二
発端はポストに投函されていた一枚のチラシだった。
「オリンピックイヤーを笑顔で迎えよう!」
背後にはタワーマンションの写真が載っていた。見てみると、三年後の東京オリンピックで東京の不動産の価値が今より二倍になるのだという。ただし、取り扱われる不動産は特別なもので、このチラシも特別に選ばれた人間にしか投函されないと記してあった。
「そりゃあ、一般的なやり口だよ」源十郎が口を挟む。「特別感を出して騙しやすくするんだ。騙されちゃいかんよ」
チラシには、不動産投資セミナーと称して開催日時と場所が書かれていた。鹿子の頭の中で算盤が弾かれた。今手元にある六千万円なら、三年後には一億二千万になる。濡れ手に粟だ。セミナーは無料ということもあって、一念発起して、鹿子はセミナーの開催地である新宿まで赴くことにした。
「ダメだ、行くんじゃない」
成作がもうどうしようもない制止を口にする。
マンションの一室だった。ドアにはセミナー開催中の紙が一枚だけ貼られていて、それをわかっていなければ素通りしてしまうかもしれない。インターホンを押すと、小気味よい声が返ってくる。
『セミナー希望の方ですか?』
「ええ、そうです」
すぐにドアのロックが解除されて若い男が顔をのぞかせた。すっきりとした顔の好青年だ。鹿子はにこりと笑った。
「あの、こういうの初めてでして……」
「大丈夫ですよ! まずは中に入って申込書をお書きください」
成作が言う。
「あっという間に深みにハマってるじゃないか」
三代子が頬を膨らませる。
「今、鹿子ちゃんが話してるんだから、少しお黙りなさいよ」
鹿子は個人情報を洗いざらい申込書にぶちまけて、セミナーの開始を待った。室内には、他にも四人の老人が静かに席についていた。鹿子はむずむずして隣のご婦人に声をかけた。
「初めてですか?」
「ええ、おたくも?」
「投資ってどういうものかよく分からないんですけどね」
二人の会話の隙間を縫って、顎鬚にスーツの男が現れた。ホワイトボードを背に立つと、妙に威圧感がある。
「今回は不動産投資セミナーにお越しくださいましてありがとうございます。ここにいるみなさんは、選ばれた方々だ。私、不動産アドバイザーの古池隼人と申します」
両手を広げておおらかな笑顔で言われると、鹿子もそうなのかもしれないと思う。
「さて、皆さんもご存知のように、東京オリンピックが三年後に控えています。オリンピック特需という言葉をご存知ですか?」
受講者たちは、うなずくんだか首を傾げるんだかよく分からない曖昧な反応を返す。
「オリンピックというのは、大きな利権活動でもあるんですね。つまり、大きなカネが動くということでもある。需要が高まれば、物の価格はどうなりますか?」
指名された老人が咳払いをしながら答える。
「高くなる」
「その通り! 物の価値は高くなる。しかし、今現在はまだ価値は高まっていないですよね。ということは、今のうちに需要のある者を持っていれば、三年後には高く売れるということなんですよ」
古池は部屋の隅の男に合図をした。証明が落とされ、ホワイトボードにグラフが映し出される。折れ線が二〇二〇年に向かって右肩上がりになっている。
「アメリカの金融機関による試算では、三年後に東京の不動産平均額が二倍になると見積もられているのです」
書き込まれる赤いペンがグラフをさらに強調する。
「二倍ですよ。五千万が一億になるんです」
受講者たちのうなずきの中に唸り声も混じる。
「皆さんは運がいい」照明が再び灯る。「今回ご用意できるのは、特別な物件なんです。決して他では紹介することができない。というのも……利益率が高すぎて、投資を知らない連中にも目をつけられてしまうからです。投資は、目がある人に行ってもらいたいというのが私のモットーなんです」
続いて、十ページはあろうかというパンフレットを一時間かけて説明される。夢のような儲け話。
「これに乗らずにどうするというんですか!」
このころになると、古池のボルテージも上がり、受講者たちも握り拳を作るようになる。
「陶酔させようとしてるんだ」
源十郎が解説する。
「ただ、今回の物件はこの場限りのものです。他言無用。流出してしまうと、利益も分散してしまうでしょう」
受講者たちはあれよあれよという間に契約を結んでいってしまう。二時間の間に二億円超の契約が成立してしまったことになる。
セミナー会場を後にした鹿子は紅潮した頬を肌寒い空の下でクールダウンさせながら帰路についた。その手には、何の価値もない一枚の紙きれが握られていた。
それからは、たとえテレビや新聞で不動産高騰の情報を読もうとも、自分はもっと大きな情報を持っているのだという優越感が彼女を支配してやまなかったという。
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