5

 徐々に覚醒していくように、地平線の向こうから太陽が姿を現すように、一同の意識は現状の悲惨さへと移ろっていった。誰もが状況に向き合うことに素直になっていた。そのきっかけとなったのが先ほどの神崎の怒号だったのだろう。

 レストランは隔てる壁の一切がなく、見渡しのよい開放的な空間だった。派手なシャンデリアも装飾もなく、周囲にはエレヴェータホールのように観葉植物たちが植えられていた。味気のない、未来的な殺風景さだったが、その料理の味は評判だった。地上と調理も材料も変わっていない。


 このL‐4には他に宇宙食を販売している店舗やお土産を売る店があった。一番の金の回る市場的なのが、このエリアだった。宇宙食は買ったその場で食べてもよかったが、主にお土産として地上に持ち帰る者が多いようだ。

 今、結城はカレーの宇宙食のパックを手にして隣の雛森に感慨深そうな様子で熱心に話していた。

「宇宙食もね、今でさえまずいといわれているけど、50年位前はもっとひどかったというよ。そっちの」彼はカレーのパックを元に戻すと、指差した。雛森の右手奥に注意が集まる。「アイスなんかは昔はアイスといえるようなものじゃなかった。今は温度が違うだけで、食感はずいぶんマシになったんだよ」

「へえ、でも冷たいほうがいいですけどね」

 そう一蹴されてしまっては、結城もただ笑うしかなかった。

 コーナーの入り口のスライド・ドアがすーっと開く。2人は誰かがやってくるのかとそちらに目をやったが、誰の気配もなかった。2人は顔を見合わせ、首を捻った。

 宇宙食販売コーナーには結城と雛森しかいない。先ほど、雛森が空腹を訴えたからで、派遣隊としてこの2人が視察にやってきたのだ。もちろん、これらの宇宙食は胃袋に収まることになっている。神崎が持ち前の堕落的楽観主義によって緊急時にはやむをえないという結論がなされたのだ。味を求めるなら、レストランの厨房に侵入を試みるのだが、今は小腹の虫を抑えることだけが目的だった。

 市場のように大容量のケースに仕切りごとに様々な種類の宇宙食のパックが積み上げられている。可能なものであれば、少量の試供品が皿の上に乗せられており口に入れることができるようになっている。

「あ、スペース・ラム。塩味だよ」

 雛森は目敏くそれを見つけるとにこりとした。スペース・ラムは国際宇宙ステーションで宇宙食に採用されているラーメンだ。ラーメンといっても形は球状にとどまるようになっているもので、丼に入ったようなものではない。

「それにしても、そんなに抱えて大丈夫かい?」

 結城の一言に雛森は舌を出して苦笑した。肩がピクリと動いたことで3つ4つものパックを取り落としていた。

「あはは、食べ盛りなんで」

「確か、雛森さんは高校生だったよね?」

「17です」

 結城はこくりと頷くと人差し指を突き立てて、極めて穏やかな調子で諭すようにいった。

「その年代は体内のホルモンの関係性から、女の子は太りやすいんだよ。君も気をつけないと」

 雛森はええっ、とただでさえ大きな目をさらに大きくして瞬きを繰り返していた。しかし、パックを5つ元に戻すと笑顔を取り戻して、

「そうなんですか。アドヴァイスありがとうございます。でも、ご心配なく。私、ちゃんと運動はしていますんで」

「そうか」

 しばらくの沈黙。やがて雛森は自分が元に戻したパックを指差して不満げに口を尖らせた。

「突っ込んでもらわにゃあ、困りますよ」

「ははは、ごめんごめん。高校では何か部活をやってるの?」

「バスケをちょろっと」

 いいにくそうに首を軽く竦めつつ彼女は答える。そんな少女の小さな体を結城はまじまじと見つめる。白く透き通った肌。やや丸みを帯びた鼻と、その下にある肉感的な唇がチャーミングだった。細い手足は長かったが、背は低い。並んで立てば、彼女の頭はようやく結城の方に届こうかというところだ。小さい分、エネルギーの凝縮されたような快活さを発散させている。

「あんまり見ないでくださいよ。背が低いのが結構コンプレックスなんですよ。バスケも機動力重視されてます」

「すばしっこそうだ」

 すると、雛森はげっそりしたように肩を落とす。

「うう……、小学校の頃はそれで『サル』っていわれて苛められてたんですよぉ……。今、それを痛烈に思い出しました」

「あ、そうだったんだ。ごめんね」

 雛森は激しいほどに首を何度も横に振った。気にしていないという意思表示なのだろう。

「もう昔のことです。今じゃ、いい思い出ですよ。ところで、もう戻りましょう。あんまり遅いと変な噂立っちゃいますよ」

 悪戯っぽく微笑む雛森に結城も同様にして頷いた。少女を先導するように歩き出すのだが、彼女はしばらくその場に留まっていた。去る結城の背中を見て独りごつ。

「……突っ込んでくれなきゃ」


   *


 結城と雛森が連れ立って宇宙食を漁りにレストランを出るのと同時に誰ともなく溜息が漏れ出た。

「怪我人がなかったのと」片桐が不意に口を開くと、自然とそちらに視線が集まる。「食料に事欠かないのは不幸中の幸いだったわね」

「食料に頼るようにはなって欲しくはないがね」

 神埼が真っ先に応える。よく突っかかる男だ。悪くなりかけた空気に多良部は密かに背中を丸くした。その様子を視界の隅に捉えた太田は、努めて明るい風を装っていった。

「まあ、結城さんのいう通りであれば、すぐにでも救助は来るでしょう」

「つってもねえ、具体的にはどれくらいになるんだろうか」

 考える風であった片桐が、これから口を開くというようにして息を吸う。その際に身を乗り出したので、神崎は彼女を注視した。片桐は30代くらいの細身の美人だった。ショートカットや黒のストレッチパンツ、きびきびと動くさまがどことなく男性らしさを感じさせたが、垂れ気味の妖艶な目や豊満な胸がそれ以上の女性らしさを見るものに与えていた。もっとも、太い黒フレームの眼鏡が幾分か目の魅力を覆い隠していたので、神崎の視線はもっぱら後者のほうに向けられていた。

「これは推測になるけど、2日くらいはかかるかもしれないわね」

 太田も同様の推測をしていたが、いいようのない訝った意識が表層に現れ出た。それがどういうものなのか彼自身判明がつかなかった。首を捻っていると、片桐の予想に意を反したのか神崎の、おいおいという声が聞こえた。

「2日もかかるのか? それまでこんな所で、閉じ込められにゃあならんのかよ?」

 片桐はさらに神崎を突き放すように付け加える。

「それはまだいいほうかもしれない。悪ければ3日以上は必要かも――」

「なんでだよ!」

 神崎の怒号が飛ぶ。多良部は怯えた犬のように頭を下げて軽く握った両手を頬の傍に寄せて身を縮めていた。太田は内心神崎の疑問に同意していた。そこまでの時間はかからないだろうと思っていたのだ。ぴりぴりとした雰囲気にも動じずに片桐の冷静でゆったりとした声が4人の耳朶に音声を知覚させる。

「いい? まず太陽が、第1世代の爆散した塵の中で生まれる。この星の重力に捉われた物質が惑星を形成する。これらの星は例外もあるけれど自転しているわ。現在の地球の自転周期は23時間56分4秒。ある人はこれを『兄さん殺し』と覚えたそうだけど……。ただ、これは時間を追って短く変化していく。だから古代では今より1年の長さがより長かったということね。

「まあ、そういうわけで、地球は約1日をかけて1回転してる。一方、このルナは特定の宇宙空間に静止しているわ。公転軌道を持たないの。ということは、地上から見れば1日に1度天球を横切るということになる。ルナへの出発はこの時機を見て行われているの。地球がルナと反対の方向を向いたときとは距離が全く違うからよ。つまり、1日に1度だけシャトルが出るということよ。

「私たちがこのルナに到着したのは、地上から20時間。そして事故までに約4時間。シャトルはつい1時間ほど前に脱出した。その際に搭載された通信機器で地上との連絡が取れれば、地上から救助隊が出発するのは約1日後。到着までに20時間。つまり約2日。でも、シャトルの通信機器がもし使えなかったら? シャトルが地上に到着するのは20時間後。でも、自転を考慮せずにシャトルは脱出していったから、出発点とは遠く離れた場所に不時着するかもしれない。連絡に時間を要すればそれだけ救助隊の派遣は遅くなる。自転の具合が悪ければ、1日伸びることだって考えられる。そうすると、救助隊は3日後くらいにここに到着することになるのよ」片桐はここまでを一気にまくしたて、絶句する神崎に視線を投げかけた。「分かった?」

 どうだといわんばかりの片桐を前に、神崎は無言で諸手を上げた。降参という意味だろう。ここまで説明されてしまえば、駁する気力も失せるというものだ。

 2人のやり取りを、太田と多良部は隣り合って見つめていた。その片桐と神崎の落ち着く頃になって太田は横の多良部と目を合わせ、小声でいった。

「壮絶なものがあるね」

 多良部も同様の感想を持ったらしく、微笑んで頷くと透明感のある細い声を太田に向けた。対峙する2人の大人に気付かれないように口元に手を当てて喋るのだが、それがいかにも可愛らしい仕草だった。長いまつげが一度その瞳を隠した。

「でも、やっぱり時間がかかるみたいでちょっと心配です」

「大丈夫さ。結城さんがこのルナは安全性を保証されているといっていただろう? 滅多なことじゃ、破壊されないだろうし、万が一のことがあっても食料がたっぷりあるさ」

「でも」多良部の瑞々しい唇が動くのを見て、太田は、この子はでもというのが口癖なんだなとかこの子も人並みに喋れるのだが大勢の前では話し辛いのだろうなとかいうようなことを考えるともなしに考えていた。「じゃあどうしてこんな事故が起こっちゃったんでしょうか? 安全なのに。なんだか怖いです」

 これには太田も唸ってしまった。そう、安全性がルナの緊急事態という要素によって否定されてしまった今、小惑星の破片などがぶち当たってルナが崩壊するという可能性もあるのだ。『ラー』システムが発動しなければの話だが、本当に今の状況では発動しないかもしれない。そう考えると、太田はぞっとした。

 宇宙空間は気圧がとても低い。ということは、ルナの表面に亀裂が入ったとき、内部の物体はその亀裂に向かって吸い寄せられていくだろう。宇宙空間に放り出されれば、その勢いのまま宇宙の深遠まで死の旅が始まるのだ。それ以前に、ともすればルナの外に吐き出された瞬間に目玉が剥ぎ取られてしまうかもしれない。そうした激痛の中で、数分は生き続けるだろう。ほぼ真空だから息はできないが、呼吸を止め続ける限りは究極の辛苦が襲うだろう。それは生きているという証なのだが。太田は思う。死に物狂いでやれば、フリー・ダイビングの記録保持者とまではいかなくても7分くらいは息を止められるかもしれない。その7分間に何を思うのか。

 いや、と太田は思う。真空中に放り出されれば数分で血液は沸騰する。温度が上がるわけではないが、その時点で死亡してしまうだろう。その後、体はフリーズ・ドライされたように凍てついてしまう。朽ち腐り落ちることもなく、もしかしたら宇宙の膨張が止まる無限時間後まで物質として存在し続けるかもしれない。そのとき、自らの魂はどうなるのだろうか。自分のものだった体は朽ちることなく存在し続ける。では、その器を去った魂は?

「どうしたんです?」

 気付くと、雛森を後ろに従えた結城が戻ってきていた。2人とも宇宙食のパックを手にしている。両手にパックを抱える雛森を見兼ねて結城も大半を運んでやることにしたのだ。雛森が勝ち鬨を上げる。

「大漁!」

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