三
警視庁の資料室で、岡部は溜息をついた。石田が白い目で見つめた。
「岡部さん、溜息は不幸になるんですよ」
「知ってるか、それを言ってるのは日本だけなんだぜ」
事件資料を前に岡部は得意げに応じた。
「それにしても、この『資料整理』、きつくないですか」
「黙ってやれ。そうじゃなくても俺たちはもう崖っぷちなんだ」
警視庁捜査一課検証捜査係……たった二人の部署だ。その任務は資料整理と題された未解決事件の検証だった。
「見ろ。福岡の毒殺事件だ」
箱の中から机の上にファイルを投げて寄越す。石田は暗い表情でファイルを開いた。
「これって、ずっと犯人が捕まってないやつじゃないですか」
「そうだ、こいつを解決できれば、俺たちの部署にも箔がつくだろう」
「それ以前に、解決できないでしょう……。もうこれ鑑識もちゃんと入ってたんだし、新しい証拠なんかもないですよ、きっと」
岡部は箱から取り出した別のファイルで石田の頭を引っ叩いた。
「いいから、こいつからやるぞ」
「事件資料で叩かないでくださいよ」
事件は福岡のとある一家で起こった。税金の滞納が続いていたこの一家に税務署が調査を寄越したところ、もぬけの殻だったという。マンションの一室だったため、大家立会いのもと室内の点検が行われた。やがて判明したのは、リビングの床下が抜けており、そこにセメント漬けの三つの遺体があったことだった。一家の主人が会社を無断欠勤するようになったのが、この発見から五年ほど前。少なくとも、一課はその頃には殺害されていたとみられ、遺体の状況からもそのことが裏づけられた。
「毒殺だったらしい」
「一家三人を毒殺ですか、でもどうやって?」
「分からん。とにかく、三人が殺された」
「雲を掴むような話ですね」
「だが、資料によれば、三人の胃からワインが検出されている。犯人は三人にワインを飲ませたんだろう」
「知り合いの犯行ってことですか?」
「いや、こいつは違う」
「なんでそう言えるんです」
「一家丸ごとが狙われたんだ」
「恨みを持っていた人物がやったのかも」
「こいつは背乗りだ」
「はいのり? あのピンク色のワゴンで旅をする――」
「違う。他人の戸籍を乗っ取る犯罪のことだ。捜査の中でも、遺体の死亡時期よりも最近に部屋を出入りする女の姿が目撃されている」
石田はぶるりと体を震わせた。
「軽くホラーですね……。ん? そういえば、なんで福岡の事件なのに、ここに資料があるんです?」
「その女と似た特徴の人物が東京で目撃されたからだ。当時共同捜査になったらしい」
「だからこっちにも情報が……」
「だが、それ以来手がかりは得られず」
「もしかしたら」石田はまた体を震わせた。「犯人はまた背乗りをしてるんじゃ……」
その話を聞いていた祐未が静かに口を開いた。三代子の家のリビングだ。三代子は二人の刑事に挟まれてソファでおとなしくしている。
「じゃあ、それがこの家の……?」
「結果的にそうだったらしいな。棚ぼたってやつだ」
岡部が歯を見せる。
「三代子さん……」
祐未がそう口にするが、いつものような返事はなかった。
「こいつは三代子さんじゃない」
ただ、岡部がそう答えるだけっだった。戸籍を乗っ取った女はじっと老人たちを睨みつけていた。祖父江が言う。
「僕が初めに依頼を受けたんだ。孫井さんから」
「おばあちゃんから?」
「なんだ、俺たち騙されてたのか?」成作がひとりでそう叫んだ。「え? なんだよ、源さん、お前知らなかったんじゃないのか?」
源十郎は照れ臭そうに頭を掻いた。
「実は、途中から知ってたんだよ」
「水臭いぞ! 俺と祐未ちゃんだけか、最後まで知らなかったのは」
鹿子は笑う。
「ほら、敵を騙すには味方からっていうでしょ」
祖父江が、まあまあと成作を慰める。
「僕のもとに来た依頼は奇妙なものでした。孫井さんは偶然目にしたんだそうです、初瀬さんの家にセメントを運ぶ女の人を」
「もう何年も前のことだけどね。でも、ずっと気になっていたのよ。私たちのお友達になってからも」
「そう、初瀬さんの素性調査を依頼されたんです。しかし、特別変なもの何も見つからなかった。しかし、老人の一人暮らしで家にセメントを運び入れるというのはどうも引っかかる。この家の中には何かが隠されているのではないか、とそう考えるようになったんです」
「でも、こんなことになるなんて、思いもよらなかったんじゃないですか?」
祐未が尋ねると祖父江はうなずいた。
「だから、直接確かめたんだ。そのために、絵画投資詐欺で初瀬さんには家を出ていてもらう必要があった」
古池がここで笑顔で割って入ってきた。
「だから、俺も招集された偽者の詐欺師として」
祐未は口を覆って驚きの声を上げた。
「ずっと騙してたんですか、私たちを」
「いや、正確には君を主に騙してた。君をコントロールできないと、計画が丸潰れになる可能性があったからな」
祐未は顔を真っ赤にして俯いた。
「私一人でバカみたいじゃないですか!」
「すまんすまん。友人の頼みは断れなかったんだよ」
今やただの古池になった彼は優しそうに笑った。
「じゃあ、絵画投資詐欺の時に源さんも一緒に家の中を探したんだ?」
「そうだ。びっくりしたぞ」
「え、ちょっと待ってください!」祐未はクルクル回って頭を抱えた。ずいぶん混乱しているらしい。「じゃあ、中園さんのことは?」
「中園さんももちろん、僕らの仲間。ただし、『古池という詐欺師に騙される振りをしてください』とだけ伝えてあった」
「でもだって、土地を売ったって新聞に」
「その前に新聞で古池を騙そうとしていたのに、あの新聞は信じたのか」
「あっ!」祐未は目を見開いた。「あの新聞、偽物だったんですか!」
「君を騙すのが一番苦労したよ」
「言ってくれればよかったのに」
「だから言ったでしょ」鹿子が祐未の背中をさすった。「敵を騙すには味方からって」
「じゃあ、おばあちゃんの六千万円の話も」
「全部うそよ」
「えええええ~! そんなああああああ~!」
叫んで祐未はその場にへたり込んだ。あまりにも滑稽な姿に老人たちは腹を抱えて笑った。しばらく笑っていたが、成作は我に返った。
「あれだけ六千万のことでごちゃごちゃやってたのは無駄だったんじゃねえか」
「いや、決してそういうわけじゃありません。僕たちの計画は、あくまで和室の床下にある死体を警察に発見してもらうことだったんです。それも、この女が逃げられない状況を作った状態で」
全ての謎が解明されたころに、遠くからパトカーのサイレンの音が近づいてきた。祖父江は三代子だった女に近づいた。
「なぜこんなことを」
女は答えなかった。だが、ぽつりと言うのであった。
「みんなして私を騙していたのね。傷ついたわ。私たち、友達でしょう」
源十郎は首を振った。
「もう友達じゃねえよ」
「ひどいのね。何年も一緒にあのベンチでお話していたじゃない」
「お前の本性を誰も知らなかったんだぞ」
成作は腫れ物にでも触れるような表情でそう言った。鹿子もうなずく。
「私たちがお友達になるはずだったのは、和室の下で眠っているかわいそうなあの人。あなたじゃないわ」
岡部は鼻息荒い女を鎮めてから渋い顔をした。
「余罪があるかもしれん。福岡の事件の手際が良すぎたからな」
女は笑った。
「あんたたちになんか分かりっこないわよ。私の気持ちなんて」
パトカーのサイレンの音が止まった。女は岡部と石田に立たされ玄関の方へ向かった。その背中に鹿子が問いかける。
「あなた、名前は?」
「もう忘れたわよ、そんなもの」
背中で答える女が玄関のドアで隔たれていくのを一同はただじっと見つめていた。
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