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 数分の間、口を利こうという者はなかった。何故だか知らないが、誰もが遠大な問題を目前にしているという心持ちだったのだろう。もちろん、解決すべき問題ではない。彼らの唯一することは生きて帰ることなのだ。

 ただ、人間というものはこういう生き物なのかもしれない。こういった状況、身動きの取れない今だからこそ現実逃避的に頭脳が働いてしまう。だから、全員が全員、思考をフル回転させているために沈黙しているのだろう。

 その静けさを破ったのは、彼らにとってはちょっと意外だったのだろうが、片桐だった。

「仮に、事象計算システムが破られるほどの出来事があったとして、そう状態ならば『ラー』システムは作動しなくなる可能性が出てくるのね?」

 念を押すように視線を突き刺すと、結城は「そうですね」と息を吐いた。片桐はそれを確認すると、大きく息を吸った。結城とは対照的だ。

「ならば、事象計算システムでも予測しえなかったことが起こったのよ」

「でも、そんなことは……」

「いえ、あったからこそ、このような状況に陥ったんじゃないの」

弱腰の結城に喝を入れるような様子で、彼女は続けた。先ほどまで喋り通していた結城が今度は聞き手だ。

「そう、おそらくあったのよ。予測しえない未来が。そして、非コヒーレント相に支配されたルナは数々の異状を引き起こした。『ラー』システムの停止。リニア・エレヴェータの停止。通信機器の断絶……。確かにカオス的な振る舞いをしているわ。ところで、もしかしてアーキテクチャの上位には人間の安全を優先するような命令があるのかしら。それなら即座にL‐1が閉鎖されたのが理解できるのだけれど」

「ええ。その通りです」

「人間がそれに追いつけなかったから、私たちが取り残されてしまったのね。ところで、L‐1に取り残された人はいなかったのかしら。もしいたのだとすれば、もしかしたら亡くなって……」

「大丈夫だろう」神崎が楽観的にいい放った。片桐は彼を一瞬睨んだが、神崎にも考えがあったらしく何やらを目配せすると、手振りを加えて説明をした。「っつうのはよ、L‐1にはエレヴェータがあるじゃねえか。ひと気がなかったというし、俺みたいにエレヴェータに乗り遅れた奴もいなかっただろうしな」

「隣り合うエリアから人が殺到したんじゃないかしら。そんなにのんびりとしたものじゃなかったはずよ」

 暗に批判する片桐を尻目に、神崎は難なく切り返す。

「人は流れに乗じるというじゃないか。L‐6の連中もL‐2の連中も人の流れに乗ってL‐3やL‐5のエレヴェータに乗ったって不思議じゃない。それに、衝突の直後にL‐1が閉鎖されたんならそこにいた奴らにしかエレヴェータは使えないだろう。実際、L‐1のエレヴェータは使われたのか?」

 彼の質問は、ごく自然なことだが、結城に対してされていた。彼は無言で首を振った。情けなさそうに「分からないんです」と一言を添えたが、神崎は溜息で返した。

「とにかく、L‐1のことは気にしても仕方がないってことだ。ほら、アレだ、何事もなかったと思えばいいのさ」

 そういってふんぞり返って片桐を一瞥する。彼女はふてくされたように顔を逸らした。明晰な彼女にとって、神崎のような粗暴な人間にいい負かされるということが、よほど屈辱的で癪に障ったのだろう。

「確かに神崎さんのおっしゃるようにL‐1のことについては僕らにはどうすることも出来ないですね。殊、これに関しては古い例ですが、『シュレーディンガーの猫』を彷彿とさせますね。L‐1はまさに箱。その中身がどうなっているのか、誰かが取り残されているのか、取り残されているとすればその人は無事なのか。それは確認しなければ分からない」

 太田は内心ほっとしていた。いくら結城としても、また長い講釈を始めるとなると非難は免れなかっただろう。彼自身先ほどの解説で喋りすぎたと感じていたのだろう。

「じゃあ、開けて調べればいい」

 そういう神崎の声はどうやら片桐に向けられていた。この2人はいがみ合うことが好きなようだ。片桐は目を爛々とさせてこれに対した。

「何のために、L‐1が閉鎖されたの? 危険だからよ。おそらく衝突の影響で人が存在できない状況になっているはず。そんな所を開放してしまったら、いずれ全域が閉鎖区画になってしまうじゃない」

「そうだ」太田はふと浮かんだ疑問を、その場を顧みずに口にしていた。「区画を閉鎖するためには、ルナが目覚めていなければいけないわけですよね。さっき、片桐さんがいっていた上位アーキテクチャは人命の尊重の優先ですよね。それが元でL‐1は閉鎖された……。ルナは非コヒーレント相に遭遇してカオス的な振る舞いをした。そのために、『ラー』システムは力を発揮できなかったんですよね。だから、衝突が起こった。衝突したからL‐1が閉鎖された、ということは、衝突以後にもルナは生きていたということになる。そうなると、今もルナは生きているということになりませんか?」

 太田自身は、驚くべき事実に行き当たったという感慨を込めて力説したのだったが、一同の反応はやや冷ややかなものだった。

「生きていてもいいだろうよ」神崎が半笑いの表情を隠さずにいう。「それに、現にこうして俺たちが生き延びてんのは、ルナとかいうのは生きてる証拠だしな。で、生きていたとしたらどうした?」

 太田は口をぽかんと開け放していた。数秒後にはすっかり我を取り戻していたが、あまりの興奮の度合いの落差に憂鬱な面持ちを禁じえなかった。

「あ……ええ、その、そうすると、ルナを利用してこのルナの内部――LUNAといったほうがいいですね、これを調べることが出来るんじゃないかと思ったんです」

「さっきもいったように……」

「だからよぉ」

「……その術がないのよ」

 異口同音に憐れむような、しかし否定の言葉が連なる。沈み込んだ太田の心と空気にやや調子を低めた多良部の瑞々しい声が波紋を投げかけた。全員の前ではじめて口を開く彼女の瞳に一同の視線は集中していた。それはほとんど驚きと同義だったのだろう。

「ルナ・コム……。ルナ・コムがあるじゃないですか。ルナが生きているのならば、あれで何か聞けるかもしれません」

 彼女のいうルナ・コムとは、ルナ・コミュニケーションの略称であり、文字通りルナとの交流のはかれる設備だ。このレストランの隣接するエリア、L‐3に設置されている。片桐はまだ懐疑的だった。

「でも、あれはルナとのコミュニケーションを謳っているけど、実際にこのLUNAを管理しているAIシステム自体とのやり取りではないんじゃないかしら?」

 彼女の視線を受けて結城が円卓に肘を乗せて前屈みとなった。

「いえ。あれは、本当にルナとのコミュニケーションなんです。並列的にルナは処理を行っているんです」

「……ということは、超並列的な認識能力を持つのね……」

 片桐は、確かにそう言葉を発したのだが、まわりの人間には聞こえていなかったようで、神崎に至っては顔をしかめて怪訝な目を向けていた。

「ぶつぶついってんじゃねえよ。つうことは、とにかくそのルナ・コムで今の状況が詳しく調べられるかもしれないってことだろ? さっさと調べに行こうぜ」

「そうですね」

 結城が頷くと同時に雛森が立ち上がる。

「行きましょう。頭だけ動かしていてもしょうがないですよ」

 声こそ明るかったが、それは今まで座り尽くして口を動かしていた大人たちへの皮肉だったのかもしれない。ぱらぱらと席を立つ音が続き、レストランには次第に静寂が訪れていった。

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