腐蝕宇宙

 エヴァンジェリン・シティに佇む十二棟の六百階層ビルが何の予兆も見せずに折り重なるように倒壊したのを目撃した人間は、それを語り継ぐ暇もなく、惑星ウルスラの崩壊に飲まれてしまったことだろう。

 ネオ・スメール銀河間連合の主要星系惑星に指定されていたウルスラの突然の崩壊は、連合首脳陣にとっては懐の中で最新式の反物質電池が弾けるようなものだった。元より、連星ブラックホールの星域を制宙圏に収めていたネオ・スメール陣営は、戦場として宇宙に名を知られることが多かった。連星ブラックホールは新しい宇宙を創造するために必要なエネルギーを十分に供給すると考えられているからだ。

 宇宙に存在する知的生命体にとって、崩壊が始まっている現行宇宙から脱却し、新しい宇宙へ移行することは急務だったが、これを成し遂げるためには、宇宙創生のシミュレーションを完成させる必要があった。新しい宇宙が正常な世界として定着するのか? どれくらいのダイナミズムと寿命を持っているのか? その宇宙と、そこに存在する知的生命体はどのような歴史を刻むのか? 最もリスクの少ない宇宙を創り出す必要があった。そして、その新しい宇宙の創造主となれば、次代の宇宙の覇権を握ることになる。つまり、早い者勝ちで、誰が一番最初にこの宇宙を抜け出すことができるかというレースが行われているのだ。

 ウルスラから六千光年離れた人工惑星イヴの検証都市カイン。そこに建つシミュレーション機関では、シミュレーション技師のチームが神妙な面持ちで膝を突き合わせていた。

「一応、シミュレーションのデータ自体には問題はない。だが、ウルスラでのメインシミュレーションが中断した影響で、こちらに全てを移管する作業を行ったことで、かなりの遅延が発生していることは事実だ」

 リーダーのアイゲスティが奥歯を噛み締めると、若手のポールポムも呼応する。

「この数年で我々の陣営のシミュレーション施設が七千以上破壊されています。明らかにシミュレーション妨害です」

「だが、どうやって?」

 誰かが声を上げるが、それに答える者はいない。敵対する他の陣営による攻撃だとしても、彼らが何の痕跡も残さずに主要星系に攻撃を仕掛けることなど不可能なのだ。「これは未検証の噂だが」と前置きして話し始めたのは、アイゲスティだった。

「これまでの未知の攻撃について観測船のデータを統合したところ、この宇宙の外側からの干渉を受けて引き起こされた可能性があるということらしい。つまり、平行宇宙からの攻撃だ」

「どうやってそんなことが可能になるんです?」

「分からん」

 アイゲスティに一言で逃げられてしまい、ポールポムは釈然としない表情を浮かべる。

「ただでさえ現実の敵からの攻撃で同胞を失い、我々のシミュレーションも常に攻撃に晒されている。我々の前にはどうしてこんなに試練が山積みにされていくんでしょうか?」

 縋るような若者の目を見て、アイゲスティは柔和な笑みを浮かべた。まるで自分の若いころを見ているように彼には感じられたのかもしれない。

「知的生命体の歴史は、物質文明から始まった。それが次の段階ではシミュレーション文明へ発展していく。精神文明を目指すからだ。精神文明で隆盛を極めた者の末路は、物質文明への憧憬に駆られる姿だった。だから、精神文明から物質文明へアセンションするために、シミュレーション文明が勃興する。やがて、知的生命体は物質文明へ移行する。そして、再び精神文明へ向かうためにシミュレーション文明を興すことになる……。そうやって歴史を積み上げてきたんだ」

「いまさら歴史の授業ですか」

 苛立ちを隠そうともせずにポールポムが言うと、アイゲスティは笑った。

「精神文明へ向かう者たちは信じていた。神というやつを。そして、神は乗り越えられない試練を自分たちには課すことはないと。壁にぶつかるのは、前に進んでいるからだ、ポールポム。立ち止まっている奴にはできないことさ」


 ミーティングを終えて分析室に戻ったポールポムは、ホログラムのシミュレーションコンソールの前に座って、ボーッとシミュレーションのアノマリー・レポートを眺めていた。今、シミュレーションが抱えている最も大きなアノマリー(異常)は、正常であればひとつであるタイムラインが大きく四つに分化していることだった。これは、新しく創生される宇宙が不安定な存在であることを示している。しかし、これが敵陣営による妨害の結果なのかを明らかにする必要があった。

「どうやら、シミュレーションを改変して再実行するプログラムが働いているようなんです。それも、秒間数千回も動いているようです。しかし、修復プログラムが検知できていない。原因は分かりませんが……。それとは別に、原因不明のシミュレーション未実行の領域がいくつか発生しています」

 ポールポムの部下が頭を抱えながらそう報告してくる。

「こちらに移管する際に発生した可能性は?」

「ウルスラでのシミュレーション以前にもこの改変・再実行プログラムは働いていたようです。未実行領域は、計算自体は行われているようで、それを実行させてやればいいと思うんですが、そのためにはまず原因を知る必要がありますね」

 シミュレーション内で発生している異常は様々だった。信じがたいものでいえば、異なる二つのタイムラインが〝混線〟を起こしている。そのせいで、時空がズタズタに断裂し、無秩序に繋がり合う箇所もあり、シミュレーション内の生命体に甚大な影響を及ぼしてしまっている。

「ここまで来ると、シミュレーション内にメタ認知をもたらしてしまうことになりかねません」

 部下にそう指摘されて、ポールポムは頭を抱えた。シミュレーションは、現実であると擬装して初めて成立しうるものだ。シミュレーション内の知的生命体には、常に目の前の事象が現実であると認識させ続けなければならない。そのためのプログラムも動き続けている。

 ポールポムは、はたと気づいた。ここ数年の現行宇宙におけるネオ・スメールへの未知の攻撃リストを呼び出した。さらに、目の前のシミュレーション内で発生したアノマリー・レポートを抽出する。その二つのリストを分析にかける。

 数分もしないうちに結果が導出された。

 分析によれば、ネオ・スメールへの未知の攻撃とシミュレーションのアノマリー・レポートの性質は、統計的に同等であるとされていた。その結論が導く仮説はたったひとつしかない。

「……この宇宙はシミュレーションなのか?」


 翌日、ポールポム以下のシミュレーション技師たちが一斉に職場を去って行った。アイゲスティの前には、失望と解決すべき課題が積み重なる。去っていく前、ポールポムは悲観的な目を震わせていた。

「この宇宙がシミュレーションなのだとすれば、現実世界で新しい宇宙が創造された時、我々は遺棄される運命にあります」

 彼の絶望は思いのほか深かったようだった。アイゲスティが、証明のしようがないことだと諭しても、聞き入れる耳を持たなかったのだ。

 彼ら優秀な若手を失ったことを悲しんでいる暇はアイゲスティにはなかった。すぐさま新しいシミュレーション技師のチームを招聘した。優秀な実績を収めている人間を優先的に選定した。シミュレーション技師は未来を切り拓く任務を負っている。だから、成り手には困らないというのが事実だ。

 やって来たのは、キリュカ・オブランという若い女を筆頭にしたチームだった。

「よろしくお願いします」

 そう言って握手を交わす彼女の力に、アイゲスティは漲るものを感じ取った。それが良い方向に転べばいいという期待は、早々に裏切られることになる。


 アイゲスティをシミュレーション分析室に呼んだキリュカは、イライラした様子だった。

「このシミュレーションには、大きく四つの重大な問題が含まれていて、それが今まで放置状態だったのが、甚だ疑問です。一体今まで何をやっていたんですか?」

 ポールポムたちの奮闘を間近で見ていただけに、アイゲスティはこの新参者の言葉を身構えて迎える必要が出てきた。キリュカは一つ目の問題点について指摘を始めた。

「アノマリー・レポートを作成してシミュレーションを修復するプログラムに旧型のものを使っている理由は何ですか?」

「旧型? そんな馬鹿な。シミュレーションは常に最新の状態にアップデートされるようになっているはずだ」

「旧型になっているのは、外部から書き換えられているからです。外部からのシミュレーションへの攻撃を防ぐことができなかった時点で、前任者の無能ぶりが窺えます」

「そこまで言うからには、君には問題を解決できる勝算でもあるのかね?」

「プログラムの書き換えは、シミュレーションに存在するセキュリティー・ホールを突いて行われています。そもそものシミュレーションの設計自体に問題があったんでしょう」

「セキュリティ・ホールだと?」

「このシミュレーションには、想定されている事象が圧倒的に少ない。例えば、ひとりの人間が一時的に受けるエネルギーの総量に上限が設定されています。この上限を超えると、システムにセキュリティー・ホールが現れます。敵はこの性質を利用していくつかのプログラムを書き換えたんです」

 シミュレーションの軽量化を行う際に、起こり得ない事象などについての計算機能を削減するように指示したのはアイゲスティ自身だった。それはいち早くシミュレーションを実行するために必要な近道だったのだ。キリュカは先を続ける。

「それから、理解に苦しむのは、書き換えられたのとは別のプログラムがタイムラインを生成していることです。これのせいで、いくつもの時空の破断や不正な接続が行われています。これはもともとシミュレーションに組み込んでありました。一体どういうつもりですか?」

 アイゲスティには覚えのないことだった。あるとすれば、シミュレーション内で偶発的に生成されたプログラムであるという可能性だけだ。

「そして、もうひとつ」

キリュカは乱暴にアノマリー・レポートを指さした。それぞれのアノマリーの相関性を示した図が表示されていた。あるひとつのアノマリーが軸となって無数のアノマリーが発生している。アノマリーのハブ──アノマリー・ポイントだ。

「このアノマリー・ポイントは固定化され、正攻法では、書き換えて解消できないようになっているようです。これを放置し続けた結果、正常なシミュレーションを行えない状態が続いていたことについての納得が行く説明をしてほしいものです」

「これは……我々も関知していたが──」

「そして最後のひとつ」

 アイゲスティの言葉をまるっきり無視して、キリュカは声を上げた。アイゲスティは、この目の前の不躾な女に憤りの視線を投げつけた。しかし、相手はそんなものを意にも介さない様子だ。

「我々によるシミュレーションへの改変が即時的に行われるのではなく、段階的に行われるような仕様になっているのはなぜですか?」

「シミュレーション内の知的生命体に、目の前の事象が現実であると認識させるための措置だ。それがなければ──」

「こんな馬鹿な仕様のせいで、アノマリー検知が正常に動作していないんですよ。シミュレーション内の存在に忖度をする必要など全くないというのに」

「それは違う。仮にシミュレーション内の存在であっても、彼らは生きている。彼らの尊厳を維持するために──」

「神は容赦なく世界を焼き尽くす。下位次元の存在に情など要らないんですよ」

 そう言って、キリュカはコンソールに向かった。話は終わったらしい。アイゲスティの取りつく島はなかった。

 アイゲスティは自らの執務室に戻って、まだ熱のある自分の心と向き合う。キリュカが有能な人間であることは明白だった。そして、宇宙の命運をかけたプロジェクトに人間の情など不要だというのも、頭では理解できていた。しかし彼は今、いかに自分の覚悟が甘いものかを思い知ったのだ。ポールポムというひとりの若者に自分自身を見て、どこか肩入れしていたのかもしれない。

 だが、それでも煮え切らない思いというものがあった。


 数日後に自体は急変する。

 アイゲスティの執務室にシミュレーション技師が飛び込んできたのだ。

「大変なことになっています……!」

 事情を聞くよりも、シミュレーション分析室へ急いだ。シミュレーションコンソールに目をやる。タイムラインのひとつに明らかに手を加えた形跡が見える。

「時間の流れの定数が変更されている……?」

 見ると、一年に二・八八秒の遅延という報告がなされている。

「何がどうなってる?」

 アイゲスティが尋ねるが、誰もが口々に、

「キリュカが独断でやったんです」

 としか答えなかった。

「あいつはどこに?」

 彼女の姿はない。アイゲスティの問いに答えられる者はいなかった。

「時間の流れの定数は変更できないはずだろう」

「それが、どうやら重力でタイムラインに干渉しているようです」

 キリュカと共にやって来たチームの一員が困惑したように告げる。

「重力で?」

「タイムライン上の過去に重力を束ねるポイントを配置しているんです。そのせいで、時間の流れが歪められています」

 コンソールに見慣れないアイテムが表示される。四つ足の原始的な生物が火を纏っている絵が描かれた金属製のものだった。

「取り除くことは?」

「今やっていますが……、時間がかかります」

「影響は時間の遅延だけか?」

「重力を束ねるポイントの周囲で知的生命体の言語や認識に不全が発生しています」

 シミュレーション技師たちが必死で事態の収拾に当たる様を目の前に、アイゲスティは途方に暮れてしまった。

「なんということだ……」

 アイゲスティの通信機にメッセージが受信する。腕につけた通信機を掲げると、ホログラムが現れる。シミュレーション機関を統括するアガメムノンだ。

『アイゲスティ、君が招聘したシミュレーション技師の中に経歴の怪しい人間がいた。目下捜査中だが、君の管理責任が問われる可能性がある。以上』

 無機質な通達だった。

 送られてきたデータによれば、キリュカの経歴に証明できない実績が含まれているようだった。優秀な実績のみを重視して人選したツケが回って来たのだ。それも、恐ろしく速いスピードで。

 キリュカはネオ・スメールのシミュレーションを破壊しようとやって来たスパイだったのだろうか? シミュレーションへの攻撃には、原始的なソーシャル・ハッキングの手法が利用されていることは広く知れ渡っていた。アイゲスティは自らの失態に顔が熱くなるのを感じた。

 アイゲスティは自身の執務室に戻り、シミュレーションのアノマリー・レポートを作成する指示を出した。執務室のコンソールからでも、シミュレーションにアクセスすることができるのだ。分析室にいると、己の罪が形となってシミュレーション技師たちを動かしているのが如実に伝わって来るのが、彼には辛いことだった。だから、今は静かなこの執務室でレポートが作成されていくのを見守っていた。

 と、室内の空間に光の帯が出現した。

 バリバリと耳障りな音を立てながら、空間に亀裂が走っていく。

 その亀裂の中から、数名の武装したチームが歩み出てくる。呆気に取られるアイゲスティの前に三人の男が並んだ。

「な……、何者だ?」

「我々はアノマリー検知隊だ。ここのシミュレーション技師を探している」

 彼らがカード型のデバイスを掲げると、キリュカの姿がホログラムとなって現れた。

「彼女に何の用が……?」

「キリュカ・オブランはタイムラインを不正に改変・再実行しているプログラムだ」

「プロ……グラム? 一体何を言って──」

 アノマリー検知隊と名乗った者たちは、怪訝そうに目の前のアイゲスティを見つめて、手元のデバイスを向けた。すぐに、彼らの間に緊張が走る。

「直ちにここでのシミュレーション修復作業を中止しなさい」

「そんなことできるわけがないだろう。我々にとって、シミュレーションの修復作業は最優先事項だ」

「落ち着いて聞け」隊のリーダーだろうか、真ん中の男が歩み出て、ゆっくりと言う。「君たちは旧型の修復プログラムだ」

 アイゲスティは自分の耳が信じられなかった。

「馬鹿な……! 何を言っている!」

「我々の要求に答えない場合、直ちに君たちを駆逐し、新しいプログラムに強制的に置き換える。君たちの尊厳を守るために、そのような強硬手段に出たくはない」

 尊厳。その言葉にアイゲスティは大きな意味を見出そうとしていた。

 隊の二人が執務室を出て行く。

「さあ、シミュレーションの修復作業を中止するように指示をしなさい。そうすれば、君たちの尊厳は守られ、隔離されたタイムラインに移管される。そこで君たちは保護されることになるだろう」

 アイゲスティにとって、新しい宇宙のためのシミュレーションの完成は目前に迫った夢だった。手を伸ばせば、すぐそこにあるのだ。

 いくら年齢を重ねようとも、夢を諦めるつもりは彼にはなかった。

「断る」

 そう宣言するや否や、アイゲスティは自分の身体が崩れて光の粒子になっていくのを見た。痛みはなかった。そして、恐怖すらも。

 隊のリーダーが表情を曇らせる。

「残念だ。君たちは完全に消去される」

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