世紀の嫌われ者

 携帯のカメラを向けながら声を掛けた。

「千尋さん」

 無防備に振り返ったその顔は、私が憧れたあの時と変わらない。おどけてポーズをしてくれるその可愛らしさににんまりとしてしまう。

「動画でした~」

 私が言うと、千尋さんが私の腕を叩いた。バーのカウンターで横並びになった私たちは、たったそれだけのことで笑いが止まらなかった。こんなに砕けた関係性を築けるとは、二年前の私が聞いたら信じられないだろう。

 並木橋Bestieの新メンバーオーディションが開始されて、私は悩んでいた。大学受験が迫っていた夏の頃だった。勉強に身が入らず、夢ばかり見ていた。テレビや雑誌で見る並木橋のみんなは輝いていて、もしも自分がそこにいたらと妄想して、平気で一時間くらいはベッドの上で寝転がっていた。オーディションへはウェブから応募ができた。毎日そのページを開いて必要事項を記入しては、応募ボタンを押せずにいた。何の取柄もない私が並木橋のオーディションに応募するということを、心の中の私が嘲笑っていた。結局、応募締め切りの一分前にやけくそになって応募ボタンを押してベッドに飛び込み、知らん振りをした。

 受験勉強もせず、ずっとゲームをして過ごした。昔から、自分ではない何者かになれるゲームに没入するのが好きだった。丸一日モニターの前に座っていたこともある。そんな時、一通の封書が届いた。並木橋オーディションの書類審査通過の報せだった。

「八番、黒木花香」

 自分の名前は好きではなかった。「くろきかこ」というのは、嫌な過去みたいな名前だから。でも、最終審査の時には、自分の名前が呼ばれるのをずっと待ち望んでいた。そして、それは現実のものとなった。夢を見ていた場所に立つ資格を与えられたのだ。

「固まっちゃって、どうした?」

 カクテルを口に運ぶ千尋さんが私を見ていた。私は取り繕うように笑った。

「今日も可愛いなって思って」

「口説いてるの?」

「そうかもしれませんよ」

 顔をクシャクシャにして笑うその顔が好きだった。ステージの上できらきらと輝くその姿は、私の永遠の憧れだった。それなのに……、

「どうして卒業しちゃうんですか?」

 とうとう訊いてしまった。自然と涙が溢れてくる。そんな私を見て、千尋さんは慈しむような表情で濡れた頬に手を伸ばしてくれる。

「次のステップのための一歩なんだよ。並木橋はちゃんと新陳代謝していかないといけない。並木橋のためにも、私自身のためにも、私は前に進まないといけないんだ」

「まだまだ全然引っ張っていってくれていいのに……」

 泣く私を見て笑う彼女は、なにか晴れやかだ。

 千尋さんの卒業を知ったのは、新しいシングルの制作についてのミーティングだった。新しいシングルで四度目のセンターを務めるのは、千尋さんだった。ミーティングの最後に、マネージャーの佐伯さんが口を開いた。

「ちょっと橘からみんなに伝えることがあるので……」

 ミーティングには全メンバーが出席する。その前で、千尋さんはゆっくりとこう言ったのだ。

「次のシングルの活動で並木橋を卒業します。そして、芸能活動を引退するつもりです」

 時が止まった。まるで、心臓を雷で一突きされたようだ。そして、足から血がスーッと抜け出て行くような感覚。私は立つことができずに、ずっと泣いていた。あの時の感情が蘇ってきてしまった。

「まだ辞めなくていいじゃないですか。まだ正式に発表もされてないし、取り消して下さいよ」

 千尋さんが困ると分かってそう言った。彼女はただハンカチで私の頬を押さえるだけだった。

 私の中の漠然とした不安は、彼女が去って行ってしまうことだけではなかった。さいたまスーパーアリーナのライブで彼女が口にした言葉を思い出していた。

 ライブのラスト、千尋さんは満員の客席に宣言したのだ。

「私の人生は、アイドルです! アイドルを辞める時は人生の終わりだと思ってる! だから、みんなもついて来て下さい!」

 千尋さんセンターの曲のイントロが流れる。ペンライトの海が波打って物凄い歓声が怒涛のように押し寄せてきた。アイドルに命を懸けるその姿に誰もが胸を打たれた。同じステージに立っていた私は感極まって涙が止まらなかった。

 どうして卒業してしまうんだろう?

 永遠にいなくなってしまわないだろうか?

 どうしたら、思い留まってくれるだろうか?

 そんなことを考えていた私の頭の中に甲高い電子音が響いた。ポピーン!

 バーの中を見回す。

「どうしたの?」

 私の顔を千尋さんが覗き込む。

「え、いや……」

≪「飲みにケーション」のトロフィーを獲得……橘千尋と酒の席を共にした≫

 頭の中にメッセージがポップアップした。

≪トロフィー獲得ボーナス……「リプレイマシン」を送付しました≫

「ねえ、大丈夫? 飲みすぎちゃった?」

「いえ、大丈夫です……。ちょっとゲームやりすぎたのかも……」

 千尋さんが心配そうに眉尻を下げる。

「ずっとゲームしてるって言ってたよね」

「でも、大丈夫です。千尋さんと一緒にお酒飲めるなんて、最高ですよ」

 千尋さんは微笑んで、カウンターの上のグラスの縁に指を這わせた。

「花香ちゃんが成人して、ギリギリ間に合ったね」

 その美しい横顔に言いたかった。卒業なんてしないで下さい、と。


 翌週、シングルのレコーディングに備えてボイストレーニングを行った。千尋さんの卒業シングルだ。半端な歌を残すわけにはいかなかった。

「声の伸びも良くなったね」

 先生が目を細める。

「本当ですか? でも確かに、前よりはイメージ通りに声が出せてるかも」

「……千尋ちゃんの最後だもんね。頑張らないとね」

 そういう先生も寂しげな表情を浮かべていた。

 ポピーン!

≪「そこそこシンガー」のトロフィーを獲得……累計一六八時間のボイストレーニングを行った≫

 まただ。

≪トロフィー獲得ボーナス……「リプレイマシン」を送付しました≫

 オンラインゲームをやりすぎた弊害なのか?

「大丈夫? ちょっと休憩する?」

「いえ、もうちょっと続けさせて下さい」

 変なことに気を囚われている場合ではない。

 しかし、トレーニングを終えて自宅に戻ると、おかしなものが届いているのが分かった。緩衝材の入った封筒が二通、ポストに入っていたのだ。差出人はなく、私宛てになっている。部屋に入って封筒を開ける。中から平べったい箱と一枚の手紙が出てきた。二通とも内容物は同じようだ。手紙にはこうある。


 「そこそこシンガー」のトロフィー獲得おめでとうございます!

 ささやかではありますが、獲得ボーナスの「リプレイマシン」を送付いたします。


 平べったい箱を開けると、一円玉サイズの物が二枚収められていた。その表面に「そこそこシンガー」と印字されている。二つ折りの小さな説明書がある。


 リプレイマシンの使い方

 「リプレイマシン」は二つで一セットのデバイスです。デバイス裏面の透明なシールを剥がして両方のこめかみに貼りつけて下さい。あとは指示に従って操作を行ってください。なお、「リプレイマシン」は使用後に自動的に破棄されます。


 意味が分からなかった。こんなものを注文した覚えはない。リプレイマシン……何かをやり直せる?

 一日の大半を過ごすパソコンの前の椅子に座って、冗談半分でリプレイマシンをこめかみに貼りつけた。心のどこかで、千尋さんの卒業をどうにかできるかも、と思っていた。これが夢でも、面白そうではないか。

 リプレイマシンが起動する。周囲の光景が光の中に飲まれていく。目の前に映像が現れる。ライブ中やレッスン中、オフでメンバーと遊びに行った時の画像など、無数のシーンが映画のフィルムみたいに連なって浮かんでいた。

≪リプレイシーンを選んで下さい≫

 視線を送ると、画像の周囲が光る。ここにあるシーンの中からどれかを選べば、やり直せるのか?

 シーンの中に千尋さんが卒業を伝えているミーティングもある。そこで声を上げれば、彼女の卒業を阻止できるかもしれない……。そのシーンを選ぶと、辺りが眩い光に包まれる。


「次のシングルだけど、センターは橘です。その他のフォーメーションは追ってメッセージで送るんで、確認して下さい」

 みんなが返事をする。

「黒木、どうした?」

 佐伯さんが私を見つめる。

「いえ、なんでもないです……」

 本当に戻って来たのか? あの時とみんなの座っている場所も服も全て同じだ。千尋さんを見る。唇をきつく結んでいた。佐伯さんが口を開く。

「ちょっと橘からみんなに伝えることがあるので……」

 あの時と同じだ。リプレイされている……!

 千尋さんが緊張の面持ちであの言葉を発する。

「次のシングルの活動で並木橋を卒業します。そして、芸能活動を──」

「待って下さい!」

 身体が動いていた。みんなの視線が立ち上がった私に集まる。

「卒業……しないで下さい!」

「黒木、落ち着け」佐伯さんが優しい声でそう言う。「橘だってしっかり考えた上で決断したんだから」

「そうかもしれないですけど……っ!」

 メンバーやマネージャーが困惑しているような、寂しがっているような、複雑な表情を浮かべてじっとしている。

「みんなは千尋さんが卒業しちゃっていいんですか!」

 誰も応えてくれない。千尋さんが私を真っ直ぐと見つめる。

「ごめんね、花香ちゃん。でも、もう決めたんだ」

 決然とした瞳だった。

 やり切れない思いと共にミーティングを終えると、同期のメンバーたちが寄ってきた。みんな私に共感してくれているようだったが、私の心はみんなとは少しだけズレた場所にあった。

 周囲が光に包まれていく。波のように光が去って行くと、私は元の椅子に座ったままだった。いつもと変わらない私の部屋。こめかみに手を伸ばすと、着けていたデバイスは消えていた。しかし、目の前にはあの封筒があって、夢ではなかったんだと実感させられる。

 携帯にメッセージが来ていた。千尋さんからだった。

≪今度のライブ、花香ちゃんに色々やってもらって嬉しいよ。忙しいと思うけど、一緒に頑張ろうね。ここだけの話、みんなに卒業すること伝えた時に必死になって止めてくれたこと、正直めっちゃ感動してたよ≫

 最後の一文に愕然としてしまった。リプレイした内容が現実に反映されている……。しかし、それでも、彼女の卒業を止めることなどできなかった。

 それから千尋さんと顔を合わせるたびに、卒業を引き留めたいという思いが強くなっていった。そして、そのための手段を私は持っているのだ。ダンスレッスンや演技レッスンの最中に、複数のトロフィーを獲得した。いくつものリプレイマシンが家に届く。

 私が並木橋に入って少しした頃、千尋さんがポツリと言っていたことを思い出す。

「家族が厳しいんだ。今も私の活動に反対してる」

 驚いた。今や誰もが知るアイドルなのに、と。そんな彼女が家族の反対を振り払って参加した仕事があった。その日は、彼女の親族の葬儀だったらしい。

「私にとって、アイドルは人生なので」

 彼女はそう言って、心配するマネージャー陣に意思を突き通した。あれで千尋さんと家族との関係性の悪化が加速したのだとしたら……。

 私は「駆け出しダンサー」と印字されたリプレイマシンを持って、部屋のパソコンの前に腰かけた。


「ご親族のことだし、考え直した方がいい。我々としても、ご家族とは信頼関係を築いていたいんだ」

 佐伯さんがそう言っていた。対する千尋さんはあの強い眼差しでじっと視線を返している。あの時の私は、このピリついた空気に肝を冷やしていた。なにしろ、芸能界のこともグループの中のことも、ほとんど何も分からなかったのだから。この後に彼女は言うのだ。「私にとって、アイドルは人生なので」と。

 まわりの同期の表情を見る。あの時はそんな余裕などなかったが、みんな凍りついたように固まっていた。私は深呼吸して立ち上がった。

「千尋さん、ご親族の方を優先して下さい」

 部屋の中の誰もが、入ったばかりの私が発言したことにびっくりしたようだった。佐伯さんが笑った。

「ほら、あの黒木が言ってるんだぞ」

 メンバーたちが笑う。どうやら、私の振る舞いがギャグにされたらしい。今はそれでもいい。千尋さんを止められるのならば。私は先を続けた。

「私は家族が応援してくれてます。それで頑張れてます。千尋さんにもご家族のサポートがあってほしいんです。それで、心置きなくアイドルをやってほしいです」

 熱をもって話したせいか、みんなが私の言葉に耳を傾けてくれる。

「おい、新入生が俺の言いたいこと全部言ってくれたぞ」

 佐伯さんが言って、場が緩やかになる。初めて、千尋さんの表情が綻んだ気がした。ここで押さなければ何も変わらない。

「私たちもいますよ。私たちを頼って下さい。そのために、私たちも頑張ってますから」

「あー、黒木」佐伯さんが口を挟んでくる。「二期生はまだメディア露出は先の話だから」

 忘れていた。あの時の私はまだ駆け出したばかりだった。だが、ミーティングのピリついた緊張感はすっかり去っていて、千尋さんが笑った。

「すごい頼もしい後輩ができてよかったです。じゃあ、お言葉に甘えて、今回は私用を優先させてもらいます」

「本当ですか!」

 私は叫んだ。未来が変わる、と思った。


 結論から言うと、千尋さんの卒業は揺るがなかった。代わりに、なぜか私は次の千尋さんの最後のシングルで彼女の隣のポジションに変わっていた。二期生では初めてのフロントメンバーだ。私が望んでいたことはこういうことじゃない。

 翌日、同期での現場の楽屋で、隣に座っていた倉寄アーニャに尋ねた。同期の中では、一番早く千尋さんと仲良くなったメンバーだ。

「千尋さんって家族との関係悪くないのかな?」

 アーニャは首を傾げた。

「私より花香の方が知ってるんじゃない?」

「え? 千尋さんと仲良いよね?」

「あまりお近づきに離れてないかな」

「『ちぃちゃん』って呼んでなかった? 外国のノリを利用して無理矢理仲良くなったって言ってたじゃん」

 アーニャは今度こそ怪しげな目で私を見つめた。

「何の話?」

 歴史が変わって、私たちと千尋さんの関係性にも変化が表れているのだ……。

「そんなことより、本当なの、あの話?」

 私たちの向かいに座っていた佐藤寧々が顔を突っ込むようにして小声でそう訊いてきた。

「あの話って?」

 寧々は私たち以外誰もいないのにまわりを警戒するように見回した。

「黒木さんの週刊誌のやつ。それが引退の理由じゃないかとかSNSで言われてるじゃん」

 数年前に、週刊誌が千尋さんととある男が二人きりで飲食店に出入りしているところをスクープした。千尋さんはミーティングで、相手が仕事関係の人だと説明をし、事務所も公式にそう発表したはずだ。

「そんなこと言われてるの?」

「ちょっと前に黒木さんが体調不良で何回か休んだことあったじゃん。あれがネット上で『子どもがいるんじゃないか』って噂されてるらしい」

 またバカバカしい流言だ。ネット上の小さな一言一言は私たちに届くものだ。それが、私たちの心を蝕んでいく。誰もがみんな自分を嘲笑いながら見ているんじゃないかと思わされる。千尋さんの心の中にもそういう影が落とされたんじゃないだろうか?

 仕事を終えて家に帰った私は、早速リプレイマシンを起動した。千尋さんが週刊誌に撮られたあの夜に向かう。


 その日は、シングルに収録される新曲のダンス練習日だった。

 ダンスの練習は動きやすいレッスン着で行う。当然、レッスンが終われば私服に着替えることになる、ところが、その日の千尋さんはレッスン着のまま稽古場を飛び出そうとしていた。今思えば、相手の男に会うために急いでいたのかもしれない。

「待って下さい、千尋さん!」

 千尋さんは振り返って苦笑いした。

「なんで急にそんな他人行儀な呼び方するの?」

「え? どういうことですか?」

「甘えたい時の呼び方してる」

 そう言って千尋さんは私のほっぺたをグニグニといじった。

「そんなことより、この後、一緒にご飯いきませんか?」

「ああ、ごめん。この後ちょっと用事があるんだ」

 何としても止めなければならない。

「一生のお願いですから、私と一緒に来てください」

「でも、もう約束しちゃってるから……」

「あの変な男の人ですよね? 行っちゃダメです!」

 思いのほか自分の声が大きくなっているのに気づいた。向こうの方にいるメンバーやスタッフが心配そうにこちらを見ていた。

「どうしてそんなこと言うの? お仕事の関係でお世話になってる人だよ」

「でもダメなんですって! 行かないで下さい!」

「何かあった?」

 マネージャーが一人やってきた。私が熱くなっていたからだろうか、私の腕にそっと触れてきた。それを振りほどくようにして、千尋さんに近づく。

「千尋さんともっとお話ししたいんです! だから、一緒に行きましょうよ、ねえ!」

「黒木やめなよ」

 マネージャーが私を千尋さんから引き剥がそうとする。無意識にマネージャーの身体を突き飛ばしていた。

「私の気も知らないで、そんなこと言わないでよ!」

 マネージャーにそう叫んでしまって、千尋さんが悲しそうな顔をしているのに気づいた。

「ごめん。私もう行かないとだから……」

 そう言って逃げるように出て行ってしまった。マネージャーが私の視界に入ってくる。

「何かあったならちゃんと話聞くけど、今のは良くないよ」

「いや、でも……」

 マネージャーが私の肩を掴む。いつもより力強い。

「そりゃあ、黒木の頑張りは認めるよ。でもね、強引に自分の意見だけ押し通そうとしても、誰かが傷つくだけだよ」

「押し通そうとしてなんか──」

「最近、現場のスタッフさんたちにちゃんと挨拶してないでしょ。そういう積み重ねで信頼は失われちゃうんだよ。グループにも影響が出るかもしれない」

 そんな横暴になった覚えはない。いつだって、初心を忘れずにやって来た。それが千尋さんの背中から学んだことだ。

 向こうにいるメンバーに近づく。誰も私に声を掛けてくれない。その視線や表情が、今の私の立場を物語っているように感じた。歴史は確かに変わっているのかもしれない。悪い方向に。だが、もう後には引けない。

 現在の自分の部屋に戻って、もう一度、千尋さんを引き留めようと思った。

「千尋さん、誰に会いに行くんですか?」

「千尋さん、今日は悪い予感がするんです」

「千尋さん、練習に付き合って下さい」

 何度やり直しても、千尋さんを引き留めることができない。手持ちのリプレイマシンが尽きてしまった。

 グループとしての活動を重ねれば、トロフィーを獲得できる。私は、今まで以上に突っ走り続けた。千尋さんの卒業が公に発表されてしまったが、やり直すことができるはずだ。

 そんな日々の中で、あるニュースが世間を賑わせた。黒い宗教と政治との密接な繋がりが、元信者だという告発者によって暴露されたのだ。黒い宗教団体は、それと分からないように団体名を変えて方々で活動をしていたらしい。その中に、千尋さんの対談企画があった。対談相手のAR技術団体のリーダーは、その宗教の地区教主であったことが判明したのだ。

 SNSが燃えた。黒い宗教と関わりがあったという理由で、千尋さんが槍玉に挙げられたのだ。目も当てられないような言葉が飛び交っていた。どういうわけか、「橘千尋は実は信者で、出家するために卒業する」と根拠のない主張が、ネット上では支持を集めていた。ライブの映像の切り抜きが拡散していた。千尋さんがやったポーズがその宗教の誓いの合図に似ていた。千尋さんが雑誌で発言した内容がその宗教の教義で述べられていることと通じていた。数々の状況証拠が挙げられていく。

 私の中で、不安がよぎった。千尋さんは対談であの宗教と繋がりができてしまったのではないか、と。

 すぐにあの対談の前日に飛んだ。


 前日は、グループの全員が出演するドラマの撮影だった。朝から晩まで、ロケでの活動だった。翌日の千尋さんの対談仕事は、午前十時という比較的早い時間の開始だった。

 この日の撮影が終わり、私は千尋さんを捕まえた。

「相談があるんです」

 深刻な顔をしてそう言った。嘘だった。もちろん、相談事はたくさんある。だが、千尋さんが心配で眠れなくなるような話をでっち上げる必要があった。

 案の定、千尋さんは私を彼女の家まで連れて行ってくれた。シンプルだが、居心地のいい部屋。そこで二人きりで話を聞いてもらった。

「同期によく思われていないんです」

 そこから、あることないことを喋った。最終的に、私は同期から陰でいじめられていることになっていた。千尋さんは優しい心の持ち主だ。親身になってずっと話を聞いてくれた。無理を言って朝が来るまで語り明かした。

「少しだけでも寝なくちゃ」

 そう言ってベッドに入り、寝息を立てたのを見計らって、彼女の携帯の電源をオフにした。これで、マネージャーからの連絡は来ない。

 昼過ぎにインターホンが鳴った。マネージャーが青ざめた顔をしていた。対談企画はバラされ、先方は怒って帰って行ったのだという。千尋さんは凍りついた表情で話を聞いていたが、私は内心では、成功した、と思っていた。


 現在に戻ると、目論見通り、千尋さんとあの宗教との関係性は掻き消えて、地獄の業火のように燃え盛っていたSNSは何事もなかったように回っていた。代わりに、私は千尋さんの卒業シングルのフォーメーションから外されていた。携帯に残ったメッセージを辿る。あの対談企画が流れた一週間後、佐伯さんからこう言われている。

≪やってしまったことはきちんと反省して下さい。そして、反省ばかりでなく、次に繋げられるように努力して下さい≫

 その言葉に、私は返信をしていなかった。

 メンバーに送られてくるスケジュールの中に、私の名前はすっかり消えていた。私がいたポジションにはアーニャが立っていて、来週に迫っていたライブでも彼女が大切な役割を担っていた。

 千尋さんの卒業を止められず、自分の株をただ下げただけだった。

 ライブの稽古場リハーサルに向かったが、私は何となくみんなに避けられているような雰囲気だった。ひと通りの流れの確認が終わって休憩していると、向こうから千尋さんがやって来た。

「花香ちゃん、大丈夫そう?」

 微笑んでそう声をかけてくれた。私はそれほどひどい顔をしていただろうか? 言葉を返そうとして、喉が詰まってしまった。気づいたら、頬が熱く濡れていた。千尋さんが私の顔を両手で包んで、じっと見つめる。

「大丈夫だよ。花香ちゃんは頑張ってるんだから」

 私が泣いているのはそういうことじゃなかった。卒業を引き留められない。卒業したくないと思わせられなかった。今や落ちぶれた私に、優しく声を掛けてくれるその姿に情けなくなってしまったのだ。

 その日、予期しないことが起こった。

 SNSのとあるアカウントが爆弾を投下した。数年前に千尋さんが食事を共にした男の正体が暴露されたのだ。その正体というのが、千尋さんの旅行関連の広告を担当した代理店の筆頭株主で、半グレ組織「クリード」の幹部・坂田という男だった。

 またあの時に戻らなければ……。しかし、何をすればトロフィーを獲得できるのか分からなかった。トレーニングはあらかたやった。どうすればいいか分からずに、焦りだけが募っていく。

 ライブ本番が近づき、現地リハが行われる。私はそれどころでなく、ミスを連発してライブ演出家にみんなの前でこっぴどく怒られてしまった。

「お前、この一か月間、何やってたんだよ! お客さんは金払って観に来てくれるんだぞ! あんなクソみたいな醜態晒して、客前に立つ資格あると思ってんのか!」

 ステージの上、全員が俯くように立っている。私はステージの裏に向かって歩き出した。

「おい、話はまだ終わってねえんだよ!」

 怒鳴られたが、無視をして、休憩室に走って帰った。自分の荷物に突っ伏した。涙が溢れてきて、どうしようもなかった。メンバーたちが戻ってくる足音がする。

「ねえ、どうしたの?」

 誰かが私の肩に触れた。なんだか、それが無性に腹が立って、私は立ち上がって相手を突き飛ばした。相手の身体は近くのテーブルにぶつかって、その上にあった飲み物の入ったカップが倒れた。コーヒーのにおいが漂う。床に倒れていたのは、千尋さんだった。血の気が引いた。最低なことを、私はしたのだ。

 ポピーン!

≪「キャットファイト」のトロフィーを獲得……メンバーを突き飛ばした≫

≪トロフィー獲得ボーナス……「リプレイマシン」を送付しました≫

 荷物を持って、無意識に走り出していた。

 家に帰って、ポストを覗く。すでに封筒が届いていた。すぐにリプレイマシンを起動した。目指す先は、千尋さんと坂田が食事をしたのが週刊誌で報道された翌日だ。


 並木橋のメンバーは何人かSNSをやっていた。投稿にはマネージャーのチェックが必要だ。私もSNSを持っているメンバーの一人だった。

 千尋さんの週刊誌報道で炎上が始まっていた。私はSNSに投稿をした。マネージャーのチェックをすっ飛ばしたのだ。


 昨日の千尋さんの報道ですが、相手はクリードの坂田という男です。千尋さんは坂田に脅迫されて、仕方なく付き合わされているんです。彼女は悪くない。


 私の発言がすぐに拡散されていく。投稿後にSNSのパスワードを変更した。これで、マネージャーがログインして投稿を削除できなくなった。一時間もしないうちにマネージャーからメッセージが入る。

≪さっきの投稿、すぐに削除して下さい≫

 無視した。SNS上では、誰にも止められないほどの炎上が巻き起こっていた。しばらくして、マネージャが家にやって来た。強引に携帯を奪われて投稿を削除させられたが、すでに情報が拡散して取り返しがつかなくなっていた。


 元の時間に戻った私は、まだ並木橋のメンバーのままだった。心のどこかで覚悟していた。私の居場所はここにないのではないか、と。翌日、事務所に呼び出され、佐伯さんにこう告げられた。

「残念だけど、黒木との契約を打ち切ることになった」

 全身からサッと熱が失われていった。

「ど、どうしてですか?」

「どうしてですか、だと?」いつもは温厚な佐伯さんが怒っていた。「たまに入る仕事に遅刻して、ライブの練習もサボりがち、メンバーともコミュニケーションを取ろうとしない……今の並木橋にお前の居場所はないんだよ」

 自分が思っていたことを明確に言葉にされて突きつけられた。もう、どうしようもなかった。そばにあった水の入ったペットボトルを掴んで佐伯さんに投げつけた。しかし、トロフィーを獲得することはできなかった。自分が知らない時間の中で、私はこうやってトロフィーを探していたのかもしれない。それが、今のこの状況を作り上げた。

 追い出されるように部屋を出た。そこに、千尋さんの姿があった。

「大丈夫、花香ちゃん?」

 千尋さんだけは、いつもと同じだった。

「私、もう並木橋じゃなくなりますよ」

 冷たく言い返した。

「久しぶりにお話しよう」

 そう言って彼女は私を自宅へ連れて行った。彼女は心配そうに私を覗き込んだ。

「何かあったの?」

「私はこのグループに相応しくないんです」

「でも、ずっと頑張って来たじゃない」

 何も応えられなかった。もう自分のことがよく分からない。どういう道を歩んでここまでやって来たのか、見当もつかないのだ。

「頑張って……いたんですかね、私?」

「花香ちゃんの歌声好きだよ。ボイトレ一生懸命やってたもんね。ダンスもすごく表現力出てきたじゃない。まだまだこれからだよ」

「でも、私、クビなんですよ」

「いつもみたいに、佐伯さんを納得させてみたらどうかな? きっと考え直してくれる」

「いつもみたいにって……私どんな人間なんですか」

 自分を皮肉るように苦笑いした。だが、千尋さんは真剣だった。

「ずっと真っ直ぐだよ。自分の信念を曲げない人だよ、花香ちゃんは」

 何度もやり直してここまで来た。それでも、私はダメなんだ。

「千尋さんは、どうして卒業するんですか」

 縋るように訊いた。私の目を見て、千尋さんは緊張を解くようにフッと息を吐き出した。

「かねやんの携帯のロック画面がね、彼氏とのツーショットなんだ。それを結構前に知って……私の知らない世界だなって思ったの。私たちはみんなに夢を与えているかもしれないけどさ、いわゆる普通の人生ってどんなものか知らないんだよね。好きな人にドキドキして告白したりとかさ、誰の目も気にせずに遊びに行ったりとかさ、大学生になってサークルの仲間と何時間も無駄話したりとかさ、アイドルだからとかじゃなくて一人の人間としてまわりのみんなが接してくれるってどういうことなんだろうって思っていたら、そういう生活が私の夢になったんだよ」

「たった……たったそれだけのことで?」

「それだけのことかもしれないけど、私には大きなことなんだ」

 自分でも分からないくらい、頭に血が上ってしまった。

「人生だ、って言ったじゃないですか! アイドル辞める時は人生の最後だって! あれは嘘だったんですか!」

「待って……あれは嘘じゃない。本当に──」

「私がどんな思いで何度も何度もやり直したか、分からないんですか! なんですか、普通の生活が夢って! 橘千尋がそんなつまらないこと言わないで下さいよ!」

 大声でそう言ってしまって、ハッとした。千尋さんが泣いていた。

「私はね、中学生に上がるタイミングで並木橋に入ったんだよ。小学生の頃は、いじめられてた。それなのに、普通の生活に憧れることができるんだって嬉しかったんだ。つまらなくはないよ。全然、つまらなくないよ」

 千尋さんは私を無理矢理立たせて、私を部屋の外に放り出した。

 もう、完全に終わってしまったのだ。

 泣きながら家まで帰った。帰った頃に、佐伯さんからメッセージが入った。

≪さっきはああ言ったが、黒木が心を入れ替えてまた頑張りたいというのなら、こっちとしてもサポートはする。どうする?≫

 私は泣きながら、

≪辞めます≫

 と返した。私は運命づけられていたのかもしれない。この素晴らしい場所にいることは許されないのだ、と。

 ポピーン!

≪「世紀の嫌われ者」のトロフィーを獲得……好き放題にやって並木橋Bestieをクビになった≫

≪トロフィー獲得ボーナス……「リプレイマシン」を送付しました≫

 いまさらリプレイをしても意味がない。

 現実から逃れるように、SNSを開いた。もちろん、そこも現実には違いない。

 並木橋が叩かれていた。

「並木橋が落ちぶれた理由」「並木橋はオワコン」「メンバーの関係性の希薄さが露呈」「売り上げ激減」「スタッフが激白……並木橋の内部分裂」……私が好きだったこの場所が崩れ去っていた。全部、私のせいなんだ。

 すぐに届いたリプレイマシンを手に取る。行く先はひとつしかない。


 真夏だった。

 私は人生の岐路に立っている。目の前のパソコンのモニターに、並木橋二期生オーディションの応募画面が表示されている。必要事項は全て入力済みだが、最後の踏ん切りがつかないでいる私。応募締め切り時刻まで、あと数分しかない。

 並木橋に合格した時のことを思い出していた。真っ白な空間に放り出されたような、ある種の呆気なさ。家族には内緒のままで応募した。怒られると思いながら報告をしたら、私が何かに夢中になれるものを見つけたと知って泣いて喜んでくれた。

 初めての先輩との対面。テレビや雑誌で見ていた人たちの前に立つと、緊張でうまく声が出なかった。ボイトレでは先生に怒られっぱなしだった。ダンスも覚えられなくて、遅くまで居残り練習していた。辛かったけど、同期のみんなと一生懸命になれている自分がなんだか誇らしかった。

 初めて自分が参加する楽曲が作られた。レコーディングでは、うまく歌えなくて悔し涙を流した。ミュージックビデオの撮影では、信じられないくらいのスタッフの数に怖気づいてしまった。

 初めてのライブ。こんな私でも応援してくれる人がいるんだと知った瞬間の、全てを肯定されたような感覚は、今でも鮮明に覚えている。

「さっきのダンス、めちゃくちゃ格好よかったよ!」

 ライブ終わりに千尋さんが話しかけてくれた。あれが仲良くなれたきっかけだったかもしれない。

 全部、全部、全部、私の青春だった。

「私の人生は、アイドルです!」

 彼女の言葉に魂を震わされたのだ。全力を賭して、ここで力尽きるまで。そう思えるこの場所が、私の全てだった。

 応募ボタンを押さずに、ページを閉じた。締め切りの時間が過ぎていくのをじっと見つめた。

 涙が止まらなかった。


 ひとしきり泣いて、家族のいるリビングに向かった。

「あら、どうしたの、目真っ赤だよ」

 お母さんが不思議そうにそう尋ねてきた。

「なんでもないよ」

 なんでもない。何も起こらなかったのだ。私と並木橋の運命の道は交わらなかった。ただ、それだけなのだ。

 テレビでは、夕方のニュースが流れていた。

『並木橋Bestieの新メンバーオーディションの募集ページがサーバーダウンしました。これに伴って、運営事務所Bestieは、オーディションの募集期間を一日延長すると発表しました』

 時が止まった。

胸が高鳴る。あの時は、そんなことは起こらなかったはずだ。

「こんな人気あるのかねえ?」

 隣でお母さんが馬鹿にしたように笑う。

 人気あるんだよ。

 みんなすごいんだよ。

 私、夢中だったんだよ。

 手のひらに滲んだ汗がエアコンの風に当てられて、熱く弾けた。

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