(第一編) 錯綜の彼方へ

1

 2人の子供が駆け出していく。ロビーには人間が溢れ、ざわめきは頂点に達していた。

ルナ・ポートから降りる巨大リニア・エレヴェータはひとまず第1階層へと到着する。そこはまだ人々の待つ娯楽施設ではない。ルナ・ポートを擁するルナ・ゲートが巨大な円盤体の中心に厳然と存在している。ここは出入りを司っている重要部だ。そのルナゲートをぐるりと走る階層がこの第1階層である。ここからは3機のリニア・エレヴェータが円周部に向かって伸びている。この円周部こそが、アミューズメントたる中枢をなしていた。

 3本のエレヴェータ・チューブは円の等間隔に位置していた。だから、外殻がなければメルセデス・ベンツのエンブレムを彷彿とさせたことだろう。円周部すなわちアミューズメント・フロアは6つのエリア分けがされている。だから、エレヴェータはエリアひとつおきに1機あるという計算になる。

 第1階層のロビーには一部の人間と、しばらくの談笑や寛ぎを求める者を取り残し、閑散としていた。

 

太田陽介は胸に付けたICタグを弄びながら、隣のベンチの会話に聞くともなく耳を傾けていた。

「しかし、人類の科学技術の進歩は凄まじいなあ!」

 禿げかかった頭を撫でながら、ビール腹の男が興奮に頬を赤らめていた。それに応えるのは髪がすっかり灰色に覆われてしまった痩せぎすの男だった。

「全くだよ。生きているうちにこんなことが実現されるとは、思ってもいなかったからなあ」

「宇宙のことに関しても結構分かってきているみたいだしな」

 3人目は前の2人と比べると幾分若いように見える。彼はまた続けていった。

「ワンプっていう衛星がダークマターの正体を突き止めたりとか……」

 太田はそこで口を歪めてしまった。

 ダークマターは地上の粒子加速器で探査研究が進められた。ニュートリノやアクシオン、超対称性粒子がWIMP(ウィンプ)と呼ばれ、これがダークマターの正体であった。

 一方、宇宙の質量の大半がダークエネルギーといわれる。ダークマターが23パーセント、73パーセントをこのダークエネルギーが占めている。見えている物質――バリオンはたった4パーセントである。

 ダークエネルギーの存在を確実なものとしたのが、WMAPという衛星による宇宙背景放射の観測であった。

 ちなみに、ワンプというのは、4年前に一世を風靡した4人組の中年男によるロックバンドの名前だ。


 太田は耳にかかる髪の毛を指の背で軽く払うと、思い立ったようにその場を後にした。


 リニア・エレヴェータは全時代的なワイヤー式とは違い、一切の震動を引き起こさない。太田はその静動する箱の中でじっと前だけを見つめていた。決して老いることのない鋭い目の輝きは意志の強さを思わせた。

 やがて音もなくエレヴェータは止まった。ぽおんという到着音だけが彼を外へと送り出す。箱の外は一気に喧騒が広がっていた。そこはもうアミューズメント・フロアだ。通路を走る子供を追いかけるように両親が重たげに足を引きずってゆく。彼等の行く先の通路は徐々に上り坂になってしまいには天井に視界を遮られてしまう。床面が円周になっているために起こることで、初めてここに来た者は戸惑いを隠せないという。全員が円の中心に頭を向けて歩き回っているのだ。


 アミューズメント・フロアは前述したように6つのエリアに分けられている。それぞれL‐1からL‐6までの名称が与えられていた。太田はエレヴェータ前の広場に光る電子板に目をやった。インフォメーション・ボードといわれるそれにはフロアのマップが表示されている。現在太田がいるのはL‐5。ここには外殻に設置された6台の中規模宇宙望遠鏡を操作して宇宙を眺めることのできる注目の設備がある。他に、3Dモニターを利用した宇宙の映像が、これまた視点操作可能な状態で展示されている。3Dモニターというのは、透明な立方体の内部に映像を投影するもので、完全ホログラフの実現を目的とした擬似ホログラフのことである。映像は明瞭美麗で実物と紛う者もいるという。

 宇宙望遠鏡はおよそ1メガパーセク(326万光年)ほどまで明瞭に見渡せるもので、これが一番の目玉であるアトラクションである。宇宙の美しさに誰しもが絶句するのだ。だから、望遠鏡の部屋はいつも静寂に包まれている。


 隣り合うL‐4にはレストランやグッズ販売店が並ぶ。もう一方のL‐6にはゲームが設置されている。宇宙空間を舞台にした3Dシューティングゲームや宇宙空間を探索するものまで、その悉くがプレイヤーを魅了する。ここはいつも賑わう人気のスポットである。

 太田は広場を見渡していた。白を基調とした内装は清潔感と硬質さを兼ね揃えていた。広場の周囲はスプーンで穿ったような窪みが囲んでおりその内部には観葉植物の緑が映えていた。窪みの中は青い光で照らされており、それが一種の科学的幻想感を演出していた。広場を囲むようにしてベンチが6脚置かれている。今、高校生くらいの女の子3人がなにやら冊子のようなものに目を通しながら笑い合っていた。それぞれの手には飲み物の入ったカップが握られていた。遠心力的重力の発生するここでは飲み物に気を遣う必要はないのだ。

 ICタグが胸にあるのをしっかりと確認すると、太田は歩き出した。

 ICタグは、これがなければルナの中ではサービスが受けられないというものだ。5センチ×7センチの紙製の札にIC情報が記録されている。特殊な紙自体に情報を記録しているので、折り曲げても切り離さない限り有効である。

 太田の足の向かう先はL‐1にある宇宙観測史エリアだった。ルナの中ではもっともひと気のない静かな場所である。太田自身、孤独を好むわけではないが、このときは大勢の人の中にいたくなかったのだ。

 宇宙観測史エリアは他の区画と違い、中心を通路が貫くような構成になっていない。隣接するエリアからここを通ると、博物館にでもやって来たかのような錯覚を覚える。まさに博物館の一室がそのままはめ込まれたという趣向になっていた。そこは、全部で8つのステージに分かれていて、宇宙の観測の歴史を段階ごとに見ていくことができるようになっている。このエリアだけは照明が落とされ、幾分落ち着いた雰囲気を醸し出していた。

 はじめにガリレオ式望遠鏡のレプリカが展示され、これが天体観測の始まりであると記されていた。スポットライトが奉りたてるように光を照射している。

 天体観測の始まりは実はこれが始まりではない。望遠鏡のない時代、ブラーエは肉眼で星を観測した。彼によってケプラーは有名なケプラーの法則を導き出したのだ。ガリレオはこの法則を批判したが、これが正しいものであるということは現代の観測からも分かっていることだ。

 このエリアを企画した者が調べを怠ったのかというと、そうではない。この宇宙観測史エリアでは、主に観測機器に焦点を当てているので、天体観測の始まりがガリレオ式望遠鏡だと位置づけているのだ。ここ20年ほどの歴史の記述は、このようにして専門化、焦点化してきているのが事実だ。これは歴史に関わらず、他の研究分野にもいえることで、そのために分野間の溝が深まってきているという批判も往々にしてされるのだ。

 観測機器に焦点を当てて展示を行うのには、もうひとつ利点があった。こうすることによってルナ宇宙望遠鏡へと客足を向けようというのだ。もっとも、客入りがあちらに大きく分があることで本末転倒ではあるのだが……。

 このエリアにはぽつぽつとではあるが人の姿が見受けられる。どの顔も熱心に展示に向けられる。しかし、今では若い女の顔しか見えなかった。太田はその人影を横目にしながらも、黙々と順路を辿っていった。各ステージ間は自動のスライドドアで遮られているが、それらは音もなくスムーズに開閉する。ICタグの情報を読み取り、その反応が近づくと開かれる仕組みになっている。センサー式とは違い、AIによる行動予測が反映されたシステムだ。だから、走って近づいてもドアに激突する可能性は低い。


 WMAPと宇宙マイクロ波背景放射、それにより判明した宇宙のパラメータとこれが後世に及ぼした影響についての説明を熱心に読む太田だったが、それをじっと見つめる人影があった――。

 何か音がした。衝撃が襲った。

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