三章 聖戦へ 老人四人の体当たり
一
「別れましょう」
その一言を成作は聞きたくなかったのかもしれない。定年を迎え、家で過ごす日々。そこへ訪れた突然の訣別の言葉だった。
「なんでだ」
妻の言葉の意味が理解できなかった。四十年、都内の印刷会社で勤めあげた。そんな自分に向けられる声とは思えなかったのだ。
「あなたといると苦痛なのよ」
「どういう意味だ!」
飲んでいた缶ビールを投げつけた。それでも、妻は悲鳴一つ上げることなく、決然とした眼差しを向けてきた。本気なのだ……そこで成作は察することになった。
「家に居ても何もしない。返事もしない。喋りもしない。どこかへ行くこともない。友達いるの?」
全てのピリオドが成作の無傷な胸をえぐる。今まで聞いたことのない言葉たちだった。読者諸君にも知ってもらいたいが、二十年以上連れ添った夫婦のおよそ四万組は離婚を経験する。離婚した夫婦の二十パーセント弱は熟年離婚なのだ。それも、成作のようなケースが多い。夫婦間のコミュニケーションの大切さがよく分かるだろう。
「なんで急に……」
夫が気がつかないとよく言う。
「急じゃないわよ。私をなんだと思ってるの。家政婦じゃないのよ」
「そんなこと言ってないだろう」
「言ってるも同然でしょ。今朝だってぶすくれてご飯食べて」
「偉そうなこと言うな!」
「偉そうなのはあんたでしょ!」
これまで聞いたことのない大音声だった。そして、すでに用意してあったらしい離婚届が突きつけられる。
「サインして」
「俺は認めないぞ」
「あっそう」
夫婦としての会話は、あれが最後だったかもしれない。何十年もかけて手にしたマイホームを離れ、成作は団地へやってきた。失意のどん底だったし、行き場のない怒りもあった。
引っ越してしばらくは家に引きこもる日々が続いた。知り合いもいない新天地。成作の年齢にとっては、希望ではなく絶望の未来ばかり頭に思い描いてしまう。独居老人。孤独死。そんなフレーズが頭をよぎるたびに後悔の二文字が頭をよぎる。なぜあの時ああしていなかったのだろうか。なぜ簡単な謝罪や挨拶、感謝が口から出なかったのか。年甲斐もなく泣きたくなった。だが、男は泣くものではないと子供のころから言われてきた。だから、感情の置き所も分からないままだった。
団地のそばにあるコンビニが成作の生活の支えだった。その前にある赤いベンチ。いつもそこに座っている男がいた。
自分と同じ独居老人だろうか。そう思うと、やけに親近感が湧いた。話しかけようか。何度もそう思い、声をかけるのをためらった。
「友達いるの?」
妻の言葉が頭の中を駆け巡った。あの時は屈辱にしか聞こえなかったが、今は違った。ずっと独りでこの人生を終えるのかと思うと怖かった。自分のことを誰も知らないまま死んでいくのかもしれない。その想像は恐ろしいものだった。
「用心棒か何かかい」
男にかけたひと言目がそれだった。
あの頃のことを思い出して、その心が筆に籠ったのかもしれないと成作は思う。若瀬鹿作という架空の画家の名を借りて、長年の鬱屈した思いが爆発した。
完成した四つのキャンバスを見下ろす成作の顔は笑顔だった。
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