二
大きな荷物を抱えた二人の男女の老人が渋谷のマンションを訪れていた。真っ直ぐに六階までエレベータで上る。「セミナー開催中」の張り紙がしてある部屋の前で止まると、心を整えてインターホンを押した。
『はい?』
スピーカーから漏れ出る不機嫌そうな男の声。二人の老人のうち男の方がマイクに近づいて口を開く。
「古池隼人さんのお宅でしょうか」
『そうですが』
「わたくし、笹川というものでして、絵画投資のお話をしに伺いに来ました」
『ちょっとお待ちください』
古池の顔がドアの隙間から現れる。
「絵画投資なんて考えてませんが」
古池の表情は硬く、訪れた老人をじっと観察するように見つめた。
「とてもいいお話なんですが」
にこりと笑う笹川。読者諸君も薄々というかもろにお気づきだろうが、成作である。ここは便宜的に笹川と呼ぶことにしよう。
古池は警戒するように外を見回して、二人を招き入れた。
「土足で結構」
古池の後についていくと、塾のような机と椅子とホワイトボードのセット。二人の老人のうち、女の方が荷物を机の上に置いて話を始めた。
「わたくし、宮根と申します。画商をしております」
宮根こと三代子は作った名刺を古池に差し出した。笹川も自分の名刺を渡す。古池は名刺を子細に眺め、ポケットに入れると腰に手を当てて仁王立ちした。
「で、絵画投資というのは?」
「よくぞ聞いてくれました」
「いや、あんたがたが持ち掛けてきたんでしょうが」
「古池さまは若瀬鹿作という画家をご存知でしょうか?」
宮根はこれまたパソコンで一生懸命作り上げた若瀬鹿作のフライヤーを古池に手渡した。
「いや、知らないですね」
「かの有名な森鴎外の書生だった若き画家です。昨年、都内で若瀬鹿作の作品が発見され、にわかに注目を集めているのです」
「それで、なぜ私のもとに?」
「投資家としてご高名を伺いましたので、特別に、と」
満更でもない様子で、古池が先を促す。
「それが問題の絵ですか?」
「さようです」
笹川が絵画を入れたバッグのジッパーを開いていくと二枚の絵が現れた。バッグは二つある。額入りの四枚の絵が古池の前に姿を現す。
「新しく見えますが」
笹川と宮根は慌てて顔を見合わせる。宮根が機転を利かせた。
「保存状態が大変良かったんです」
「貴重なんですか?」
「今、注目を浴びていて、高値で取引されているんですよ」
古池はフライヤーと絵を交互に見て、首を捻った。
「四枚の絵が全部揃っているんですね」
よく考えれば、すべて揃っているというのはうますぎる話である。
「そ、そうです」笹川が言う。「実は絵を発見したのが私どもの調査団でして」
「なるほど」
古池は四枚の絵をじっくりと干渉し始めた。笹川は別の意味で緊張し始めていた。自分の描いた絵が古池に刺さらなければ意味がないのだ。
「なかなかいい作品じゃないですか。古さを感じない」
「そうでしょう。その噂が広がっていて、三年後には倍の値がつくと試算している専門家もいるんですよ」
「二倍……今の値段は?」
「四枚で六千万円です」
「六千万ですか。そう考えると高くはないですね」
好感触に笹川と宮根は内心拍手をした。このまま取引が成立すれば――、
「では、こちらで金を用意しますので、その時にまた連絡をします」
都の古池の一言に笹川と宮根は心の底からの笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます!」
笹川の礼は真に迫っていた。よほど絵が売れることを喜んでいるらしい。二人は絵をバッグにしまうと足早に古池のマンションを後にした。
三代子の家に戻ってきた四人は嬉しそうに輪を作って飛び跳ねた。
「意外と簡単だったなあ」
成作がそう言うと、三代子もうなずいた。
「バレるかと思ってドキドキしちゃったわよ」
「三代子ちゃんが機転を利かしてくれるんだよ」
数年前はあり得なかった他者への賛辞だった。
「それで、どうするって?」
鹿子も満面の笑みだ。
「六千万が用意出来たら連絡するって」
答える三代子はガッツポーズをしていた。
「俺の絵のおかげだぞ」
成作はバッグから四枚の絵を取り出して畳の上に並べた。四人はそれをまじまじと見つめる。
「ここまで来ると、本当に六千万くらいの価値がありそうね」
「だんだん売りたくなくなってくる」
「ダメよ、そんなの」
源十郎は一人冷静だった。
「勝って兜の緒を締めよとはこのことだぞ。ここで浮かれていたら、すべてが水の泡だ」
「なによ」鹿子が源十郎を小突く。「一番乗り気だったくせに」
「やかましい。とにかく、連絡が来るまで期は引き締めておこう」
古池から連絡が来るまでの時間は彼らにとって、ベンチに座るようになってから最も長いものだったかもしれない。
「ニュースも目が通らないわ」
翌日。ベンチに座って鹿子が呟く。脇にはたいして読まなかった新聞が折り畳まれて置かれている。
「ニュースで騒ぐやつは暇人なんだな」
成作がそう言うと、三人の同意が返ってくる。四人は揃ってニコニコして、店に入る客たちに温かい視線を送り続けた。源十郎と成作も煙草の賭けをやりもしなかった。これも暇人だけが興じる遊びだったのかもしれない。
「六千万円が戻ったら、みんなで熱海に旅行でも行かない?」
鹿子の提案に一同は大喜びだが三代子が言う。
「でも、いいの? 大切にとっておいたお金なんでしょ?」
「いいのよ。全部使うわけでもないし、ちょうど旅行の気分だったから」
「春の熱海は気持ちがいいぞ」
出張経験でしかなかったが、成作はあのころのことを思い返していた。心地よい潮風と浮かれた観光客たち。一つのテーマパークのようなものだ。
彼らが夢を見ていた二日後に、古池からの連絡はやってきた。三代子の家で電話を受けた成作こと笹川は、極めて平静を務めようとしていた。
「もしもし」
『笹川さんですか、古池です』
「ああ、どうも、お世話になっております」
『お約束の六千万、用意いたしましたよ』
笹川が拳を突き上げると、三人は無言で踊り出した。
「それでは、そちらに向かわせていただきますので」
『お待ちしていますよ』
電話を切ると四人は抱き合って歓声を上げた。
「六千万を取り返したぞー!」
古池は並べられた四枚の絵を改めてじっくりと見つめた。
「『光彩』は希望溢れる光の表現が素晴らしい。『暗雲』はこれから訪れる戦火に対する不安が如実に表れている。『煉獄』は戦火そのものです。ここには彼自身の辛い思いもあるでしょう。そして、『焦土』はおそらく彼が想像した最悪の未来。そして、彼もまた戦いに没してしまった……見事のストーリーです」
古池は熱く語り終えると、部屋の奥から銀色のアタッシェケースを持ってきた。ナンバーを入れて解錠すると、その蓋を開け放った。笹川と宮根は思わず覗き込んだ。何人もの諭吉の顔がこちらを見ていた。百万円の束が六十ある。
アタッシェケースを受け取ろうとした笹川だったが、ふと古池が間を取ってしまう。
「これだけ素晴らしい作品ですから、日本の絵画史に残るものになるでしょうね」
「ええ、必ずそうなるでしょう」
力強く宮根が答えた。すると、どういうわけか、古池はアタッシェケースの蓋を閉じた。
「日本文化の発展のために、これは美術館に寄贈されるといいでしょう」
「え?」
二人の老人は揃って間の抜けた声を上げた。
「私が買い取るようなものではないということです」
「でも、二倍になるんですよ……」
「日本文化の発展のためなら、それくらい惜しくはないし、三年あれば私はそれ以上稼ぎますよ」
思っても見ない回答だった。さらに古池は付け加える。
「美術館に寄贈をするなら、鑑定もした方がいい。実は今、ここに美術鑑定士の友人を呼んでいるんです。もうすぐ着くころだと思いますが」
「え、ちょっと待ってください」
笹川は絵を回収しそうになって思いとどまった。そんなことをすれば、これに価値がないことを証明してしまう。
五分が経ち、十分が経った。笹川も宮根も顔中汗だらけで、ただ立ち尽くした。古池の眼光は二人をその場に釘付けにするだけの威力があったのだ。
やがて、古池が笑い声をあげた。
「美術鑑定士など来ませんよ。あなた方をからかっただけだ。そもそも、こんな無価値の絵に興味はない。調べれば一発で分かる。森鴎外に若瀬鹿作などという書生などいなかった」
「いや、それは、新しく見つかって……」
春先だというのに笹川が汗だくで言い訳を始めるが、古池は聞く耳を持っていなかった。
「そもそも、私は絵画投資に興味はない。確実に、短期的に儲かる話にしか興味はない。出直してくるんだな」
笹川と宮根は唖然として六千万の入ったアタッシェケースが下げられていくのを眺めていた。
遡ること五日。
祐未と祖父江は古池のもとを訪れていた。
「今日は何の用だ?」
「情報ですよ」
祐未の恨みがましい眼は変わらない。祖父江は彼女を制するようにメモ帳を開いて先を続けた。
「一昨日のことです。孫井さんたちは椎駅前の画材店で大量の画材を購入していました」
「画材?」
「おそらく、絵画投資を持ちかけてくるものと思われます」
「絵画投資……なるほど」
古池の顎髭がジャリジャリと音を立てる。どうでもいい雑学だが、髭は同じ太さの銅線と同じ強度があるらしい。銅線が体から生えてくれば人生カネに困ることはなさそうだ。
「彼らの考えはこうでしょう。『わけの分からない絵が高値で取引されているなら、自分たちでも作れるだろう』……確かに、僕にはジャクソン・ポロックの絵の価値は分かりません」
古池は納得したようだったが、怪訝そうだった。
「それは分かったが、お前たちがそんな情報を寄越してくるメリットが分からん」
祖父江は祐未を見た。実のところ、その言い訳を考えていなかったのだ。だが、祐未は力強く言い放った。
「おばあちゃんたちを犯罪者にしたくないだけだよ」
「俺がこんな絵画投資詐欺で騙されるとでも?」
「それでも!」
「なら、ババアたちに言えばいいだろう、やめてくれって」
痛いところを突かれて、祐未は奥歯を噛みしめた。弱味だけは見せたくなかった。
「まあ、いい。お前たちの言葉は信じようじゃないか。面白そうだから少しは引っかかる素振りでも見せてやるか」
意地の悪い笑みを浮かべる古池に、祐未は燃えるような視線を投げつけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます