10

 目の前で自らを冷静に分析されるというのは一体どういう心境なのだろうか。ルナはといえば、じっと片桐を見ていた。先を促すでもなく、なにやら神託を待つ賢者のような様相だった。

 すでに神崎が去って久しいL‐3には、5人の群がるコンソールの駆動する静かなひゅううんという音が流れていた。過ごしやすい室温の中、モニターからの機械的なにおいを含んだ熱が5人を照らし出していた。

「今のように」しばらく続いた沈黙は片桐によって当然のように破られた。「ルナは順序だてて説明されると、現状を把握することが出来るのよ。それまでは、なんというのかしら、なかなか現状を認めなかった。そういった現実逃避をしてしまっていたのよ。ルナ、L‐1の状況をよく見てみて」

「はい」

 L‐1の状況を見る、といってもその現場に直接赴くわけではない。数秒の間があり、ルナは結果を伝えた。

「L‐1は現在完全に閉鎖されています。内部は極低圧になっており、非常に危険な状態です」

 一同に一瞬の感動めいたざわめきが走る。

「治ったの?」

「――というよりは、元に戻ったというべきかしらね」

 雛森の言葉はルナに対してされたものだったが、片桐がそれに応じた。彼女はルナに返事を求めるように穏やかな眼差しを彼女に対して向けていた。

「では」結城が一歩前に踏み出していた。「L‐1に取り残された人はいますか?」

 ルナは即座に首を横に振った。そして、口元にほのかな笑みを浮かべて、

「いらっしゃいません」

 といった。そこには安堵で胸を撫で下ろした様子が刻まれていた。それはモニターの外の面々も同じことで、一様にほっとしたような空気が到来していた。

「とりあえずは、杞憂ということでよかったですね」

「あとは早く救助がきてくれれば、いうことなしなんですけど」

結城と雛森が顔を見合わせて緊張の解けたように言葉を交わす。片桐はといえば、そんな結城に対してなにやら意味ありげな視線を送っていたが、当の結城はそれに気付いていなかったし、太田とてそれを目撃したもののその真意は測りかねた。

そういったゆったりと流れ始めた時間の中に、多良部という奔流が混じり入ると少し形容しがたい不穏な予感というか、底の見えない闇といったようものを一同に感じさせることとなった。

「あの、ちょっといいですか」

 うつむき加減になにやら思案していた多良部が一握りの恐縮さを持って呟くと、磁石の引き合うように全員の視線は絡み合った。彼女の白い肌が無機質な様相を呈している。

「ルナが現実逃避していたらしいということは、なんとなくそうなのかなと思ったんですが、そう考えるとよく分からないことがあるんです」

 彼女は一旦ここで間を置くと、反応を確かめるように面々に目を巡らせた。応答はなかった。誰もが、この寡黙な少女が次に何をいうのか固唾を呑んでいるようだった。

「事故が起こったことに対してルナは現実逃避したんですよね。だから、現状になんら異常を見出さなかった。だとすると、どうしてL‐1は閉鎖されたんでしょうか? ルナにとっては、さっきまでのように異状はどこにもなかったはずなので、L‐1を閉鎖する理由がないと思うんです」

 いわれてみればそうだと、太田はこの少女の顔をじっと見つめてしまった。長い黒髪と漆黒の瞳が純白の肌に映える。幅の小さな薄紅色の唇が今ではきゅっと結ばれている。細く緩やかな弧を描く眉の下で長い睫が双眸を隠した。その雰囲気から、どこか深窓の少女というような淑やかさを見出していた太田だったが、こうして疑問を投げかける様を見ると、奥深いところに強い芯が通っているのではないだろうかという思いを胸の内に発火させないわけにはいかなかった。

「もっともな意見だと思うけど」長い吟味の時間を取り考えを纏め上げたのか、片桐が彼女に答える。「これは人間的な精神の活動と機械的な行動理念とがせめぎ合って起こったことじゃないかと思うの。現実逃避はもちろん人間的なものね。機械的なものというのは、さっきもいったと思うけど、アーキテクチャによる優先行動よ。さっき結城さんもいったけど、これには人命の保護が記されているわ。ルナは現実逃避しながらもこの内なる命令に忠実に行動した。その結果、いわば無意識的ともいえるような状況でL‐1を封鎖したのだと思うわ。ルナはL‐1が閉鎖されたことを知らなかったといっていたけど、実際には無意識で気がついていたのよ」

 いい終わると、彼女は意見を求めるように目の前に居並ぶ顔を見渡した。多良部はそこでまた口を開こうとしたのだが、結城が話し出すのを察知してその場は彼に譲った。

「確かに一理ありますね。……ただ、実は僕にはひとつ不思議なことがありまして。それを多良部さんもいいたいのではないかと思うんですが」

 結城が多良部に目をやると、少し驚いたような表情が返ってくる。

「沙羅でいいです」

 雛森を同じことをいう。最近の女の子は名前で呼ばれたがるのかな、と太田は些細な疑問に思い当たっていた。

「そう、沙羅……さん」

「え、何でわたしはちゃん付けで、沙羅ちゃんはさん付けなの?」

 雛森の場に似つかわしくない質問に一同は苦笑いしていた。

「いや、なんとなくというか……。その……なんとなくというか」

「なんか、子供扱いされてるようで悔しいわ」

 いくらか芝居がかっていう雛森に、結城はただ謝るばかりだった。多良部は雛森の肩にそっと手をやりながら先ほどの続きを始めた。

「そう、多分結城さんも同じことを考えていると思うんですけど、例の事象計算システムのことなんです。そして、それを考えるとやっぱり衝突の原因が不思議に思えてくるんです」

「事象計算システムというのは、さっきも説明していましたが、どんな感じのものなんですか?」

 太田の挟んだ質問に結城は少し思案げな表情を見せた。なにやら思惑があるようだった。

「歴史の転換点を総じてジョン・バール分岐点と称することがありますが、何をもって転換点とするのかは様々な意見に分かれそうですね。というのは、どんな些細な事象でも歴史は転換しうるからです。たとえば、ある時点においてある人物が右を見るのか左を見るのかによってでさえ後の時間に影響を与えるかもしれないからです。

「ルナの事象計算は、そうした些細なこと全てではありませんが、あらゆる場合に系統樹を設けて、その先の事象がどのように展開していくかをある程度まで予測することが出来るのです。たとえば、さっきからちょっといっているシュレーディンガーの猫に関していえば、箱を開けたときの枝分かれとその後の事象を同時に予測するのです。いわばエヴェレット的な多世界解釈を体現したようなものがルナのAIの中で展開されているわけです。簡単にいってしまえば、広大な広がりを持った系統樹が示されているということです。まあ、超ひも理論を基礎にしたものと考えてください」

「その最も根源はどうなっているのかしら」

 片桐は独り言にしてははっきりした声でそういっていた。彼女は他の人間の視線が自らの集まっていることに気づくと、

「あ、ごめんなさい。でも、私は時々考えてしまうのよ。どんな出来事も結果を伴うというけれど、では、その原因の原因はなんなのかしら?」

 各個人が彼女の言及に感化されて考え事をしているようだった。ルナは先ほどから黙って人間たちのこうした議論に耳を傾けていた。その表情からは心中は察することは出来ない。

「今の場合に照らし合わせてみれば、私たちが今ここに集まっている原因は? それはレストランでの議論からここでルナとのコミュニケーションが必要と感じられたから。レストランで議論したのはどういった経緯から? LUNAに原因不明の出来事が発生したために私たちが取り残されたからよ。何故LUNAにそういうことが起こったのか? 何かがLUNAに衝突したから。何故衝突したのか? 『ラー』システムが発動しなかったから。『ラー』システムが発動しなかった理由は分からないけど、この問題はLUNAが存在したからこそ生まれたものよね。LUNAが生まれたのは、そういう計画があったから。もちろん、その計画が発足するにあたっては、それを実現させるに足る技術力が必要になる。これらの技術を発達させたのは、非常に残念な話だけど、戦争だったりするのよ。今の技術は当時に開発されたそういった技術を基盤にしているの。では、そういった戦争は何故起こったのか。様々な主張が競合したためね。それらは人類がいろいろな地域に分かれた、いわゆる民族として生きてきたから。そもそも、人間が生まれなければ、この問題は持ち上がらないわ。人類をはじめとした生物はかつてひとつの単細胞だったというわね。そして、そんな細胞が誕生するきっかけとなったのは、この地球の環境にある。地球があったからこそ、細胞が生まれたともいえるわね。そして、地球は太陽がなければ誕生しなかった。太陽だって銀河がなければ誕生しなかった。そもそも、宇宙がなければ銀河は誕生しなかった……。じゃあ……宇宙の原因は?」

 ほんの数分だったが、時間の遡行を目前とした太田は膨大な想像力を総動員させて刻々と脳裏のイメージを変化させていった。

「宇宙のはじまりに関しては分からないんですが」結城が口を開くと、今まで片桐に集まっていた視線が一斉にそちらへ動くのがやけに芝居めいて太田には見えた。「シヴァルツシルト半径、いわゆる事象の地平線における放出を考えるときに、真空中での状態が引き出されますね。真空中では〝揺らぎ〟が生じるというのです。プラスとマイナスの粒子が発生するからだと説明されるわけです。シュヴァルツシルト半径を挟んでこの2つの粒子が発生した場合、一方はブラック・ホール内部に落ち込み、もう一方は外側に動くという可能性が現れます。そのために、ブラック・ホールは放出を行っているというのです。だから、観測されているということでしょうか。その真空中の〝揺らぎ〟が宇宙の始まりとしてのエネルギーを秘めているとは思いませんがね。

「ホーキングの予言したように、宇宙にははじまりの点がないというのは超ひも理論によって確かめられています。今の宇宙モデルは、5次元の中にそれを投影するホログラム版ともいうべき4次元のDブレーンが存在する形になっています。また、その4次元Dブレーンは複数が存在していて、それがぶつかることがビッグバンといわれています」

 片桐は、太田にとって理解不能なこの理論に元から関心を持っていたようで、なんなく頷くと、それでも否定的な姿勢を見せた。

「虚数的世界の情報が投影されたのがこの世界というものね。それは分かるの。でも、私がいうのはそれも全てひっくるめた〝∃(存在)〟そのものの原因よ。言葉が少なかったからだけれど、宇宙というのは、その4次元Dブレーンというよりは、全体を含めてのことをいったつもりだったの」

 雛森が座席から顔を出してこれに交じる。

「何かの本で読んだんですけど、重力を調べるとそれが分かるんですよね。結局はまだ分かっていないみたいですけど、やっぱりずーっと『これが大枠』っていうのが出てきちゃうんじゃないですかね?」

「無限連鎖の仮説ね」

 太田にはこの場で口を出すような知識がなかった。片桐は、そんな太田の心情を露知らず、議論に花を咲かせている。

「そもそも、光速度不変が破れた今となっては更なる観測が必要なわけだけれど、新しい観測結果を得るには時間が経つのを待つしかない――つまり、より新しい技術が必要といわれているわね」

「ええ。光子がこの世界の根源的なものではないというのは、ダークエネルギーの存在が知られた頃から囁かれていましたからね。世界を計る新しい物差しを探すために、人類はこの先かなりの時間を要するといわれていますね」

「あの――」太田はついに根負けして口を開いた。本題の議論の途絶したポイントを記憶の中にキープするのにそろそろ多大な労力を必要とすると彼自身が予想したのだ。「それで、事象計算の話なんですが……」

「あら、ごめんなさい」

 話が脇道にそれた原因を作ってしまった片桐が即座に頭を下げた。同時に、今まで沈黙を保っていたルナの声が太田にかけられる。その声は笑いを含んでいた。

「太田さん、お話についていけなかったんでしょう?」

「ま、まあ、そうだね。そういうルナは今の話を理解していたのかい?」

 やり込めようとする太田に対してルナは得意げな顔つきで答えた。

「わたしは、分かりましたよ。地上と情報の連結が行われているので、そういうのは耳が早いんです。もっとも、今はそれが出来ないんですけど」

「うう……」

 唸り込んでしまった太田をフォローするように、結城が気を取り直したように両手を広げた。

「衝突の原因に疑問を感じている、と沙羅さんはいっていましたよね?」

 今までの原因連鎖や宇宙モデルに関する議論に加わりを見せなかった多良部がここでようやく口を開く機会を得たことになる。

「さっきの片桐さんの原因追跡を例にとってみると、何らかの原因があって『ラー』システムが発動不能になり、それが原因となって何かが衝突したということですよね。そして、ルナには事象計算システムがあって、膨大な系統樹を予測していくことが出来る。ならば、衝突はルナにとって予測可能なことなんじゃないでしょうか。更にいえば、『ラー』システムが発動しなくなることも予測しえた……。ルナはそれを知っていながら、何もしなかった、あるいは出来なかった。これって、必然の出来事というんじゃないでしょうか? 私が気になっているのはまさにそこなんです。これがもし必然のことならば、どういうことになるんでしょうか? この事故が起こった理由があるという、そんなことってあり得るんでしょうか?」

 多良部から発せられた幾つもの疑問符。それはすべからく全員を絶句せしめた。やがて、その無言からいち早く立ち直ったのは片桐であった。彼女は機転を利かせて、というよりもこの疑問に立ち向かう者なら誰もが思いつく当たり前の行動に出た。ルナに面したのである。

「ルナ、そのことについてはどうなの? あなたは全てを知っていた?」

 全員の視線を受けて困り果てたルナの表情は、どう説明したものか考えている風だった。

「結果論的には、わたしは知っていたということが出来るかもしれません。でも……同時に知らない、知らなかったということも出来るんです」

 矛盾した回答。一同の脳裏に疑問符が浮かぶ。ここで結城が口を開いた。

「ルナの事象計算システムは、常に更新されていくのです。知覚する範囲内に唐突にXという事象が流入する場合が常だからです。それに、系統樹の分岐を経たときに選択されなかった事象は捨てられるのです。過去はすでに決定された事項ですから、そこにこのシステムを適用する必要性はありませんからね」

「あの」雛森が左手を小さく上げて発言する。「その、Xっていう事象が起こるとどうなるんですか? 予測できないものが急に出てきたら混乱しちゃうんじゃないでしょうか」

「芽衣ちゃんは多分それと今回の事故を関連させて考えようとしていると思うんだけど、それは今は当てはまらないかもしれないね。

「ちなみに、質問の答えだけど、これはルナのようなAIに限らず人間にもある問題なんだ。簡単にいうと、混乱してしまうわけ。これが今回の事故では、デブリか何かが衝突したことが原因と考えられているけど、その原因がルナの認識範囲内に突如として発生したはずはない。必ず認識範囲外から中へという動きがあるはずなんだ。そういった場合、事象計算が適用されて適切な処置が実行される。もちろん、『ラー』システムもきちんと発動されることになる」

「時間は不可分です」結城の話を受けてルナが続ける。話はここで本題へと突入する。「だから、勝ち残った系統樹――過去の凝集した可能性が決定されたときに今という一瞬が立ち現れるんです。実は、わたしには予測した内容を発する権限が与えられていないのです。というより、そうすることが不可能なんです。前意識ともいうべきレベルの問題ですから、それを知覚することが出来ないんです。もっとも、予想という形で蓋然性の高いものに対しては発言することは出来ます。そんなわけで、さっきいったように知っているけれど知らなかったというようないい方になってしまったんです。混乱させてしまってごめんなさい」

 そういって彼女は慇懃に頭を下げた。

「知り得たけど、発し得なかったということね。あなた自身にも認識し得なかった」

「そういうことです」

 多良部は釈然としない風に口元を歪めていた。他の者も同様とはいかないまでも、ざわついた空気感はこの場に澱のように腰を据えていた。そんな中で片桐の口が動くと、自然と注目が集まる。その目は奥底に煌々とした光を孕んでいたように、太田には見えた。

「ということは、事象計算と事故の発生は無関連ということね。事象計算のミスではないのよ。ということは――」

 そのときである。

 LUNAを再び揺さぶる衝撃が襲ったのだ。遠雷の轟音のような音の波が響き渡り、一同の頬には絶望が強張って張り付いた。強大な地震を思わせる震動は際限を知らぬようで、5人は即座に床に投げ出された。

大きな悲鳴はない。そこはただ死への恐怖が支配していた。

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