8
平時では盛況を誇っていたL‐3のルナ・コムは、今では何一つ身じろぎしない状態を呈していた。床は灰色の薄いカーペットが敷き詰められていた。エリアを貫く通路の両端には幾台ものコンソールが控えていた。これらが、個人的なルナとのコミュニケーションを実現する端末機器だ。これらのモニターは一定時間の入力がなされないと暗転する。今は全てのモニターが沈黙をしていた。
コンソールに向かい合うように1人用の座席が用意されている。布張りのこの椅子は柔らかい座り心地でゆったりとした気分を与えた。ボタンといったような手動入力系は見当たらない。ルナに与えられた視覚、聴覚が入力を受容するのだ。だから、雛森が座席に着くと、モニターが水色の光を発した。「NOW COMMUNICATING」という文字が円を描いて回転している。
「こんにちは」
モニターはその画面自体がスピーカーとなっている。手を触れれば若干の震動を感じることが可能だ。ルナは落ち着いた大人の女性の声で挨拶した。雛森も笑顔で応える。
「こんにちは。えっと、姿を見せて。ちょっと話しづらいからね」
後半はいいわけをするように後ろを振り返っていった。モニターに女性の姿が現れる。高度な描写力をもって表現されたCGキャラクターだ。少しの違和感は感じるものの、実際の人間とあまり見分けがつかないほどだ。茶色がかった長く真っ直ぐな髪がどこかの光源からの光を受けて艶やかに揺れていた。長い睫毛に縁取られた切れ長の目は、雛森とその後ろに立つ五人を順に見つめていた。
「ごめんなさい。あ、お友達もご一緒ですか?」
その微笑みに満ちた表情からは現在の状況に対する思惑は窺い知れない。太田は、内心にくすぶる疑念を実感せずにはいられなかった。雛森もルナと同様に憂いを感じさせない顔だ。
「ええ、まあ、そう。ルナは元気?」
「はい、おかげさまで。雛森さんはお元気そうですね」
太田はこのやり取りを見て驚いてしまった。ルナが雛森の名前を、尋ねることなく口にしたのだ。
「ICタグの情報を見ているんですよ」
結城が解説する。
「あ、ごめんなさい。驚かせてしまいましたか。そう、太田さんはこちらにいらっしゃるのは初めてですよね?」
この全く自然な会話に太田はどぎまぎしながらぎこちなく答えた。
「え、ええ。1人1人を記憶しているんですか?」
ルナはちょっと残念そうに頬に手を当てる。CGだから当たり前なのだが、傷もなく整った指先が露わになる。
「そんなところですね。でも、記録は劣化保存されるんです。長い間情報が更新されないと忘れるように出来ているんです。忘れることが前提になっているみたいで、薄情な感じですよね……」
「あ、いえ、そういうわけじゃ――」
「うふふ、冗談ですよ。お気になさらずに。あ、記録云々の話はホントですよ」
太田は、参ったなというように隣の結城を見た。片桐は、彼をからかうように悪戯な笑いと共にいった。
「あなた、いいように踊らされているみたい。女に弱いのかしら」
「そんなことないですよ!」
太田が声を上げてそう否定すると、ルナが口元に手を当ててころころと笑った。
「かわいい人ですね。……ところで、神崎さん、どうなされたんですか?」
ただ1人この場にそぐわない表情をしていた彼はこほんと咳払いをひとつした。
「ああ、いや、率直に聞きたいんだが、お前はどこか具合が悪いんじゃないか?」
率直に、といっておきながら相手の体調を気遣うような婉曲な表現に太田は少し意外な感じがした。もしかすると神崎は機械相手に話すのが苦手なのかもしれない。
当のルナはしばらく不思議そうな表情をしていた。目を丸くして、口を半開きにしている。太田は思わずその瑞々しい唇に見入ってしまった。やがて、その唇が動き出すと、彼も我を取り戻した。
「具合、ですか? でもわたし、実体がありませんから……。知能の働きならいつもと同じで、問題ありません」
神崎は溜息顔だ。片桐がその後を継ぐ。
「そういうのではなくて、なんていえばいいのかしら、あなたの体――このLUNAについて、どこか不具合はないかしら?」
「不具合……」
「たとえば……そう、ここにはわたしたち6人しかいない。それはどうしてか分かる?」
片桐は座席の背もたれに肘を乗せてルナを覗き込むようにしていた。少し顎を引いて、上目遣いにモニターの中の女性を見ているのだが、その様子はまるで相手の心中を察しようとしているようだった。ルナは口をへの字に曲げて、思案している。
「確かに、ここには皆さん方しかいらっしゃいませんね。でも、わたし、なんともないです。どうかされたのですか?」
太田は愕然とした。どうやらルナはこの事態そのものについて認識していないらしい。結城もルナのように思案していた。現状を伝えようか己の中で何やらかを吟味しているのだろう。しかし、それを露と知らぬ神崎は身を乗り出してルナに指を突き立てていた。
「ここは、LUNAはデブリだか塵だかがぶつかって孤立しちまってるんだよ。自分のことだ、分からないってことはないよなあ?」
「でも、神崎さん、わたし本当に……」
「俺の名前を呼ぶな。なんか気味が悪りいんだよ」
「ちょっと!」
片桐の咎めが響く中、ルナが申し訳なさそうにうなだれる。目尻を下げて眉間にしわを寄せている。その人間らしい仕草に、太田は同情を感じずにいられなかった。
「なんだよ!」神崎は叫んでいた。「かわいそうだからやめろってか? 見てみろよ。こいつは人間じゃない。ただの機械さ。人間らしくしてるが、どうだ。今の状況が分かってない。人間ならよっぽどの馬鹿か現実逃避の名人だな!」
人間じゃない、という言葉に片桐はどういい返すことも出来なかった。それは事実であり、人間〝らしい〟ということを理解しているからだろう。〝らしさ〟とは元となる存在がなければならない。いわばコピーのようなものだ。いや、もっと正確に表現すれば劣化版というところか。
太田にとって驚きだったのは、神崎のいった内容ではなかった。それを聞いたルナの表情が、なんともいえぬ悲愴感にまみれていたことだ。
「確かに、人間じゃないかもしれないけど……」片桐はルナをちらっと見やってから、大きく息を吸った。その瞳は憐憫の情が込められていた。「あなたには良心というものがないの? あなたの言葉を聞いて、ほら、彼女はこんなに悲しんでる。そこに、人間かどうかっていう問題が必要?」
「そうだな。今のこいつは、機械としても中途半端じゃねえか。何の役にも立ちやしねえ。ただモニターの中から俺たちをほくそ笑んでるように見えるぜ。自分は痛みもなければ、死というものがないからな。他人事なんだろ、俺たちのことなんてよ。神様気取りか?」
「……」
ルナは両手で顔を覆っていた。肩が震えている。やがて、ふっと画面が切り替わり先ほどと同じように水色の光が一同を照らした。
「いいわ」片桐が静かに顔を上げる。「あなたもう他の所で独りでいればいいわ。付き合いきれない。無神経な奴」
それきり、彼女はぷいと神崎に背を向けた。神崎はといえば、無言でこの場を立ち去る。来たときとは反対の方向、L‐2のほうへとその背中が消える。追おうとする結城に雛森の辛辣な声がかかる。
「いいよ。放っておこうよ、あんな奴。気にすることない」
雛森は怒っているようだった。口調がいつもより固く、有無をいわせない炎のようなものが垣間見えた。太田は、神崎のこの暴挙をなんとなく理解していた。彼は、外見ではあのような態度を取っているが、実際はルナに賭けていたのかもしれない。今の状況がはっきりし、何か打つ手が見つかると踏んだのかもしれない。それがこのような形で裏切られ、逆上してしまった……。
「まるで子供よ」片桐もそういい捨てる。そうして、モニターに顔を向けた。「ルナ、もう大丈夫よ。顔を見せて」
すると、画面は変わらず、ううっという嗚咽が返ってきた。
「ごめんなさい。ちょっと……ちょっと、待っててくださいね」
鼻を啜る音も聞こえる。これはもはや人じゃないか――。太田は得体の知れないぞわぞわしたものが背中を駆け上がるのを感じていた。
一分ほど経った頃、水色の画面から声が聞こえた。
「ごめんなさい。でもわたし、本当に何も分からなくて……」
ルナは明らかに混乱していた。非コヒーレント相やフレーム問題という言葉が太田の中に一段と輝く光を投げかけた。彼女、ルナにとってこれは予想し得ないことだったのか。生の人間の感情の波に自分が何をすべきか見失ってしまったのか。
「いいのよ。仕方がないわ」
雛森はきわめて優しい調子でいった。その際、コンソールに手をやっていたのが印象的だった。
「ごめんなさい」ルナはまた謝った。「お役に立てなくて……。もし、LUNAが異常事態ならわたしにも分かるんです。でも、分からない。何も感じないんです。だから、わたし、騙されてるんじゃないかとも思いました。本当にごめんなさい。皆さんがそんなことをするような人じゃないって分かってます。でも、本当にそんな大変なことが起こっているなら、わたしは何のためにここにいるのでしょう。どれだけわたしは、馬鹿なんだろう……」
「ルナ、落ち着いてください。誰にだってうまくいかない時はありますよ。失敗は成功の元という言葉があるでしょう?」
結城の諭す様子にルナもようやく冷静さを取り戻したようだった。
「そうですね。ごめんなさい。でも、皆さんの身に危険が及んでいるんです。どうすればいいのか分かりません」
「どうすればいいか分からない? L‐1を閉鎖したのはルナではないのですか?」
結城の問いに、少なからずルナは衝撃を受けたようだった。
「え、L‐1は閉鎖されているのですか? 認識できません。何が起こったのですか?」
今度は人間たちが驚く番だった。結城はこれまでの経緯を説明した。大きな衝撃がLUNA全体を襲ったこと。パニックが起こりほとんどの人がシャトルで脱出したこと。6人が取り残されたこと。通信機器が沈黙していること。L‐1が閉鎖されていること。考察の結果、『ラー』システムが発動しなかったこと。
話の間、ルナは驚きを隠すようにして相槌を打っていたが、その反応の遅さが何よりも驚愕しているという事実を浮き彫りにさせた。
「そうだったんですか……」
ルナはたった一言だけ感想を漏らした。それ以外の言葉が見つからないのだろうか。結城はそんなことには気にも留めない様子で、腕を組んで呟いていた。
「ルナは麻痺しているのかもしれないな」
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