エンデュミオンの覚醒

山野エル

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 雛森芽衣は自らの奥深くから、ズウンズウンという今までに経験したことのない鼓動を感じていた。つい一時間ほど前に滑走路を飛び発った高軌道飛行機は、地上より遥か高みを飛翔していた。飛行機はその内に雛森たちを乗せたシャトルを孕んでいる。今、まさにそのシャトルが吐き出され、宇宙空間へと突入しようとしていたのだ。

 無機質で、間の抜けたポオンという音が機内に響くと、着席とシートベルトの確認が行われた。雛森は両手を握り締めていた。その掌は汗でじっとりと濡れている。

(ああ、ついに宇宙に行くのか)

 彼女の中では言いようのない感動が、ウズウズと爆散するのを待ち構えているようだった。

 アナウンスが流れる。

「これより、本機は高軌道飛行機より射出され、大気圏外へと加速します。その際、多大な加重があります。今しばらくのご辛抱をよろしくお願いいたします……」

 機内の顔ぶれに緊張が走る。しかし、どの表情もまるで天上の楽園へと向かうかのような輝きを帯びていた。

 バシュン、という大きな音が機外に走った。続いて、体がシートに強く押し付けられるような力が加わると、強烈な振動が押し寄せてきた。

 どこかからか聞こえてくる小さな悲鳴を耳に、雛森は目を閉じていた。

(これが、母なる大地から離れようとする者に対する試練なのかしら。でもこの大きな揺れは、まるで、私の鼓動みたい!)

 シャトルは雲霞のごとく攻め入ってくる幾万の兵士を押し退けるかのように突き進んだ。音のない激しい揺れは数分に亘った。ある者は祈るようにきつく目を閉じ、ある者は目を輝かせ、ある者は涙を流していた。

 揺れは、急激に収まった。同時に、シートと自らの体表面との境に奇妙な感覚が走るのを誰もが身をもって知るだろう。無重力状態である。

「あっ!」

 一人の叫び声。宇宙線を完全に防止する窓の向こうには夢のような景色が広がっていたのだ。

 真っ暗な無限の空間。遠くには白々と幾億の光点が煌く。そして、何より目を引くのが、神々しいまでに青く光る母星だった。無音の中、人々の息を飲むのだけが感じられる。やがて、「すげえ」とか「わあ……」といったような感嘆が飛び交うようになる。さきほどまでの激震が嘘であったかのような機内の様子。そして窓の外の光景。

 雛森は窓の縁に手をやり、全身が粟立って止まらないのを感じていた。すごいというようなものでは、もはやないのだ。見るだけで圧倒的な感動の渦の中に放り込まれ、まさに絶句し、その美しさに引き込まれてゆくだけなのだ。

 だから、誰もがしばらくの間釘付けされたようになっていた。無重力の感覚などは二の次だった。そうしていると、再びアナウンスが流れ始める。シートベルトを解除してもいいというのである。


 乗員は200名あまり。向かうは宇宙ステーション型の娯楽施設、LUNA(ルナ)であった。

 LUNA――the Land in the Universe for National Amusementの頭文字をとったこの施設は、稼動から一ヶ月が経とうとしていた。地球と月のおよそ中間地点に浮かぶ巨大な円形の構造物である。遠くから見ると、それはまるで穴のないバウム・クーヘンのようだった。

 ルナは常に回転して、その遠心力を内部の重力としていたが、外殻と内部構造が分離しているので見た目では物言わずに浮かんでいるように見える。


 無重力の感覚にも慣れた頃、シャトルの操縦席からは陽光を受ける白亜の巨大円盤が確認できるようになる。分子による光の拡散が希薄なため、遠くのLUNAも霞まずに見える。LUNAの縁に等間隔の赤点が明滅する。LUNAは最先端の高性能人工知能――AIで全てコントロールされていた。

 この十年、知能を持ったロボットは発達を見せている。簡単なものでは、家庭内の作業とコミュニケーションを目的としたホームヘルパーロボットがある。二〇××年現在、高齢者の人口に占める割合は二五パーセントを超えた。政府は超高齢社会の打破と同時に収税に四苦八苦しているのだが、その状況にこのロボットは好評を博した。しかし、富裕の格差が明確となった今では、その恩恵を受けられない者も多い。

(AIに自我があるのなら、あのルナは一人ぼっちで寂しいのかしら)

 雛森は窓越しに見るLUNAの白体を見つめていた。生身の人間が放り出されれば生きることすら許されない死の空間に、それはポッカリと存在を主張する。目を細める雛森の視界に、瞬きに似た赤の明滅が鋭い針のような輝きを見せた。それは、暗い宇宙の中で、自らの居場所を伝えるべく焚いた灯りなのだ。


 滑らかな粘液の中を進むかのように、シャトルは一切の乱れを感じさせることなく進んだ。地上では体験し得ない慣性航行だ。それが唐突にカクンと動きを見せた。LUNAへのアプローチが始まりを告げたのだった。すでに乗客は着席とシートベルトの着用を命じられていた。無重力状態では些細な衝撃も乱れを招く。地上での飛行機の着陸のようなダイナミックさは欠くが、感動の面では勝るだろうな、と雛森は心の中で頷いた。

 LUNAが近づく。

 地球は遥か後方にあるし、近くに指標となるような星は見えない。月がどこかで光っているはずだが、雛森の視界にはなかった。だから、LUNAへのアプローチの間ずっと彼女は奇妙な感覚を覚えていた。まるで、LUNA自身がこちらへ近づいてくるような、そんな映像を見ているような……。それはまるで映画であった。

 彼女にとって、ここまでの道程は非日常に満たされていた。地球からの脱出、地球の俯瞰、暗黒の中に輝く星々の壮大さ。どれもパソコンのモニターの中や、友人との遊び、登下校中には味わえないものだった。

 人間とは、得てしてそのような非日常に遭遇すると、雑多な考えを次々としてしまうものだ。

(ランデブー、か。書き言葉と読み言葉って何故違うんだろう。rendez-vous……今でもフランスには文字を書くことができない人がいて、代筆屋というのがいるらしい。それは教育の問題だけではなく、書く言葉と読む言葉が全く別物だという何よりの証拠だ。だから、「あ」という発声が文字でいう「あ」と同じものではない。でも、私たちはそれが同じものだと知っている。暗黙の了解なのだ。そしてこの共通認識は同時に人類の歴史の積み重ねなのだ)

 あっ、と彼女はバッグの中に意識を集中した。LUNAへの道中、読もうと思って持ってきていた電子本――ポータブル・ブックの存在をすっかり忘れていたのだ。

 P・ブックは、モニター式の端末と違い、紙に電子的に文字を投影するもので、普通の本と変わらない画面を見るために目の疲れがないというので人気を博している。これは二〇〇〇年頃に一部実用化された電子ペーパー技術の向上によって、低価格化されたものだった。文庫本サイズの薄い板は本のように開くことができる。その内側の表面は紙になっていて、そこに文字列が投影される。雛森の持つモデルには一〇〇ギガバイトのHDDが搭載されている。画像や動画を表示、再生することも可能なのだ。今、雛森のP・ブックには一八冊の本が記録されている。

 雛森は本を読めなかったことを悔しがりながらも、宇宙の偉大さを体験したことで帳消し以上の満足を得ていた。そうして、ゆったりとシートに体を沈めつつ、未だ覚めやらぬ興奮に自らの存在の全てを委ねていた。


 シャトルは滑り続ける。

 ――LUNAはすぐ目の前だ。

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