第7話

つい先ほどまで夢かと疑うような壮絶な体験をしてきたばかりだが、そんなことに一息つく間もなく僕とシエルはこっそりと城内へ入りそれぞれの部屋へと別れた。

 僕が城を出てからここに至るまで数時間経過したのみだ。けれど、今朝シエルが僕の部屋を飛び出して行ってからのことを考えると、僕にとっては一つの冒険を終えたような気分だった。

ともあれ、今日はここからが本番だ。

僕は会談の行われる部屋の扉の前で大きく息を吸って呼吸を整える。時間ギリギリになってしまったので少し申し訳なさそうな表情で部屋に入ると、そこにはすでに父(とお)様(さま)とセバス爺、ラミアの三人が静かに着席していた。

「遅くなってごめんなさい。」

僕はそのままゆっくり歩いて静かにラミアの左側に着席する。

父様とセバス爺には少しばかり落胆された程度だったが、右側からは凍てつくような冷気を感じる。

 そんな氷の視線に耐えていると、しばらくして彼女もこの部屋へと入ってきた。

シエルはシンプルながらも上品な淡い赤色を基調としたドレスに着替え、髪もそれに合わせてきれいに整えられていた。

 彼女は部屋に入ると一度後ろを振り返り、廊下にいる使用人に軽く頭を下げる。そして着席している僕たちの方を向き直り軽く会釈する。身支度を整える時間があったからだろうか、息は上がっておらず、一国の王女としての品格を漂わせながら歩く。

「遅くなってしまい申し訳ありません。」

「まあよい。早く席へ座りなさい。」

 促されシエルはラミアの右側に座る。

そして火蓋は切って落とされる。

「二人ともいったい今までどこで何をしていたの?!」

シエルが着席すると早々に小声で叱られた。

これは予想通りと言ったところだ。でも本当にぎりぎりではあったけど、何とか時間までにあなたの妹を連れて帰った僕だけでも褒めてほしいと思う。

「ホップ、『まかせて』なんて言っておきながら時間ぎりぎりじゃない!」

 しかし、当然のようにその願いは儚く消える。

「色々あって大変だったんだよ」

「何?色々って。」

 僕は一瞬でラミアのプレッシャーに気圧される。

「それは、……。」

「だいたいシエルが城を出たりするから、」

言葉に詰まった僕は早くも他人のせいにするという禁じ手を使ってしまう。

「確かに。シエルあなたいったいどこまで行っていたの?」

 こうして自分の危機は一旦免れた。

その傍らで少女は一人、立ち向かう。

「そんなことどうでもいいでしょ。ちゃんと時間に間に合ったのだから。」

「どうでもいいわけがないでしょう!こんな大事な日に。」

「大事な日って、そんなの形式上の話でしょ。私はいなくたって姉さまがいるのだから問題ないじゃない。」

「それは城の外へ出向いていくときの話です。今回は私たちが迎える立場なのだから全員そろって参加しなければいけないの!」

「はーい。分かりました。」

 こうして僕の右側では世紀末の戦いが繰り広げられている。僕はその火の粉が自分に降りかからないことを切に願いながら横で息を殺す。このまま世界が滅びることになろうとも僕だけは何とか助かりたいと思った。

「だいたいね、ホップも今になってさっきまでのこと掘り返さないでよ。」

 しかし運命は無慈悲だ。こうなれば僕も立ち向かわなければならない。

もう一度戦いの火蓋は切られる。

「そんな、僕がどれだけ苦労したかも知らないくせに!」

「そんなこと言ったって、元はと言えばホップが悪いんじゃない!」

「……。」

 ここで僕は自分の罪を自覚してしまい一瞬にして敗北したのだった。

「ホップとけんかなんてしてなければこんなことにもなっていなかったわ。」

「けんか?あなたたちやっぱり何かあったのね!」

「いや別に、ちょっとした口げんかだよ」

「まったく、いつまでそんな子どもみたいなことやっているの」

「そんなこと言ったってホップがあんなこと言うから」

「そんなのシエルだって」

「こら、やめなさい。」

 父様の一言で僕たち三人は反射的に口を噤む。

 こうして世界を揺るがす戦いは終わりを迎えたのであった。

「そろそろ時間だ。天空教会の方々がお見えになる。三人ともあまり王家の者として恥ずかしい姿を見せるのではないぞ。」

 そう窘められ、僕たちは今一度姿勢と身なりを正して座りなおす。

 すると間もなくして部屋の扉がノックされる音が聞こえる。


コンコンコンコンッ


「失礼いたします。天空教会の方々がお見えになられました。」

その声を聞いて、僕たちは全員で立ち上がる。その後案内を受けながら天空教会の人たちは一人ずつ丁寧に一礼しながら部屋の中へと入って来た。

「お初にお目にかかります。天空教会のダーキスと申します。」

最初に入ってきた人が名乗り、その後に続いて他の人たちも一人一人丁寧に名乗っていく。

「同じくワキラと申します。」

「同じくナライと申します。」

「同じくモルブと申します。」

「同じくアラズと申します。」

「此度はこうして会談の場を設けてくださり誠に感謝いたします。」

「「「「感謝いたします」」」」

 そう言って彼らは全員で完璧に揃ったお辞儀をした。

緊張感もあったからだろうか、僕は彼らのその立ち振る舞いを見て心臓の鼓動が早くなるのを感じた。

特に最初に入ってきたダーキスという人がからはひどく嫌な感じがする。

そう感じているのは自分だけなのかと思い。左右にいる父様やラミア、シエルをそっと横目で確認したけれど、三人とも特別変わったそぶりを見せることはなく凛とした表情で立ち並んでいた。

「遠いところを、よくぞお越しになられました。国王のグレード・シャイナルドです。」

父様が挨拶を返し、それに続いて、僕たちも一人一人名前を名乗る。

「第一王子のホップ・シャイナルドです。」

「第一王女のラミア・シャイナルドです。」

「第二王女のシエル・シャイナルドです。」

「国王の従者でセバスティス・グリフィルドと申します。」

「さぁ、挨拶はこのあたりで、どうぞ席にお席にお座りください。」

 セバス爺まで名乗り終わると父様が全体の着席を促し、僕たちはそれぞれ席に座る。そして静寂の中で天空教会の方々との会談が始まった。


「失礼ですが、教祖のゼルス様は本日お見えになってはおられないのでしょうか。」

 父様の問いかけにダーキスさんが静かに答える。

「あぁ、申し訳ございません。そのことについて事前にお伝えできていませんでした。実はゼルス様はここのところ床に臥せることが多くなっておられます故、現在は私を含めて以前よりゼルス様と共に巡礼していた者たちが主にそれぞれ各地を回っているのです。」

 なぜかこの人の言葉からは不気味さを感じる。

「そうでしたか、こちらこそ失礼を致しました。して、ゼルス様のお体の具合は大丈夫なのですか。」

「はい。床に臥せっているといっても今すぐ生死にかかわるような状態ではございませんので心配なさりませぬよう。」

「そうですか。わかりました。それでは早速始めましょう。」

 一旦場が温まったところで今度こそ会談が始まる。

 僕は無意識に深い呼吸をしていた。

「事前に伺っていた内容としては、まず『飛翔船』というものについてのお話でしたかな。」

「えぇ。今現在皆様のご理解もあってか、我々の開発した『気球』が世界のさまざまな国や地域で利用されているかと思います。そしてこれを導入したことで物資の運搬や人の移動に際して非常に利便性が向上したというお声が、ありがたいことに私たちの元へも日々多く寄せられています。」

「そうですな。わが国でも気球の導入には初めこそ賛否が分かれるところではありましたが、やはり国全体やそこに暮らす民のことを考えた結果、導入することを決めた次第です。それについては実際こちらとしましても仰っているように、全体の利便性の向上は十二分に感じております。」

 父様は一応相手のことを肯定してはいるようだけれど、その口調はどこか冷静で淡々としている。

「それは私共としましても嬉しい限りです。」

ダーキスさんの方はどこか不自然な笑顔を張り付けながら言葉を返す。そんな二人のやり取りをよそに僕はちらっと右側の様子を確認する。

ラミアはこういう雰囲気に慣れているのか、凛とした表情を崩さないまま静かに話を聞いている。シエルはというと、すでにつまらなさそうな表情で手元や部屋の中にちらちらと視線を移しながら退屈そうにしている。

「そこで本日は先ほど名前の出ました『飛翔船』というものを新しく提案させていただきたく、この場を設けていただいた次第です。」

 ほんの一瞬の間を開けて父様が口を開く。

「ふむ、まずはそれについてお聞かせ願おう。」

 また少し空気が重くなる。

「はい。これはまだ私たちとしましても開発段階のものではあるのですが、端的に言って大勢を乗せて空に飛ばすためのものです。」

 そう言ってダーキスさんは横に座る人から資料を受け取り、それを父様へと差し出す。父様はしばらく無言でその資料に目を通す。

「拝見しました。ところでこれは今活用されている気球とどのように違うのでしょうか。あれも大人数ではないものの人の移動はできております。」

 父様の口調がまた少し強くなる。

「そうなのですが、これはそういった物や人の移動ではなく、純粋に人を空に上げるということに焦点を置いていります。」

 そしてダーキスさんは一拍置いて、最後に言葉を付け足す。

「言うなれば、『箱舟』ですよ。」

ダーキスさんのその言葉を聞いて、普段は温厚な父様が横でさらに険しい表情を浮かべているのが伝わってくる。

「何故、そのようなものが?」

「何故……、ですか。」

 それに対してダーキスさんは不敵な笑みを浮かべる。

「憧れ、ですよ?」

 それを聞いた父様は湧き上がった怒りを抑えるように息を吞む。

「憧れ?」

 しかし何とか冷静に言葉を続ける。

「それは少々如何なものかと思いますがな?」

「と、言うと?」

ダーキスさんはわざとらしく疑問の言葉を返す。

「あなた方天空教会はこの空を信仰の対象として掲げておられる。日頃より多くの民に説いておられるその教えは、天より世界に降り注ぐ恵みに感謝すること。そしてその恵みにより循環するこの世界の安寧が未来永劫保たれることを皆が切に願い生きる、ということに指針を置かれているはずだ。」

激情こそしないものの、父様の声からは怒りの感情が零れている。

「それにも拘らずその信仰の対象に有益な目的もなくただ手を伸ばすことに何の意味がある!それは天に対する冒瀆ではないのか?悪いがその考えに私は到底納得できない。」

そして部屋の中は凍てつく冷たい空気から一転して、雷撃が迸るような激動の空気へと変わっていく。

 しかし、ダーキスさんはそれを軽く受け流すようにして話し出す。

「ええ、確かに。私たち天空教会とその信徒は教祖ゼルスの元、『空』というものを信仰し彼の教えに深く賛同している。そして今グレード様が言われた通り、その教えを大衆に広く届けるために日夜世界各地を巡っているのです。」

冷静な態度から一転してダーキスさんが饒舌に語りだす。

「そんな中で私たちのような教会内でもより信仰心の深い者たちはある考えに至ったのですよ!!!」

「「「「「…………」」」」」

彼の語りに圧倒され僕たちは無意識に口籠ってしまう。

「自分たちが深く信仰し、愛ともいうべき感情を抱くその『空』の果てには一体何があるのか。」

 そのまま彼の独演が続けられる。

「私たち人間は今までこの地上にその身を生涯縛り付けられていた。地の上で生まれ、育てられ、時に育みながら死を迎えて最後は地に返っていくだけ。私はずっと考えていました。全てが地上で完結するだけの一生なのにも拘らず、なぜこの世界の上にはこんなにも我々を魅了する美しい『世界の片鱗』が見えているのかと。そして、私たち人間がこの空に憧れを抱けたのはなぜなのか。私は思うのです。きっとその考えにたどり着いたことこそが私たち人間の人間たる所以であり人間に与えられた意味なのではないかのと、長く縛られたこの身と思考からついに抜け出す時が来たのだと。そしてその憧れを持ち続けた我々の愛はついに人を空に上げることを成し遂げた。そうすれば次に目指すのはその空の果て。そこに何があるのか。私はそれを求めずにはいられないのですよ。」

 ダーキスさんは高ぶる感情を抑えることなく、身振り手振りを加えながら自身の胸の内を僕たちの前で盛大に披露する。そんなダーキスさんを止めることもなく横に座る他の人たちはただじっと正面を見つめている。

 この様子にはさすがにラミアやシエルも驚いて彼らに対する嫌悪や恐怖を露わにしていた。

 僕たちが圧倒されていると、ふと我に返ったダーキスさんが一息ついて再び話し始める。

「おっと。これは私としましたことが、お恥ずかしいところをお見せしてしまい申し訳ありませんでした。何せ、この思想を大々的に披露するのは初めてのことでしたのでつい熱が入りすぎてしまいました。無礼をお許しください。」

 そう言ってダーキスさんはさっきまでの立ち振る舞いが嘘というか、演技だったかのように紳士的な口調になり深々とこちらに頭を下げて謝罪の言葉を口にした。

 その後ダーキスさんが椅子へ座るのを待って父様が話し出す。

「……あなたの考え、理解はできました。その信仰心の深さゆえにたどり着かれた思想なのでしょう。私には教会内全体のことまでを推し量ることはできませんが、気球ができ、今度はそれよりも大掛かりな『飛翔船』というものを作ろうとされている辺り、あなたのようなお考えを持たれている方々は一定数おられるのでしょう。」

 父様は意外にも落ち着いた口調だ。

「しかしながら、今の私にはあなたの考えに共感することは致しかねる。私は古くからゼルス様と親交を深くし、その中で何度もあの方の考えを説き教えられてきたが、今ここで聞いたあなたの思想の中にゼルス様の思想を感じることはできない。」

「………。」

「国王という立場でこのようなことを言うのはあまり褒められたことではないのだが、私個人としては今の気球ですらあまり良い印象を抱いてはいない。」

 その意外な考えを唐突に聞かされた僕は反射的に父様の方に顔を向ける。

「だが私にも一国の主としての責任がある。自己の考えを優先していてはいつかこの国を亡ぼす。それ故に民の安寧とこの国の発展が期待できるのならば、と前向きな想いであれを活用させていただくことを決めた。」

「それは何とも素晴らしいお考えです。」

「しかしながら、いや、だからこそ此度の『飛翔船』というものにはどうにも肯定を抱くことができない。無償に与えられる恵みに対して、その根源に辿り着こうというのは立派な好奇心ではあると思うが、その先に私は未来があるとは思えない。」

「ふむ、」

「先ほどあなたは、人が天に魅せられ、この地から足を離してその果てを目指そうとすることが人に与えられた意味であると言われた。それが神からの啓示であると。ならばその反面、この世界に生きる私たちが地に足をつけて生きていることもまた意味のあることではないのかと私は考えている。」

 父様はそのまま言葉を続ける。

「今でこそ忘れ去られ、私たちのような老いぼれしか知らぬであろうことになってしまったが、天に昇ることはそもそも御法度なのだ。それはその命が絶える瞬間に初めて迎える魂の解放。私たちが知りえぬ場所への帰還。」

「……」

「時代錯誤な老人の古い考えだと思ってもらっても構わない。しかし今の私には自ら人々が天へ昇ることはこの世界の破滅につながるとしか思えない。」

 落ち着いた口調から一転して父様は珍しく感情を交えながら、自身の思いの内を一気に語った。

「その考え、常々ゼルス様も語っておられましたよ。」

「そうか、ならばよかった。今もあのお方の考えは一貫しておられるようだ。」

 数十秒の沈黙が流れたところでセバス爺が口を開く。

「失礼、この話は一度保留ということにさせていただいてよろしいですかな。このまま話し合われてところで今は結論も出ますまい。」

「そうですね。私共としましても配慮に欠けた部分がありました。改めて謝罪いたします、失礼いたしました。」

「こちらもそれについては申し訳なかった。」

「これについては、また別の機会にということで。それからそちらの従者の方、感謝いたします。」

「セバス、私からも感謝する。」

「いえ、少々出すぎた真似をしてしまいました。」


 そんな大人たちの会話が飛びかった後は、次々と予定通りの内容で話が進められていき、最初の熱量が嘘だったかのようにあっさりと会談は終わりを迎えた。

最初が印象的だっただけにその後の内容はとても淡白なものに感じて、お金や物資などの小難しい話ばかりなのも相まって緊張の糸が切れた僕は途中からうとうとしながらそこに座っていた。


「それでは此度はこれにて失礼させていただきます。」

「「「失礼いたします。」」」

 最初にも聞いた不気味なほど揃ったその声を聞いて反射的に姿勢を正す。

一行は立ち上がり、深々とお辞儀をした後使用人の人に導かれて扉の方へ向かう。

 こちらも立ち上がり、全員で退室する一行に深くお辞儀をして見送った。

 しばらくの静寂が部屋の中に充満する。そんな中でふと窓の方に目をやると、ガラスに水滴が流れているのが見えた。その先に見える空は灰色に染まっており、ここにいる僕たちの感情がそのまま反映されているようだった。


会談が終わると僕はすぐに自分の部屋へと戻り、着ていた服を着崩してベッドに体を倒す。そしてそのまま頭も布団へ沈み込むと同時に自然と瞼も落ちてくる。

降る雨は先ほどと比べて段々とその強さを増し、雨粒の一滴一滴がガラスを強く叩くように打ち付けている。

「はぁ~、疲れたー。」

ほとんど閉じられた瞼の裏には今朝の一件からの出来事が走馬灯のように怒涛の勢いで駆け巡っていく。

それに加えて今日初めてあんな堅苦しい空間で慣れない時間を過ごしたんだから単純に僕の身体的かつ精神的な体力は限界をとっくに超えていた。

そんなことを思いながら今からは夕食の時間まで少しの間眠ろう。と思ったのだけれどそんな一時すら今日の僕には許されないらしい……。


コンコンコンッ!


僕は突然の大きなノックの音に驚いて反射的に目を開け、少しだけ体を起こす。しかし、来訪者はこの部屋の主である僕が「はーい」という返事を返す間もなく、扉を無造作に開けて入ってきた。

 僕の途切れかけていた意識は強制的に現実へと戻されてしまい、とりあえずベッドから体を起こす。

「ホップ、入るわね~」

「シエル?って言うかもう入ってるし!」

「はいはいお邪魔しまーす。」

そう言って部屋に入ってきたシエルはさっきまで着ていたドレスをすっかり着替えてしまっていた。

僕の視線は彼女の身に纏う薄いピンク色のネグリジェを無意識に捉える。それは普段着ている服よりも明らかに生地が薄く、そこから見え隠れするように透ける肌が僕には少々艶めかしく映ってしまう。またそのひらひらとした質感も相まってだろうか、何だか見てはいけないものを見てしまっている気がする。

僕はそこから視線を逸らすようにやや斜め上に視線を外す。

「な、なんだよいきなり、…何か用事?」

「そんなんじゃないわよ」

「じゃあいったい何しに来たんだよ?」

「何って、寝に来たのよ」

 思考が一瞬停止した。

「……。はぁ!?」

「もう、何よ、うるさいわね。」

突然で理解の追い付かないシエルの言葉にわかりやすく動揺して、さっきまでの眠気が吹き飛んだ。

僕はおそらく鏡で見なくてもわかるくらいに赤面したその顔を咄嗟に腕で顔を覆う。

「いや、だって、シエル、い、いきなり来て、そんな服で、寝に来たって、そんなこと僕、急に言われても、」

そんな僕のあたふたした様子にシエルは半目を開け、一歩、また一歩と近寄ってくる。

「もう、なんでもいいから!」

そう言って僕の方を凝視しながら最後は足早に歩く。僕は頭が混乱して身動きが取れない。

「ま、まって?!」

僕の言葉を聞くこともなく、彼女は流れるように僕のベッドへと体を倒していく。


   バタンッ!!!


「……、」

「すぅー、すぅー、すぅー、」

そしてそのまま彼女は一人ベッドで眠ってしまった。

「はぁ、まったく何なんだよ。」

 と言いつつも、シエルを起こすこともできず、かといってこの冴えてしまった頭のままうとうとすることもできない。

 僕は本棚から適当な小説を一冊手に取り椅子に座って、激しい雨音の中しばしの読書を始めることにした。

十数ページも読んだだろうかというところで、再びうとうととし始める。

 ついには限界が来そうだったので僕は読んでいたそれをそっと閉じ、背もたれに大きく体を預けて瞼を閉じ、


コンッ、コンッ、コンッ


ようとした瞬間またも誰かが静かに扉をノックする。

 僕は立ち上がってドアに向かう。

「……、はい。」

 今度こそ返事を返してそのドアを開ける。

するとそこに立っていたのはラミアだった。

「今度はラミアか。どうしたの?」

ラミアは少し困ったような顔で首を傾げる。

「ホップごめんなさい、少しの間この部屋にいてもいい?」

先ほどの出来事が一瞬で思い返される。

僕は目をパチパチとさせながらもう一度思考が止まってしまった。

何だかよくわからないけど今ラミアをこの部屋に入れてしまったら変な誤解をされて、事が良からぬ方に進む気がする。

ラミアはそんな僕を少々怪訝そうに見る。

「ホップ?何か取り込み中なの?」

 ラミアの声で意識が目の前の彼女に戻る。

「え?、いや、そんなことはないんだけど、ちょっと今はよくないって言うかなんて言うか、やめといたほうがいいというか」

 咄嗟にまともな嘘が思いつくわけもなく、自分でも言いながら動揺してしまっているのを自覚する。

「お願い、少しの間だけでいいのよ。」

「いや、でも今は」

「何かしているの?」

 その言葉にひどく反応する。

「っ!別に何もしてないけど!」

「それなら、」と言ってラミアはいつになく半ば強引にドアを開けて僕の横を通って部屋へと入った。

 僕は何かを覚悟する。

が、それは只の杞憂に終わった。

「あら、やっぱりシエルもこの部屋に来ていたのね。」

 部屋に入ってから開口一番、ベッドに横たわっている自分の妹を見てラミアがほほ笑みながらそう言った。

「もう、この子ったら、これから夕食だって言うのにこんな格好に着替えてしまって」

 ラミアは僕のベッドに腰かけ、その横で眠りにつく妹の頬や髪をそっと撫でながら優しく呟く。

「でも、仕方ないわね。今日は慣れないことをして色々と疲れたのかしら」

 そう言ってラミアはベッドですやすや眠るシエルを慈しむように、上からそっと布団を掛ける。

 そして僕の方を振り返り、

「改めて、少しの間二人でお邪魔します。」

そう言ってキレイにほほ笑んだ。


「なんだ、そんなことだったのか。続けて二人が来るからびっくりしたよ、色々と……。」

 僕はラミアから今のこの状況について、事の経緯を聞いている。ここに来てようやく安らかなひと時が過ごせそうだ。

「ふふっ。そんなに驚くようなこと?」

「だって、いきなりだったから」

 どうやら今、彼女たち二人の部屋は掃除をしてもらっている真っ最中らしい。

いつもは昼間、部屋を空ける適当な時間に使用人の人たちが数人で手際よく終わらせてくれているのだけれど、今日に限っては天空教会の人たちの来訪があったからか時間がいつもより大幅にずれ込んでしまった、ということらしい。

 そして今はもうすっかり外も暗くなってしまい、庭園でティータイムを楽しみながら読書をして掃除が終わるまでの時間を過ごすこともできない、ということで二人とも僕の部屋へ来たということらしい。

 説明を終えるとラミアはシエルの眠っているベッドに腰かけたまま「ふぅ、」と肩で大きなため息をついた。

「ラミアお疲れ様だね、と言っても今日は僕もかなり疲れたけど」

 話を終えた彼女から疲労が伝わってきたので、僕は自然とねぎらいの言葉をかける。

「ええ、本当にそうね。私も今日の会談はいつになく疲れてしまったわ。お父様があんなにも感情を表に出されているところなんて本当に久しぶりに見たから。こっちまで緊張してしまったわ。」

「うん、僕もだよ。父様があんなにも怒ってるところなんて、今までほとんど見たことなかった。」

 それも他人に対して、と付け加えて思う。

「そうね。でも逆に言えば、それだけお父様にとっては譲れない大切な話だったということなのかもしれないわね。」

 ラミアはその言葉から会談中の父様の心境について少しだけ何かを察している様子だったので僕は興味本位でラミアにそのことを尋ねた。

「……よくわからなかったんだけどさ、ダーキスさんの言ったことってそんなに悪いことなのかな?言ってること自体は何となくわかる気もするんだけど。」

 ラミアは不意に飛んできたその問いかけに対して、困惑した表情を浮かべた。

「正直私にも分からないわ。というより、うまく言葉にできないと言った方が正しいのかもしれないわね。」

 僕たちはしばらく黙り込む。

「……この話はお終い。」

 そう言ってラミアは話を切り上げる。

「さて、そろそろ夕食の準備ができたころじゃないかしら?」

「そうだね。もうお腹ペコペコだよ。今日の夕食は何かな。」

「もう、ホップたら子どもみたいなこと言って、」

 クスッと笑いながらラミアがそう言ってくれたことでなんだか少しほっとした。

「そう言いつつ私もなのよね。早く行きましょう。」

「うん。」

そうしてシエルを慎重に起こしてから僕たち三人は今日という日を終える。


食事が終わって部屋に戻ったころには雨は少しだけその強さを和らげているようだった。

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