟したような絶望の水増しが広がっているのだ。ふと、彼は窓を覗き込んだ。正直、彼は窓の外の景色を見るのを今まで躊躇っていたきらいがあった。あの衝突によってLUNAがその身を宇宙の永遠の彷徨に落とし込んでしまっているのではないかと危惧していたのだ。
衝突によって、衝突物とLUNAの間に生じる反発力はこの2つを永遠に引き裂くだろう。そして、星の海である銀河を抜け出たとあれば希薄なガスの支配する寂しげな銀河間空間へ放り出されるだろう。巨大な鞍をどこまでも滑り続け、やがては永遠の淵まで無限の航海をすることになるのだ。
しかし、窓の外は彼に優しい現実を教えてくれた。遥か向こうには青く光る星が見えていた。
――地球。
無量の光の海に至ってはそれはある可能性のひとつでしかないのだろうが、今では太田はこの星に奇跡を見出していた。未だに月にしか基地を持たない人類にとって、そこは還るべき場所なのだ。
太田はそうしてしばらくの間窓の外を眺め続けていた。それは一種の現実逃避かもしれなかったが、彼自身はそうではないと信じたかった。この宇宙はどこか人の心を掴んでやまない何かがあるのだと、そう思っていた。
太田は後に聞くところに知るのだが、LUNAには姿勢制御のシステムが備わっていた。そのために、LUNAはこの宙域に留まることが可能だったのだ。
L‐5にも異状はなかった。太田はL‐6の方向に視線を向けた。先ほどのL‐4の調査のときに片桐が引き返していなければ、そこには彼女がいるはずだった。一般にはエリア・ゲートと呼ばれる空気制御室、その5番目を抜けてL‐6に出る。相変わらずゲーム機たちは鎮座するばかりだった。ぐるりと見渡すと、片桐の姿がない。
「片桐さん!」
口元にメガホンを作って叫んでみる。すると、早く反応があった。彼女はゲーム機の影から姿を現したのだ。
「どうしたの?」
叫びに対して彼女の静かな声はひどい落差があった。
「ああ、いや、姿が見えなかったもので……。異状はありましたか?」
「いえ。どこにもないみたい……」
「おかしいと思いませんか? 前回のときはL‐1が閉鎖された。今回は前よりも強い衝撃だったのにどのエリアも閉鎖されないどころか何の異状も発見されないなんて……」
太田はここで少しの議論のやり取りを期待していたのだが、片桐の反応はどこか鈍かった。上の空といった感じで相槌を打つだけなのだ。太田は首を傾げながらも自説というほどのことでもないが、それを口にした。
「私は、何かがあると思います。絶対におかしい。色々と疑問に思うところがあるんです。たとえば――」
先を続けようとする太田を遮るようにして思案した顔のまま片桐が口を切った。
「そうね……。でも……、そう、L‐2は見たの? 見ていないのなら、もしかしたらそこが……」
「まさか……。あそこには結城さんと神崎さんがいるじゃないですか」
「まさかでも、起こりえることは起こりえるでしょう。でも、あの衝撃でL‐2が被害を受けていたとしたら考えられないことがあるわ」
「え?」
L‐2被害説を呈した彼女自身が否定するのを見て太田はちょっと混乱した。
「結城君が走っていったでしょう? あれは衝撃のあった後だった。もし、L‐2が甚大な被害を受けているのだとすれば、最初の衝撃のときを見れば明らかなように閉鎖されたはず。でも、そうではなかった……。だから、希望的観測というよりは、L‐2が無事だというのは明白なことなのかも」
太田は得心した。それと同時に自分には注意力や観察力がないのかとも思い当たったのだった。
「それと」片桐はゲーム機から顔を出したときと同じ姿勢のままで話していた。2人の間には何か知らない空気の帯のようなものが見え隠れしていた。「まだだったら頼みたいことがあるんだけど、望遠鏡でLUNAの外殻を見て欲しいの。何かあれば見つかるかもしれないわ」
「ああ、そうですね。確か近傍観察の機能もついていましたっけ。分かりました、見てみましょう」
「お願いするわ」
太田は目的を与えられたことで原動力を得、それが彼を走り出させた。その背中を片桐はそっと見守っていた。
太田がL‐4寄りの望遠鏡の前で設定を弄っていると、背後から声がかけられた。その透明感に溢れた声はひとつで多良部沙羅だと太田に直感させた。
「太田さん」
「ああ……」太田はここで少し渋っていたが口を開いた。「沙羅ちゃん。どうかしたのかい?」
彼女は眉尻を下げて訴えるように胸の前で手を組んでいった。
「ルナが、ルナが返事をしないんです」
「なんだって?」
それまで半身は望遠鏡のほうを向けていた彼だったが、今ばかりは望遠鏡のコンソールから手を離して多良部を直視していた。2人はそうしてしばらく見つめあっていた。左の目の下にほくろが1つある。白磁器のような肌にそれは一点のアクセントを与えていた。やや垂れ気味の目。多良部はその表情から太田に救いを求めているようだった。一方、太田は彼女の訴えを少し怪訝な気持ちで聞いていた。こういった問題にうってつけの結城がいるではないか。
「結城さんはなんていってる?」
「それが……、神崎さんと何か話してるみたいなんです」
その様子からどうやらよからぬ雰囲気であるらしい。
「太田さんは今何をしているんですか?」
「ああ、この望遠鏡でLUNAの外殻を見ようと思ってね。今設定を変えていたところなんだ。でも、そういうことなら俺が2人のところにいってみようか」
「あ、いえ、そういうことなら大丈夫です。急いでも何も分からないと思うし、結城さんたちには私が話をしてきます」
「大丈夫かい? やっぱり俺が……」
多良部はにこりと笑う。
「大丈夫ですよ。私これでも神経が太いんです」
「そう……いや、それならいいんだけど、でももし危なかったらいってね」
力強く頷き、立ち去っていく多良部の後ろ姿を見えなくなるまで見つめていた太田は胸のうちに湧き上がる後悔を噛み締めながら望遠鏡画面を見た。
太陽光を受けた白亜の外殻が眩しい。鮮明な画像の中で静かな時が流れていた。潰された円柱形をしているLUNAの平面に望遠鏡は設置されていた。LUNAの表面は凹凸があり、それが白と黒のコンビネーションを見せていた。そして、平面と円周の交わる角には等間隔に赤く明滅する光源がある。そしてルナの中核、ルナ・ゲートは黄色やオレンジの光で満ちていた。あの場所に、6人は辿り着けないのだ。太田はそう思い、落胆たる思いを身に染みて感じた。
望遠鏡を操作し視界を刻々と変えていくのだが、LUNAの体に〝らしき〟傷跡など何1つなかった。太田は見落としでもあるのかと幾度も幾度も望遠鏡を回し続けた。それでもないのだ。
そこで太田はあっと思い当たった。これは平面の片側しか観察していなかったのだ。望遠鏡はその場に固定設置されているので、場所自体を移動させることは出来ないのだ。彼は一旦モニターから目を離すと再びコンソールに向かった。このモニター・ヴィジョンと望遠鏡とは構造的な繋がりは回路だけである。だから、他の望遠鏡を覗きたいときには、別の場所へ、というような煩雑な手間が要らない。設定を変えれば、他の望遠鏡を使用することができる。もちろん、他の望遠鏡が使われていればそれを同時に使用することは出来ないのだが、今はそんなことは心配するに値しなかった。
意気揚々と反対面の状況を観察する太田であったが、それは徒労に終わった。こちら側にも異状は見受けられなかったのだ。彼の脳内にはあらゆることへの懐疑の念が、まるでダスト・トーラスのような強烈な渦を見せていた。それは次第に摩擦による熱量を生じて、彼に精神的な頭痛を与え始める。
――どうしてL‐1は閉鎖されたんだ?
無音の中、太田の心臓の鼓動だけが響いていた。それは興奮と同時に未踏の地へ踏み出した者たちが抱える不安でもあった。望遠鏡画像を前に、太田はシートに体を完全に預けていた。自分の発見した事のあまりの重大さに放心の体だったのだ。
しばらくそうしていたが、気を取り直して頬を叩いた。この事実を報告しなければならない。彼の足は自然とL‐3の彷徨へと向かっていた。
L‐3へ向かう途中、L‐4のレストランへの入り口を過ぎたところで前方から結城が駆けてきた。その顔には焦りが認められる。おそらくルナのことだな、と太田は見当をつけた。
「結城さん、神崎さんとはどうされたんですか?」
彼は苦笑して頭の後ろに右手をやった。
「ええ、ちょっと彼がさっきの揺れで興奮してしまったらしくて、それを抑えようとしていたんですがね……。まあ、沙羅さんが途中でやってきてくれたのもあって何とかなりましたが」
「それで」太田は少し声を潜めた。「ルナが返事をしなくなったと沙羅ちゃんはいっていたんですが、どうなんですか?」
「ええ……。多分さっきの衝撃が原因じゃないかと思うんです。回線状況などは表示されるんですが、ルナ自身はコミュニケーション能力を全く失っています。あるいは、認識能力はあるのかもしれませんが……。それで、今望遠鏡が使われているということで様子を見にきたんです。それと、L‐6にも――」
「そうなんです!」太田は勢い込んでいた。「聞いてください。LUNAの外殻になんらダメージがないみたいなんです!」
「なんですって!」
「これは一体どういうことなのか……」
「それはあとで検討してみましょう」
結城は太田の脇を通り過ぎようとした。
「あ、どこへ?」
「L‐6に行ってきます」
「確か……あそこには片桐さんがいましたよ」
「ええ。L‐3で待っていてもらえませんか?」
彼はそういい残して走り去っていった。太田は不思議に思いながらもそれを見送るとL‐3へと向かった。
さきほどまでルナが光を見せていたモニターの前に3人は所在なげに立ち尽くしていた。雛森と多良部は隣り合っており、神崎はふてくされた表情を隠そうともせずに少し離れたところでタバコを銜えていた。紫煙が広がりを見せて、その場に停滞した澱みのようになっていた。これは片桐が戻ってくれば大事になるため、注意しようとした太田だったが、それは憚られた。そういった雰囲気ではなかったのだ。彼を諌めることで更にこの空気が悪化すると思われた。
モニターに目をやる。真っ黒な画面に白く小さい文字が出力されている。太田が顔を近づけてみるとそこにはこう記されていた。
「Now connecting……L-6 Line illegal」
「イリーガル……? L‐6?」
小さく呟いた彼の言葉に反応する者はいなかった。だから、太田もまた3人と同様に居心地の悪い中、目のやり場をモニターに求めていた。すると、文字に変化があった。ふっと消えたのである。
「一体何が……」
太田は3人に向き直る。話し辛いなどとはいっていられなかった。多良部だけが首を横に振った。
どたどたと足音が聞こえる。2人が戻ったのかと思ったが、それにしてもどちらの足音にも似つかわしくない。
「皆さん!」
結城が叫んでいた。その頬は蒼白であった。目は高揚に満ちて鋭さを増していた。唇も蒼く乾いたようにひび割れている。尋常ではない様子だった。結城は一同を見つめてただ一言、こういった。
「片桐さんが死んでいます」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます