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 耳聡く結城の小声を聞きつけた片桐は彼に説明を求めた。雛森は、自分の後ろで展開される会話に遅れまいと座席に横向きに座り直すと、顔を上げて聞く体勢を整えた。

「このL‐3以外では相互のやり取りこそ出来ないルナですが、実は情報はきちんと受容しているのです。高性能の小型カメラによる視覚情報と、音波感知装置による聴覚情報。さらに空気状態の感知も可能になっているのです。つまり、この内部はLUNAの体内であると同時に彼女にとっての社会的人間的世界でもあるのです。『ラー』システムやその他状況把握のために外部、つまり宇宙空間にも知覚情報を受容する装置はありますが、これらどちらかというと機械的に処理しています」

「それが麻痺している、と?」

 太田の疑問に結城は「ええ」といって答えた。続けようとするが、それよりも先に雛森が口を開いていた。

「え、それってどういうことなんですか? 麻痺って、そういう情報が分からなくなるってことですよね。普通、そういう時って自分でもおかしいって気付きません?」

「そう。鋭いね、雛森さん――」

「芽衣、でいいですよ」

「ああ、そう、芽衣ちゃん。確かに、そうなんだよ。確かに、麻痺すれば気がつく。それは、触覚を持たないからといってルナには当てはまらないということはないんです。だいいち、視覚による情報も麻痺しているなら、いくらなんでも気がつくはずです。しかし、こういう事例があるんです。

「何らかの原因で、たとえば右大脳半球にダメージを負った場合には左半側無視という症状に陥ることがあります。文字通り左半分の視界の情報を脳が勝手に無視してしまうのです。患者は見えていないことに気付かないのです。これを確かめる実験というものがありまして、ランダムに描かれたたくさんの短い線分のある紙を用意し、患者にはそれに交わる線分でもってチェックを入れてもらうのです。すると、この左半側無視状態の患者は右側の線分だけはきちんと全てチェックするのですが、左側のものには一切手をつけずに終えてしまうのです。テストする側の人間が紙を動かしてチェックの入れられていない部分を右の視界に移してやると、そこでようやく自分がチェックを終えていないのだという事実に気付くというのです。だから、日常生活においても、たとえば左側にあるものにしょっちゅうぶつかってしまったり、顔の半分だけ化粧をしてやめてしまうということがあるのです。もう化粧をし終わったと思い込んでいるというか、見えていないからこそ、そうなってしまうんです」

「そんな、症状があるんですか。怖いですね……」

 雛森は、顔の半分だけメイクした自分を思い描いたのか、両肩を自分で抱きしめていた。

「それでも、頑張っている人がいるんだから、大切に扱わなければならないのよ」

 片桐に肩を叩かれると、雛森は気を取り直した様子で頷いた。結城はまた続ける。

「今のは少し特殊な例でしたけど、実際健常者にも見えているのに見えていないということがあるんですよ。ごく身近な事例は、サッケード眼球運動というものです。たとえば、小説を読むとしましょう。こうやって読んでいくうちにまともな本であれば、このように改行が訪れるわけですよね。このとき、行の一番最後から次の行の一番頭までの間、僕たちの目には確かに他の文字が見えているんです。でも実際に眼球の動きを見ていくと、改行まではゆっくりと文字を追っているのに、行の頭へは非常に急速な運動を見せるんです。この動きをサッケードといい、この運動中は目に入った視覚情報は見ることができないのです。もしサッケード中にも文字が見えていたとしたら、高速度の中で飛び込んでくる情報の膨大さに頭痛を引き起こすことになるでしょうね」

「あー、確かに」

 雛森は本を読むときのことを思い出すように視線を上に彷徨わせていた。

「なんだか、これから本を読むときにちょっと意識してしまいそうですね」

 多良部の言葉に一同も同意する。

 ――見えているのに、見えていない。そして、それに気付かない……。

「じゃあ」太田はいった。「ルナにはL‐1の状況がサッケード運動の中で無視されているんでしょうか?」

 結城は少し唸ってから首を振った。

「いや、おそらくあり得るのだとすれば、先に紹介したほうが可能性が高いかもしれません。サッケードといってもL‐1の状況や、今のLUNAの状態が今まで見えなかったということはないと思いますよ」

「でもわたし……」

 ルナの鈴のような声がした。太田は、彼女の口癖はこれだな、と取るに足らないことを考えていた。

「そのような、損害を受けた覚えはないんですよ。結城さんのおっしゃるとおりならば、わたしは何らかの害を被っていなければならないんです」

「それが、あの衝突なのよ」

 と片桐。しかし、ルナはこれに反駁する。

「その衝突も、わたしは知らないのです。もし、その衝突が元でわたしが何らかの記憶障害を引き起こしていたとしても、それ以前にはわたしはちゃんとしていたんですよね。だとすれば、『ラー』システムは起動して、衝突はなかったはずなんです」

 ――なるほど。

 ルナのいうとおりだと、太田は、その冷静な分析に賛成せざるを得なかった。『ラー』システムの不調が今回の事故の全ての発端なのだ。そして、その原因は未だに不明。

「ちょっと試しに聞くんですが」結城はルナに向かって提案する。ルナは小首を傾げて、彼が何かいうのを待っていたが、その愛らしい仕草に太田は目を奪われていた。「今神崎さんはどこで何をやっているか分かりますか?」

「ええ。今はL‐2の映画館の中で映画を見ながらタバコを吸っていらっしゃいます。あそこは禁煙なのですが……」

「はあ」片桐も頭を抱える。「気楽なもんね」

「ねえルナ、そんな敬語使わなくていいよ、あんな奴にさ。ルナだって泣かされたんだし、その位したほうがいいよ。ストレスためないでさ」

 雛森は頬を膨らませて訴えている。神崎にひどく恨みを持ったようだ。太田は些細な質問をする。フランクなのは彼女に好感を持ったからだ。

「ルナもストレスを感じるの?」

「はい、感じますよ。だから」ルナはここで大きく息を吸って大声を上げた。そこには感情を込めるというより、一種のポーズのような印象があった。「あんな奴、もう、ふざけるなー! っていいたいんですけど、やっぱり性に合わなくて……。人を悪くいうのは」

「充分いってるじゃん」

 雛森の突っ込みにルナは頬を赤らめた。結城も、

「それくらいがちょうどいいですよ」とうそぶいていたが、真面目な顔を取り戻すと、先ほどの議論の続きを始めた。「というように、とにかくルナはちゃんと機能しています。それが――」

「ちょっと待ってよ」

 片桐の制止に結城は怪訝な表情と共に口を閉じた。片桐がその先をいおうとするよりも早く、多良部がその静かな声を割り込ませた。

「今のルナのいったことが本当かどうかを確認しなくていいのですか?」

 5人はお互いに目を合わせあっていたが、各人がぽつりぽつりと結論を導き出した。誰もが口を尖らせて、いいわけじみた雰囲気を醸し出していた。

「まあ、多分合ってるだろうし……」

「あんな奴が何してるか調べにいく必要もないしね」

「シュレーディンガーの……」

「いかにもあの人がやってそうなことだし……」

「……ぶっちゃけどうでもいいか」

 5人と、そしてルナを含めた視線が再び結城に集まると、何事もなかったように彼は続ける。

「というように、ルナはちゃんと機能しているんですが、それが異状には何故か気付くことができないというのは、やはりセンサ類の何らかの故障が原因なのではないかと思うんです」

 この結城の結論には太田は承服しかねた。

「しかし、そうなると、センサが働かないことにルナが気づいていなければならないわけですよね。ルナ、そういった異状を察知できるかい?」

 ルナは目を閉じて首を横に振った。長い髪がふわっと広がって首元を軽く叩く。

「実際に、あなたにはL‐1の状況はどのように見えているのかしら?」

「正常です。閉鎖されていません」

 真摯な眼差し。太田は疑うわけではなかったが、これは嘘をいっているのではないのだと感じた。しかし、これはあまりにも病的な光景でもあった。片桐はそんな病状を問診する医者の如き様でもって問いを続けた。

「今、LUNAには私たち6人しかいない。それは認識できているのね?」

「ええ。確かにLUNAには、太田さん、片桐さん、神崎さん、多良部さん、雛森さん、結城さんの6名しかいらっしゃいませんね。50音順で挙げさせていただきましたが」

「ここは娯楽施設ね?」

「はい……、そうですが、質問の意図が分かりません」

 ここで、太田はふと思い当たることがあった。しかし、それを意識の表層で吟味する暇を与えることなく片桐が口を開いたので、結局その考えは宙にふわふわと漂うのみとなった。

「そういった公共の施設にたった6人しかいないというのは、異常なことかしら?」

 ルナはきょとんとしたように目を丸くさせていた。次第に表情が収まっていくと、何かきりを抜け出た冒険者のような顔つきをして快活に答えた。

「異常なことです。そう、他のお客様たちはここから脱出されたのですね。異常な事態です」

 ルナは、一同の目には、ここではじめて事の重大さに気付いたかのように映ったようだった。その証左として片桐のいった一言があった。

「ルナは、もしかしたら現実を逃避しているのかもしれないわ」

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