夫はがんだった。

 気づいたのが遅すぎたが、最期まで彼は自分らしくあったように三代子は思っていた。

「どうせ母親からもらった命なんだ」

 夫はことあるごとにそう言っていた。いつか自分の命が尽きる時を覚悟していたような。だから、三代子は寂しくはあったが、悲しくはなかった。いや、悲しくない振りをした。夫は人の悲しむのを見るのが嫌いだったから。子供はいなかった。夫婦は不妊だったのだ。原因を調べたことはなかった。夫が言った。

「俺たちの問題だから」

 どちらかに原因があるのではない。巡り巡って一緒になった夫婦一個としての問題だと彼は言ったのだ。それだけで三代子は救われた。

「最後はお前の茄子の煮つけが食いたいな」

 そう強がって彼は旅立って行った。彼が最後に茄子の煮つけを口にしたのはいつだったろうかと三代子は考えて、溢れ出る涙を止められなかった。

 家が広くなった。

 夫の笑い声もいびきも聞こえなくなった。趣味の釣りに出かけていく「いってきます」の声も。彼の遺影は大物を釣り上げた時の満面の笑顔だ。和室に置いたその写真を見るたびに、楽しかった日々が三代子の中に蘇るのだった。

 三代子には友達がいなかった。大勢あの世に行ったということもあったが、家が楽しかったから。一人で家に居る時間は、夫がいたころより何倍も長く感じた。

 何年か過ぎた。

 三代子は外を出歩くようにしてみた。寂しかったのだ。毎日決まった道を歩く。あのコンビニの前も通る。いつも談笑する老人たち。どこかでうらやましいと感じていた。そんな中で、一人の少女が彼女の心を癒やした。顔を合わせるたびに挨拶が返ってくるのは彼女だけだった。祐未という名の高校生。

 祐未がきっかけだった。あの赤いベンチに自分が座る火が来るなんて三代子には思いもよらなかった。

 鹿子とは気が合った。笑いのポイントも沸点も似ていた。家の近場にこんなに居心地のいい場所があるとは。

 だからこそ、鹿子が詐欺に遭ったというのは衝撃だった。他人を思うための憤りを抱いたのは初めてのことだった。

 だからこそ、古池をはめることができるかもしれないと思った瞬間の喜びとそれが失敗した時の落胆は計り知れなかった。

 そして、鹿子がリベンジを誓ったのと同時に三代子も思ったのだ。彼女の力になりたいと。

「だからって、また僕を呼びますか?」

 三代子の家に祖父江がやってきた。

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