五章 何が何でもうそをつけ
一
祖父江はケースの中身を二度見した。中身はスケッチブックの紙を切って作った紙束が。つまり、全く同じ状態のケースが丸ごと二個テーブルの上に載っていることになる。ニコニコしていた鹿子もさすがに等やかな表情が消し飛んで祖父江を見つめた。
「これもお約束の流れなの?」
「いや……」祖父江は紙束を掻き分けてケースの中身を検めたが、無駄だった。「いや、そんなバカな。僕は確かに本物のケースを持って行ったんですよ!」
同じように偽物とされていた方のケースの中身を掻き分けて中身を見たが、入っているのは紙切れだけだ。これには源十郎も目を白黒させて成り行きを見守るしかなかった。祐未は問いかけた。
「どういうことなんですか? これは本当にもうお芝居じゃないんですか?」
「芝居なもんか!」祖父江は取り乱していた。「僕は予定通りケースを入れ替えただけだ」
「ケースを入れ替えても中身は確認できなかったんですよね」
「そうだ、夜中にケースを入れ替えて車に運んだ時点では、僕はロック番号を知らなかった。だから、中身は今初めて見たんだ」
祐未は祖父江のノートを手前に寄せた。
「ケースを入れ替えたのは、具体的に何時だったんですか?」
「三時過ぎに成作さんがトイレに入ってしばらくしてからだから、三時半ごろだったと思う。偽のケースを車に取りに行って、君たちの部屋に入ってすぐにクローゼットの中のケースと入れ替えたんだ。入れ替えたケースはすぐに僕の車の中へ」
「となると、おばあちゃんがケースをしまった昨夜十時過ぎ以降から祖父江さんがケースを入れ替えた今朝の三時半の間にケースの中身が紙の束になっていたということになりますよね。奇しくも、さっきの議論がまた復活することになります。つまり……」
祐未はノートに議論のポイントを書き込んだ。
「誰が、いつ、どうやってケースの中身を入れ替えたのか。ケースのダイヤルロックの問題は、ここではもう解決済みです。なぜなら、祖父江さんが入れ替えたケースはロック機構が壊されていたから」
「なら、さっき祐未ちゃんが言っていたことを今こそやるべきじゃない?」鹿子が言った。「本物のケースから取り出されたお金は今もこの家のどこかにあるかもしれないんでしょ」
その一言がきっかけで、三代子の家の中は大騒ぎとなった。ただし、祐未が提案した方法は実に厳密であった。
「全員が同じ部屋を一つずつ調べていこう。また変な疑いが起こらないようにね」
カネが消えていたことが相当ショックだったのか、ずっと落ち込んでいた祖父江も我を取り戻していた。
「六千万円は新札でも束を積み上げれば六十センチの高さになります。簡単に隠し持てるようなものじゃありません」
一同は二階から順番に虱潰しに調べていったわけだが、賢明な読者諸君はこれで簡単にカネが見つかったとは思わないだろう。事実その通りで、たっぷり二時間後には疲労困憊の六人がリビングに転がることになった。念のために狭い庭も全員で調べ上げた結果だ。広いとは言えない家ではあったが、百万円の束程度のものを隠すスペースは大量に存在し、それが創作の時間を長引かせる原因となった。
「ダメだ。どこにもない……!」
成作がフローリングの床に大の字になった。祐未は難しい顔をしていた。
「どこにもないってことは、家の外に持ち出されたことは確かだよね」
その一言は新たな火種になり得た。
「この中で、昨夜から今朝にかけて外に出たのは誰だぁ?」
成作がそう問い詰めるのは源十郎だった。
「なんで俺を見るんだよ」
「おめえが怪しいからだろうが。二回もトイレに起きたのも本当か? 本当は紙の束でも作ってたんじゃねえのか?」
「なんだと、この野郎!」
掴みかからんばかりの二人の間に残りの全員が割って入ると、さすがに二人の老人は矛を収め合った。祐未は祖父江を見た。
「議論自体は単純になったわけですよね」
「そうなるね」
三代子が尋ねる。
「どういうこと?」
祐未は祖父江が色々書き込んできたノートを手にしながらゆっくり話し始めた。
「さっきまでは、昨夜から今朝までいつごろケースが入れ替えられたのか分からないままだったでしょ。それが五時間半くらいの幅に絞れたの」
「しかも」祖父江が付け加える。「祐未ちゃんは二時くらいまで起きていたので、実際は一時間半の間にケースの中身がすり替えられたことになります」
「それに、ケースのロックはあってなかったようなものだった。二つ目のケースの中身が偽物だったことで、考えようによってはずいぶん楽になったんだよ。少なくとも、不可能状況じゃなくなった」
「それで、祐未ちゃんはどう考えるの?」
鹿子の目は期待に光っていた。祖父江に向けられていたのとはずいぶん違う。祐未は鉛筆の先でノートを小突きながら考え込んだ。
「二時過ぎから三時半までの間にトイレに立ったのは、源さん、成作さん、そして祖父江さんの三人だけ……」
「おいおい祐未ちゃん、また俺たちを疑――」
「そんなことを言いたいんじゃないよ、源さん。私はあくまで冷静に考えたいだけ」
真っ直ぐな瞳に射抜かれて、源十郎は思わず口を噤んだ。
「これは言い換えれば、三十分に一回は人の目があったっていうことになる。犯人にとっては、すごく危険な状態だと思うの。三人のうちの誰かが犯人だとしても、四十五分に一回は人の目があったわけだから、危険なことは変わりない」
三人はじっと祐未の言葉に耳を傾けていた。誰が夜中に起きるかなど、誰にも予想できることではない。常に露見リスクが伴うというわけだ。
「私、二時くらいまで起きてたって言ったでしょ。部屋の電気は消してたんだよ。だから、私が起きてる時に犯人が入ってきてもおかしくなかった。そうならなかったのは、ただただ偶然だと思う」
鹿子がぶるっと体を震わせた。
「恐ろしいこと」
「それから、二階の部屋にいると廊下を誰かが歩けばなんとなく分かるんだよね。私が起きてた時間は誰も廊下を歩いていなかったと思う。だから、源さんか成作さんが犯人だとしたら、紙の束を作るのが恐ろしく速いってことになると思うの。早くても二時十五分くらいに何度からスケッチブックを持ってきて部屋で紙の束を作ったとしたら、一時間でケースを埋める紙の束を作ったことになる」
祖父江が口を挟む。
「一時間あれば問題ないだろう」
「違うんです。ケースの中の髪の束をよく見てください。大きさが揃っているんです」
祖父江は言われた通りに十数枚の紙きれを掴んで調べ始めた。確かに、いずれの髪も札と似たサイズで統一されている。切り口も真っ直ぐで仕事の丁寧さが窺える。
「ということは、俺たちは……」
「まず、紙の束を作ったとは考えにくいと思う」
「よしっ!」
さっきまでいがみ合っていた二人は腕を組んで笑顔になった。
「おばあちゃんはそもそもこんなことをするはずがないから容疑から外れる。じゃあ、三代子さんはどうか?」
三代子は緊張の面持ちだ。
「三代子さんのことを考える前に、祖父江さんが夜どのように過ごしていたかに興味があるんです……変な意味じゃないですよ」
「いや、誰もそんな風に思ってないよ。僕の過ごし方?」
「はい。祖父江さんはケースを入れ替える役目を担っていましたよね。だとしたら、いつ入れ替えるべきかずっとタイミングを探っていたと思うんです。祖父江さん、ずっと起きていたんじゃないですか?」
「その通りだよ。結局三時半ごろにケースを入れ替えてようやく眠ったくらいだ」
「となると、三代子さんが和室から出てリビングを通ったのだとしたら、祖父江さんが気づかないはずがないんです。どうでしたか、祖父江さん?」
「いや、初瀬さんは僕が起きている間は和室から出ていないよ。さっきも言ったとおり四時半ごろにトイレに行くのは感じていたけれどね」
祐未は満足そうにうなずいた。
「ということは、三代子さんにも紙の束を作ることができない。そして祖父江さんに至っては、今回の件の仕掛け人です。それでも具体的に考えてみると、紙の束を作ることはできたかもしれません。だけど、本物のケースを持ってきたのは祖父江さんです。中身が紙切れの本物のケース……中身が暴かれてしまったら都合が悪くなるのは祖父江さんじゃないでしょうか。なぜなら、中身が紙切れだと分かれば、源さんが祖父江さんの仕業だとすぐに見抜くことができますからね」
「そうだな、元探偵の俺ならすぐに分かっただろう」
と源十郎がうそぶく。
「もし僕が犯人なら、車のロックをかけずにおいて車上荒らしに遭ったように見せかけておくね。そうすればケースは消えたままになる。犯人はどこかの車上荒らしということになって自分は容疑圏内から外れることができる」
「そういうことになります」
「いやいやいや、ちょっと待ってくれ」成作が吼える。「じゃあ、この家の中の誰もチャンスがなかったってことに……」
「でも」祐未が重々しく口を開く。「紙の束を作れて外に運び去れる人が一人だけいます。私です」
「ええっ!」
一同は祐未の爆弾発言に驚きの声を上げた。
「私は階段に一番近い部屋にいました。納戸は階段を降りてすぐです。一時過ぎなら成作さんも寝ていたでしょうから二時間半は紙の束を作る時間がある。私もおばあちゃんたちも、源さんが朝の散歩を日課にしてることは知ってた。そして、私も祖父江さんと同じで玄関のホームセキュリティに気づいていたから、勝手口から外に出ることも考えられたけど、リビングに祖父江さんがいるのに気づいて躊躇して、源さんが六時過ぎに散歩に行くのを見計らって玄関から出ればお金をどこかに隠すことができる」
犯人は私です、を地で行く彼女の告発にリビングは静まり返ってしまった。
「祐未ちゃんが……」
成作が呟いた。だが、黙っていなかったのは祖父江だった。
「そんなことを君がするとは思えない」
「分からないですよね。ずっとお金が欲しかったかもしれない」
「そんなことを君は言っていなかった」
「隠していただけかも」
「祐未ちゃん」鹿子が言う。その瞳は少しだけ潤っているように見えた。「おばあちゃんを甘く見ないでほしいわね。もし祐未ちゃんが部屋で紙の束を作っていたら、さすがの私でも気がつくわよ。どうして自分を犯人みたいに言っちゃうの」
祐未は俯いた。
「この中の誰かが犯人だなんて、思いたくないんだよ……」
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