帰巣本能

「静野、来週の木曜までにナイフを用意しておけ」

 ボスである藤堂からそのミッションが課せられて、慎之助は考えた。

 ──ナイフは何に使う? 来週の木曜日まで八日もある。急ぎの用ではない。あらかじめ決まった日取りが用意されているということだ。

「返事は?」

 昔からの慎之助の悪い癖だった。考えに没頭するとまわりが見えなくなる。

「すみません! 分かりました!」

 ビシッと九十度の礼をして、藤堂の部屋を出る。

 ──ナイフを個人的に使いたいのなら、藤堂さんが自分で用意するはずだ。それを俺にやらせるということは、目的があるということだ。その目的とは何だ?

 考えながら歩いていて、挙句の果てに階段から転げ落ちた。

「何やってんですか?」

 痛みと恥ずかしさの中で見上げると、ソフトリーゼントの金髪頭の冷たい目が浮かんでいた。土方だ。慎之助は廊下に尻をついたまま身を起こした。

「子どもの頃に、階段から落ちたことはあるか?」

「いや、ないです」

「その頃の気持ちを思い出そうとしていたんだよ。分かるだろ?」

「分かんないです」

 二人で建物を出て、駅の方向に歩く。茫然と視線を彷徨わせながら歩を進める慎之助に土方は我慢ならずに訊いた。

「で、どこに向かってるんですか、これ?」

「どこでもいいだろ」

「よくないでしょ」

「時に土方、誰にも知られずに、痕跡も残さずにナイフを調達することはできると思うか?」

「なんですか、藪から棒に?」

 慎之助は小さな公園に土方を誘って、広場の端にあるベンチに腰を下ろした。夏空に質感のある大きな雲が立ち上っている。その青と白のコントラストを見上げていた土方は、一向に始まらないさっきの自分の問いへの答えを期待して隣の先輩を盗み見た。相変わらず、思索の海に船出したような顔がそこにはあった。

「さっきの話は何だったんですか? ナイフをどうとかって」

「ああ、その話の途中だったか」

「始まってませんでしたけどね」

 慎之助は短く藤堂からの指示を説明した。土方は何か思い当たる節があるようだ。

「藤堂さん、他にも色んな人に指示出してるみたいですよ。車や人手配とか、場所の確保とか……。何か始める気なんですよ」

「何かってなんだ?」

「何か物騒なこと。藤堂さんのやり方じゃないですか。俺たちがみんなデカい共犯関係になるっていうのは。まあ、もともとは司馬さんのイズムですけど」

 慎之助の頭の中に思考が巡る。

 ──ならば、ナイフというのは、この計画の中で非常に重要なポイントに位置付けられているのではないか? つまり、物騒なことの先端がまさにナイフの刃先というわけだ。

「だから、ナイフも秘密裏に入手する方がいいんじゃないかと思うんだ」

「そうですか? 適当にその辺で買っちゃった方がいいと思いますけどね。木を隠すなら森っていうじゃないですか」

「よく考えてみろ。店には防犯カメラがある。ナイフを買っている姿が残ってしまうんだぞ。それはマズい」

「ナイフ買う人なんて腐るほどいますよ」

 しかし、慎之助の凝り固まった結論を崩すには不十分だったようだ。土方は別の案を提出してみる。

「じゃあ、ネットで買えば誰にも分かりませんよね」

「なに言ってるんだ。ネットこそ、証拠が残るだろ」

「考えすぎだと思うんですけどね……」

 慎之助はブツブツと何かを呟きながら立ち上がって、行ってしまう。土方はその後を追う素振りも見せない。きっと面倒ごとに巻き込まれるだろうし、あの状態の慎之助なら、土方がついてきていないことに気づくことはないだろうと分かっていたからだ。


 陽も落ちかけてきた頃、慎之助の姿がとある狭い路地にあった。彼が辿り着いた結論は、目立たない場末の店でナイフを探すという、考えたわりには大したことのないものだった。とはいうものの、そんな店が簡単に見つかるわけもなく、フラフラと歩き回って、無駄骨を折り続けてきた。

 そんな彼の目に古びた看板が飛び込んできた。

≪西原骨董店≫

 狭い路地の中ほどに忽然と姿を現す蔦の生い茂る建物。その窓からは、小さな椅子に腰かけたフランス人形の少女が青い眼差しを寂しげに路地に投げかけていた。そんな、どこか物悲しい雰囲気に吸い寄せられるように慎之助はドアに手をかけた。

 静寂に支配された店内には、主に西洋の物品が所狭しと並んでいる……並んでいると言えるほど整然とはしていない。商品の陳列される様は、スラムの違法建築のような雑多な雰囲気だが、集められているもの自体は綺麗に手入れされているようだった。

 その店の端に、ガラスケースに入った一本のナイフを見つけた。刀身は骨か牙でできているのか白い。その表面には不思議な文様が刻み込まれている。そのナイフが持つ一種異様な空気感に慎之助が見とれていると、カシャリ、と音がした。見ると、古いカメラを構えた店主が立っていた。

「いや、失礼。いらっしゃい。真剣な眼差しをつい収めたくなってしまってね」

 髪に白いものが混じり、顔には皺が目立つ。その柔和な表情は、ここにある雑多なものすべてを何の苦もなく受け入れているように見えた。

「このナイフは?」

 店主の顔が一瞬だけ綻んだようだった。

「お目が高い。美品だよ」

「実際にナイフとして使えるんですか?」

「もちろん」

 再びガラスケースに目をやる慎之助は、あることに気づいた。

「値札が見当たらないみたいですが、売り物じゃないんですか?」

「値段はつけてないんだ。売り物じゃないから。それは僕の物じゃない。だから、持って行っていいよ。お代は要らない」

「え、どういうことですか?」

「そのナイフは持ち主を待ってるんだ。そのナイフがきっと君を選んだんだと思うよ」

 よく分からない理論だったが、熟考家の慎之助にはなぜか刺さったようだ。タダというのもあったかもしれない。早速包んでもらい、店主の好意で小さなトートバッグに入れたものを渡された。その顔はやけに嬉しそうだった。

 そんな経緯を聞かされたからか、次の日に合流した土方は不気味な物でも見るように白いナイフに目を落とした。

「絶対やばい代物だと思いますよ。もうアレですもん、禍々しさすら伝わってくる」

「それはそういう雰囲気にお前がなってるだけだ」

「なんでいつも優柔不断なのに、こういうのは即決しちゃうんですか」

「優柔不断じゃない。慎重なだけだ」

 不安がる土方を嘲笑うようにして、藤堂の部屋にナイフを持って行った慎之助は、一分もしないうちに戻ってきた。手には例のナイフが握られたままだ。

「特殊すぎて却下された。普通のナイフを調達して来い、だとさ」

「まあ、そうなると思ってましたよ」

 土方の薄ら笑いを背に、慎之助は小さなトートバッグを片手に街へ飛び出した。空は不穏なほど灰色で、辺りには土が香り立つような空気が漂っていた。慎之助が狭いアパートの一室に帰ってきた頃には、ポツポツと窓を叩く音がし始めた。

 小さなテーブルの上にトートバッグを置いて一息つくと、スマホが鳴った。宗岡圭太郎……数少ないまともな友人からだ。

『慎ちゃんさ……人生は虚しいよな』

 久し振りだというのに、開口一番、沈鬱な声がした。

「どうしたんだ、藪から棒に?」

 土方に言われて、密かに一度言ってみたかったセリフを早々に繰り出す。

『ちぃちゃんが引退しちゃったんだよ』

「誰?」

『ちぃちゃん、橘千尋。並木橋Bestieの』

「ああ、あのアイドルの。お前、好きだったの?」

 アイドルに夢中になる年齢じゃないだろ、という言葉は辛うじて飲み込んだ。圭太郎が落ち込んでいる原因そのものだからだ。

『実はさ、握手会とかライブとかめっちゃ行ってた。人生賭けてた』

「そこまで入れ込んでたの?」

『全財産つぎ込んでさ……、でも卒業しちゃったんだよ。胸の中に穴が開いた気分だ』

 その声の背後で駅のアナウンスが流れていた。慎之助も知っている駅だっただけに、光景が想像できて、妙に物悲しさが伝わって来るのだった。

「人生はそのちぃちゃんだけじゃないから、また新しいことに目を向けてみたら?」

『ちょっと、今の俺には難しいかな……』

 電車が近づいてくる音がする。

『じゃあな』

 捨てゼリフのように圭太郎が言って、ものすごい衝撃音がした。ガサガサと耳障りな音の中に、悲鳴が混じる。

「おい! 圭ちゃん!」

 何が起こったのか、電話の向こうの音で分かってしまう。現実から耳を背けるように電話を切って、よろよろと床の上にへたり込む。事態を飲み込めずにいるところに、スマホにメッセージが着信する。実家の父親からだった。

≪実家が放火されました。お前の物も全部燃えてしまった。すぐ連絡下さい≫

 矢継ぎ早の報せに、慎之助の心はついていけない。ただ、テーブルの上に置いたトートバッグの中身が妙に気になった。その日は、何も考えられないままベッドに潜り込んでしまった。

 実家の方は怪我人もなく、もともと古い家の上、火災保険が下りるようで、心配はいらなそうだった。慎之助が懸念していたような、家族が慎之助の部屋に転がり込んでくるというようなこともなかった。

「仕事の方は順調なの?」

 そう尋ねる母に一も二もなくうなずくたびに、嘘を重ねる罪悪感が黒く塗り潰されていく。まともな自分でいると思わせる一方で、それが実際の自分と大きく乖離していくのだ。

 翌日は、圭太郎の通夜だった。胸の中が空っぽのまま、五年前の撮影されたらしい彼の笑顔の遺影を見上げて、電話の声を思い出す。虚しかった。棺の中は見ることができず、本当に圭太郎が死んでしまったのか分からないまま、お別れの時は過ぎた。

 空っぽの心を抱え込んで帰って来た部屋の真ん中のテーブルに、ナイフを入れたトートバッグが横たわっている。このナイフを手に入れてから世界が一変したように慎之助には思えた。土方の言葉が思い出される。

「絶対やばい代物だと思いますよ」

 慎之助はナイフをバッグから取り出し、店主が包んでくれたものをバッグでグルグル巻きにして、ガムテープで止めた。不燃ごみのゴミ袋に入れて「キケン」と書きつけた。幸い、明日がゴミ回収の日だ。夜の内にゴミ捨て場に置いて、部屋に戻った。

 翌朝、目覚めた慎之助は、あのナイフが裸の状態でテーブルの上にあるのを見て、卒倒しそうになった。すぐに土方を電話で呼んだ。

「寝惚けてたんじゃないですか?」

 駆けつけた土方の第一声は、実に冷めていた。

「確かに捨てたんだよ」

「ここにあるじゃないですか」

 慎之助は深刻な顔で土方に詰め寄った。

「二時間くらい行けば山の方に着くだろ。そこでこいつを捨てよう。気持ち悪すぎる」

 目の据わった慎之助に迫られて、さすがの土方も薄ら笑いを封印する。

車を走らせて山に到着すると、三十分ほどかけて木の生い茂る、人の立ち入った形跡のない場所まで歩いていき、手で簡単に穴を掘ってナイフを埋めた。汗だくの慎之助は作業を終えると、無機質な表情を土方に向けた。

「早く帰ろう」

 その夜、びくびくしながらも、日中の作業で疲れが溜まっていた慎之助はベッドの中でやっと眠気を受け入れようとしていた。

 ダン! ゴトゴト……。

 すごい音がして飛び起きた慎之助の目に、窓の外の街灯の光を受けて白いナイフの刃が鈍く輝くのが飛び込んでくる。思わず後ずさりして、ベッドの縁に腰を落とす。

 ──何かが起こっている。確かめなければ。

 未知の現象に対する恐怖の奥底に、それを乗り越えようとする意志が彼の中で首をもたげていた。

 ──ナイフはいつも夜に戻ってくる。


「おかしいですね」

 翌日、部屋にやってきた土方もさすがに首を捻った。

「窓も玄関も鍵閉めてたんだ。このナイフ、絶対やばいやつだ」

「だから最初からそう言ってたじゃないですか」

 頭を抱えて唸り声を漏らす慎之助を見て、土方は何かを思いついたようだった。

「知り合いが金属リサイクルの業者をやってるんですけど、そこになんでも粉砕できる機械があるんですよ。そこでこいつをバラバラにしてもらったらどうです?」

「よし、やろう! 今、やろう!」

 必死の形相の慎之助に土方は顔を引きつらせてうなずいた。

 土方の車で小一時間ほど走ったところに、目的の場所はあった。広い敷地内には大量の廃車が積み上げられ、巨大な機械類もゴロゴロと転がっている。土方は慣れた様子で社員の一人に話をつけて、粉砕機を使わせてもらうことになった。

 大きく口を開ける粉砕機にナイフを放り込むと、機械が始動する。しかし、すぐに機械が止まってしまう。

「ダメだ。何か引っかかってるな」

 機械が完全に停止され、点検が行われる。作業員があのナイフを持ってやってきた。

「こいつが引っかかってたみたいです。隙間に入ったんですかね」

 だが、何度粉砕機を動かしても、機械は停まってしまう。

「そのナイフが粉砕機でもバラバラにできないんじゃないか?」

 土方の知り合いが不気味そうにナイフを見つめた。

 結局、ナイフを破壊することは叶わず、二人は車に戻るしかなかった。

 その夜、土方に協力を仰ぎ、彼の部屋にナイフを置くと、二人で何度も確認をしながら戸締りを行った。ナイフは部屋のクローゼットの中にある手持ちの金庫の中に入れた。

「なんで手持ちの金庫なんか持ってるんだよ」

「以前、拳銃を預かってまして……、念のために買っておいたんですよ」

 物騒な話だが、慎之助にとって、この現象を確かめるのに好都合だった。二人は、その足で慎之助の部屋に戻る。カメラをセッティングして、その時が来るのを待つ。

「今日はこのために昼間寝ておいたんだ」

 ぎらつく慎之助。そして、午前零時ちょうどに、それは起こった。

 突然、二人の前にナイフが現れて、床の上に音を立てて転がったのだ。二人とも、茫然として声も出なかった。映像を確認したところ、考えにくいことだが、壁の向こうから、ナイフがすっと顔を出して部屋の中に飛び込んできていることが分かった。つまり、壁をすり抜けてきているのだ。土方は何度も映像をスロー再生して、口をあんぐりと開ける。

「なんじゃ、こりゃあ……」

「これは……トンネル効果ってやつか?」

「なんですか、それは?」

「よく知らないが、量子力学の世界では、物質は壁をすり抜けてくることがあるらしい。でも、めちゃくちゃ小さい粒子の世界の話だぞ。こんなまとまった物体が壁をすり抜けるなんてあり得ない」

「でも、飛んでくるところに居なくてよかったですよ。下手したら自分に刺さりかねないじゃないですか」

 ──ナイフは持ち主のもとに戻ってくるのか?

 そう考えて、慎之助には腑に落ちることがあった。あの骨董屋の主人のことだ。自分の物ではないから値段もつけていないと言っていた。それは、このナイフの所有者が自分ではないと示していたのではないか?

「で、藤堂さんにナイフ持って行くって話は大丈夫なんですか?」

 慎之助の思考を遮って土方が言う。慎之助の脳裏に良くない考えが浮かんだ。とりあえず、土方を家に帰す。

 眠れないまま次の日がやって来て、慎之助はナイフを入れたバッグを持って、組織の本部へ出発した。電車に乗り、網棚にバッグを置き、座席に座ると、急に眠気がやって来る。しばらくして、目的の駅に近づくアナウンスで目覚める。ふと網棚を見上げて、血の気が失せた。バッグがないのだ。周囲を見渡しても、バッグは見当たらない。

 何も分からないまま、駅に降りて、すぐに忘れ物承り所に向かって、事情を説明する。慎之助のバッグがどこかで見つかったというような話はまだ来ていないらしい。しかし、事情を話すうちにクリアになっていった慎之助の頭の中には、一筋の光が見えていた。

 ──これで、あのナイフは盗んだ人間の物になった。

 慎之助はバッグを盗まれたとは思えない微笑みで駅を後にした。すぐに、近くのホームセンターでナイフを購入。それを藤堂のもとに届けた。当初懸念していた、防犯カメラのことなど頭の中からすっぽりと抜け落ちていた。

 ナイフを届け終わったところに、土方がやって来た。晴れやかな表情の慎之助を久しぶりに見た彼は、ピンときたようだった。

「あのナイフ、どうなったんですか?」

「それが、バッグごと盗まれたんだ。だから、あれはもう俺の物じゃない。本当は藤堂さんに今回の件とは関係なく譲ろうと思ってたんだがな」

 サラリとひどいことを口走る慎之助だが、土方の顔は険しく、曇っていた。

「以前、弁護士の知り合いが言ってたんですけど。例えば、自転車を盗まれたとしたら、その占有権ってやつだけが盗んだ人間に移るらしいんですよ。所有権は盗まれた人間にあり続けるんだそうですよ」

慎之助の顔が見る見るうちに強張っていく。

「変なこと言うなよ……。だいいち、あのナイフは法律家じゃないだろ……」

「そうなんですけど、思い出しちゃったんだからしょうがないじゃないですか」

 家に帰ったものの、午前零時が刻々と近づいてくると、いてもたってもいられなくなり、慎之助は散歩がてらに公園までやって来ていた。

 まだ朝晩は冷える。静かな公園のベンチに座って空を見上げると、雲間に微かに星が見える。周囲に人影はなく、街の中でここだけが時間を切り取られたようだ。

 公園の入口に女性の姿が現れた。疲れたような顔に街灯の明かりが当たって皺が少し目立つ。彼女は真っ直ぐに慎之助の方に向かってくる。

 息を飲んで立ち上がろうとする慎之助だったが、まるで根が張ったように動けない。なぜなら、その女の右手にあのナイフが握られていたからだ。

「あんたがウチの店からこれを持って行ったんだってね」

 しわがれた声が慎之助の耳に届く。言葉を返そうにも、震えて声が出なかった。女は手に持った写真を地面に放り投げた。ガラスケースに熱心に見入る慎之助の横顔。あの骨董店で店主が撮影した写真だった。

「家族より自分の趣味を取るような男がのうのうと生きていていいわけがないんだよ」

 慎之助には理解できない言葉と共に、女がナイフを振り上げて襲いかかる。辛うじて横に転がって避けた慎之助だったが、すっかり腰が抜けて、四つん這いになりながら逃げようとする。

「だから、この呪いであいつが死ぬのを待ってたのに……!」

 飛び掛かる女を足で蹴飛ばし、ようやく立ち上がって走り出そうとするが、慎之助は目の前の木に正面からぶつかってしまう。振り返ると、女がナイフを突き立てるように突進してきていた。咄嗟にしゃがみこむと、女はナイフを樹の幹に突き立てた。ナイフが深く突き刺さり、抜けなくなる。慎之助はその隙に女の身体を思いきり突き飛ばした。どこにエネルギーが備わっていたのか分からないほどの華奢な体が数メートル先の地面に転がる。

「私の邪魔をするな……!」

 女は鬼の形相だった。慎之助は思わず両手を挙げる。

「分かりました! 僕もこんなナイフは要りません! あなたにお返しします! だから、許して下さい!」

 女がニヤリと笑った。その瞬間、木の幹に刺さったナイフがすさまじい勢いで女の胸に飛び込んで突き刺さった。公園の時計が午前零時を指していた。女は声も上げずに背中から倒れて、動かなくなった。

 尻餅を突いた慎之助は慌てて警察を呼んだ。

 警察の調査によって、現場付近の防犯カメラに女が死んだ時の様子が収められていたことが分かった。ひとりでに飛んで女の胸にナイフが突き刺さるのを捜査員たちは茫然と認めるしかなかった。


「どうやら、あの店の主人の奥さんらしくて、ずっと旦那を恨んでいたらしい。で、あのナイフの呪いを聞きつけて、その呪いが発動するのをずっと待っていたんだと」

 翌日、憑き物が取れたような慎之助が土方に説明をしていた。

「ファンタジー版の谷崎潤一郎の『途上』みたいですね」

 そう返す土方を慎之助はまじまじと見つめた。

「お前、意外と物知りだよな」

「俺のこと、頭悪いと思ってました?」

「いや、そういうわけじゃないが……」

 ここで、慎之助の中にふと疑問が湧き上がる。

「で、あのナイフの所有権は今、誰にあるんだ?」

「ええと……、奥さんの物が配偶者の物になるんで……」


 西原は深い溜息と共に思い出を箱に詰めていた。

 ひとつひとつの品を手にとっては、妻とのことを思い出す。その繰り返しだった。だから、時間は矢のように過ぎ去っていく。

 警察からは、事故だと聞いていた。まだまだ捜査は続いているようだが、西原にはどうにも現実味がない。彼にとって、これまで何も言わずに自分の趣味を見守り続けてくれた妻は、もういないのだ。

 壁の時計を見上げる。オシャレな文字盤のそれは、妻が海外旅行の時に選んだものだった。もうじき日が変わる。ずっと床に座って遺品を整理していた。立ち上がって、腰を揉む。ポケットから煙草とガスライターを取り出して、ベランダに向かう。

 夏の夜の湿った暑い空気が西原を包み込む。

 タバコに火をつけようとして、ハッとする。妻はタバコが嫌いだった。だから、もうベランダに出る必要はないのだ。重い溜息を吐き出し、火をつけたタバコをぐぐっと吸い込む西原の瞳に、白いナイフが飛び込んでくるのが映った。

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