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 事態は緊急だった。

 まず、大きな衝撃がルナ全体を襲った。刹那、全ての照明が数秒の間点滅する。人々の悲鳴が、宇宙空間に辛うじて滑り込んだ拠り所となるべきこの空間に満たされた。外は死の世界である。

 次に、パニックの波が光速を超えて全ての人に伝播した。子供は、何が起こったのか分からない様子で、どの表情も虚ろに呆けているばかりだ。走り出し、悲鳴を上げるのは大人であって、それを目にした小さな体は例外なく打ち震え、泣き声が波紋のようにして広がった。

 最高峰の技術の粋を結集したルナは、各分野からその安全性を保証されていた。第1階層のロビー、すなわちアミューズメント・フロアへの入り口に当たるここでは、その安全性についてのアナウンスが常時流れるようになっていた。それが今では、事態の深刻性を伝える慌しい放送に切り替わっていた。

 ――原因不明の緊急事態。

 大勢の客を誘導しようとするスタッフであったが、恐慌に陥った人波にはなす術を失っていた。悲鳴を乗せた人の流れは悉くルナ・ゲートへの唯一の道、3機のリニア・エレヴェータへ殺到した。しかし、パニックはさらに極まる。L‐1のものが使用不可能な状態だったのだ。

 L‐1は完全に閉鎖されていた。

 各エリアの繋ぎの部分は、空気制御室と呼ばれるスペースがある。そこは、両端を最高性能の隔壁で囲まれていた。内部は気圧や空気量を制御でき、緊急時には二重隔壁となり、完全な隔離が実現できる。L‐1とL‐2の間の空気制御室は第1空気制御室、それ以降各エリアの間に第6までの空気制御室が設定されている。

 今、第1と第6の空気制御室、すなわち隔壁は完全に閉鎖されていた。L‐1は危険区域として封印されてしまったのだ。

 悲劇は続く。

 客を満載したエレヴェータは原因不明の故障によって、ルナ・ゲートに到着したのちに完全に沈黙したのだ。

危機に直面した人間は恐ろしい。今度は後ろを振り返ることなくルナ・ポートへと駆け出す。スタッフの言葉も空しく、それだけでなく逆に脱出の誘導を迫られ、暴力も飛び交った。どの顔も悪魔の形相であった。子供は泣き叫び、母親は苛立ちを募らせ、男は残らず狂気に駆られていた。それらの例に漏れた者は残らず呆然と状況を見つめるばかりだ。

 こうして、緊急の脱出体勢がとられたが、エンジニアたちは首を傾げる事態に遭遇してしまった。ルナの通信機器が全く反応を見せないのだ。

 ルナの中枢、第1階層の関係者以外立ち入り禁止区域にルナ・システムへのアクセスが可能なコントロール・ルームがあるのだが、そこの端末からの接続が完全に拒否されているのだ。原因不明の事態に、同じくAIのアクセス拒否。結局エンジニアたちはハードの問題であるとして、匙を投げ出してしまった。

 投げた匙は加速度的に落下する。そのようにして脱出も人が人に押されながらごく短時間でシャトルの発射と相成った。

 しかし、すぐに気づくことになる。このパニックに塗れた脱出劇の中で、死の世界の檻に囚われた者たちがいることを。

 檻は彼等から自由を奪い、同時に生を与えた。

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