3
太田はルナ宇宙望遠鏡の視界の中で次第に小ささを増すシャトルの、二枚の尾翼が太陽の光にちらっと煌くのを見て、諦観に似た絶望を感じていた。そうして自分の額に手をやった。ぽっこりと膨らんでいる。じくじくとした鈍痛が彼の頬を強張らせる。予期しない衝撃で頭をひどく強くぶつけたために、彼は初めての気絶を経験した。
ルナの内部は、あの騒動が起きる前と寸分も違うところがないように思われた。それだけに、この圧倒的な静けさは彼の身に堪えた。彼は肩を震わせて思った。
――どうして気絶なんかしてしまったんだ。気絶さえしなければ、こんな所で……。
しかし、彼はいつまでも挫けてはいなかった。何か脱出の方法があるはずだ。3D宇宙マップを横目に、彼は立ち上がった。
それに呼応したのはなんと足音であった。
こつこつと忙しなく走る靴音が鮮明に響いている。そうして、理知的な男の声が静寂の中を駆け巡った。
「どなたかいらっしゃいませんか? お怪我はありませんか?」
太田は応えようとしてひどく喉が渇いていることに気づいた。一度唾液を嚥下すると、改めてその声のするほうへ歩み始めながら、自分でも久々に大声を上げた。
「ここにいます! あなたも大丈夫ですか?」
足音が急激な変化を音波に乗せて伝える。現れたのは、若く背の高い男だった。声の感じと、その雰囲気から太田は瞬時にこの男は頭の切れる人間だなと直感した。男は幾分眉を押し上げた、焦燥を秘めた感じの表情で太田の元に走り寄ってきた。
「大丈夫でしたか? やはりあなたも逃げ遅れて? あ……おでこに、瘤が」
診ましょうといって手を伸ばす男を、太田は努めて平気であるような仕草でもって制した。もう痛みはないのだ。いや、感じる暇もないというところか。
「一体何が起こったんでしょう」
相手の男の冷静さもさることながら、太田の口から出たのは当事者としての混乱の見られないものだった。男は長めの髪を、手で払うといった。
「僕にも何がなんだか……。とにかく、いきなりの衝撃のあと、パニックが起こってしまって。余程のことがなければ空気制御室を利用した完全な閉鎖は行われないのですけどね……」
太田は、彼の言動におやと思った。何かしらの確信が垣間見えた気がしたのだ。
「私たちだけが取り残されたのでしょうか?」
「いえ」太田の問いに対する答えは素早かった。「今のところ、あと四人が。女性が三人と男性が一人。……ですから、ルナに取り残されているのは今のところ、六人でしょうか。それで、僕ともう一人の男性が中を見て回っています。他に取り残された人がいないか、怪我をしている人はいないか。まあ、幸い怪我人は一人もいませんでした。おっと、その瘤、本当に大丈夫ですか?」
「ええ、お気遣いなく」
彼自身の奥底の何者かは頑なに気絶した事実を口に出すことを拒んでいた。一種の恥ずかしさだった。
「それで、私たちはこれから脱出を図らなければならないわけですが――」
いいかける太田に、男は手を振って笑顔を見せた。
「いえ。ここで待つだけです。いくらなんでも、僕たちがここに取り残されていることは知れているはずです。ルナの通信力はゼロなのですが、脱出したシャトルからは地上への連絡が取れているはずです。仮に無理だとしてもシャトルが地上に着けば、追って調査隊が派遣されるでしょう。無理に脱出を試みようとするよりは、ルナに留まって助けを待つほうが安心です。宇宙空間における安全性は保証されていますからね」
その保証が裏切られてしまったのじゃないか、と太田は反論しようとしたが、やめた。このような場所で、初対面の人間に当たるほど彼は愚かではなかった。
「ああ、私は」太田はそういって手を差し出した。「太田陽介といいます。この事態にあなたのような冷静な方とご一緒できてよかった」
男は笑顔でその手を握ると、今度は肩を揺らしてあははと声を弾ませた。太田が手を握ったまま不思議そうな顔をしていると、男は申し訳なさそうに頭を下げた。やけに慇懃なお辞儀だった。
「ああ、いや、すいません。ただ、他のどなたも自己紹介などされなかったものですから。あなたの落ち着きぶりについついおかしくなってしまいました。申し遅れました、僕は結城黎人といいます。よろしくお願いします」
彼はいいながら握手する手にさらに力を込めた。
L‐6のゲーム機たちは、わきまえたかのように沈黙していた。結城がL‐6の端、L‐1との堺の隔壁の様子を見たいといったので、2人は連れ立って歩いていた。もちろん、その間にも取り残された人間がいないか目をあちこちに走らせていた。
「どうやら、他には誰もいないようですね」
結城の結論に些かの疑問を感じた太田は、周囲を視線を巡らせながら言葉を発した。静謐の中でそれは驚くくらい空間内に響いていた。
「ロビーのほうにも人がいるかもしれません」
第1階層のことだ。結城は一瞬呆気に取られたような表情を浮かべたが、それをすぐに引っ込めるとひとつ頷きを返した。
「そうかもしれません。ですが、それを確認する術はないのです」
「何故です? どうして簡単に諦めてしまうんですか?」
自らの語気の強さに、太田はしまったと思ったが後の祭りである。咎め立てるような真似はしないと決めていたのだが、早速綻びが見えていた。一方の結城は大して気にも留めなかったようで、間を置かずに口を開いた。
「ご存じなかったですか。閉鎖された区画以外の2機のエレヴェータはどちらも上に行ったきり戻ってこないのです。こちらで呼び出そうとしても反応がありません。だから、第1階層へ上がりたくても無理なんですよ」
「エレヴェータが、2機とも……?」
太田には絶望的なように思われた。ルナの唯一の出入り口は、ルナ・ポートを擁するルナ・ゲートなのではなかったか。そこに繋がるのはロビーのある第1階層であって、その第1階層へアミューズメント・フロアからアクセスするには3機のリニア・エレヴェータしかない。それが絶たれてしまった今、身動きすることすら許さない死への一本道が自分の前に絶対的に横たわっているのだと思うと、彼はやりきれなかった。今一度青き地上へ舞い戻り、恋人との何気ない日常を取り戻したい。彼は真っ白になった視界にどう対すればいいのか考えることすらしなかった。
ふと、結城の言葉に彼は我に返った。
「……があって、そこには外殻内部へのハッチがあるんです。内部メンテナンスのためですね。そして、同じように外殻には数箇所、宇宙空間へのハッチがあります。万が一救助隊がエレヴェータを動かせなくても、そのようにして脱出は可能なんですよ」
「え?」
「ルナ内部は強固な特殊ハッチで宇宙空間と繋がっているんです。ですから外に出ることはできるんですよ。もっとも、今の状態では無理です。救助隊がやってきて、サポートしてもらって初めて可能な脱出手段ということになります。顔色が優れないようですが、大丈夫ですか?」
ふいに自分を向いた顔に驚いた反面、太田はほっと胸を撫で下ろしていた。だから、心配そうな結城に応える彼の声は極めて柔らかい響きを持っていた。
「え、ええ、大丈夫です。ちょっと悪い想像ばかりしていたもので……」
「無理もないです。こんな状況に陥ったんですから」
そういって結城は周囲を見回した。相変わらずゆっくりと足を進めながら。
明るい白色の照明の中で巨体をうずくまらせて並んでいるのは、小型宇宙戦闘機――スペース・ウィングの操縦席をかたどったゲーム機であった。大きな箱にはハッチのようなドアがひとつだけついており、これが操縦席の入り口だった。ゲームを開始するにはこのドアを閉じて〝向こうの世界〟ヘ出向くだけでいい。ヴァーチャル・リアリティ(VR)である。VR技術はテレビ・ゲームの分野から派生して今では広く使われている。もっとも有名なのは医療用VRだ。人体構造の精密なモデルが構築できる現在、そのデータを用いたVRオペレーションが盛んである。擬似的な手術の状況を緻密に再現でき、医者の大きな助けとなっているのだ。
今では物いわぬ塊と化してしまったシューティングゲームの機体を横目にしながら2人はようやく閉ざされた隔壁の前までやってきた。
隔壁は無表情にも表面になんら溝などを持っていなかった。まっさらな白い壁。それが緩やかに描かれたアーチの中を埋めていた。右脇の壁には蓋付きのコンソールが侍っていた。このコンソールに近づく結城の背中を、太田は少し離れてぼうっとしながら見ていた。L‐1が閉鎖されたのは聞いたのだが、改めて固く閉じた隔壁を前にすると実感が湧いてくる。その感覚に太田は胸の中でただ一言、なんてこったと呟いた。
「やっぱりダメですね」
ぼんやりと見ていた太田の視界の中で、結城が両手を軽く持ち上げていっていた。太田はその様子に、結城は予めダメだということを予想していたのだなと感じた。
「やはりここからもアクセスを受け付けませんね。ルナからの情報で、今の状況を詳細に知りたかったのですが、自分の目で隅々まで調べなければならないということですね」
「あの」太田は先ほどから抱えていた疑問をようやく口にする決意をした。決意というと大げさだが、あまり人の中に踏み込まない彼にはちょっとした気持ちの切り替えのようなものが必要だったのだ。「このルナにとても詳しいようですが、結城さんは関係者なんですか?」
若干目を丸くして少し口を開けたまま太田の言葉を聞いていた結城は、やがてにこっと表情を崩すとこくりとひとつ首肯した。
「ええ。といっても、末端みたいなものです。もしかしたら、太田さんは僕が設計とかここのシステムのプログラムをしているといったような想像をされているかもしれませんが、そんなたいそうな仕事はしていないんですよ。建設に携わったというだけです」
「そうだったんですか……。いや、やけに詳しいのでもしかしたらそうなのかなと思ったもので。しかし、そう聞くとますます安心してきましたよ」
太田はそう笑いながら、今一度この目の前の男を仔細に眺めていた。
明るい茶色の髪は額の真ん中よりやや右側で分けられている。細い顎の上には薄めの唇が横一文字を描いていた。高い鼻梁の両脇には理知的な光を湛えた瞳が少し落ち窪んでいる。細いが眉尻に向かって吊り上り気味の眉は、意志の強さを感じさせた。ベージュの厚手のジャケットにストレートのジーンズというやや薄着の出で立ちだ。地上は冬だったが、ここでは暑すぎず寒すぎずの快適な環境である。その服装からも、結城はプライヴェートでここにやってきているのだろうと太田は考えた。
――それにしてもなんという邂逅だろうか。ルナに閉じ込められ、そのルナの関係者と共にするとは。他の取り残された人はどういう人たちだろうか。
「他の人と合流しませんか?」
太田の声に、結城も素早く頷いて応えた。
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