渚に馳せる影

 君を失ってから、どれくらいの時が経ったのだろう?

 僕は今年もこの街に戻って来た。あの暑い夏の日……あの時も、今日と同じようにひび割れたアスファルトの道路には陽炎が立っていた。君は遠くの逃げ水に追いつこうとして、この道をちょこちょこと駆けていたね。

 僕たちが育ったこの街は、自慢できるところなどない寂れた場所だ。でも、ひとつだけ好きなところがあって、それがこの真っ直ぐ続く道の先にある小さな砂浜だった。砂浜への道を行きながら、君のことを想った。

 後悔しかない。

 君をあの海へ導いたのは、他ならぬ僕だ。

もし、僕が君を誘わなければ。

もし、僕が君と出会わなければ。

そうやって想像を巡らせるたびに、胸が締めつけられる。この胸の痛みは、君への想いなのだ。君と出会ったことで、僕の日々は鮮やかに色づいた。それまで知らなかった、幾多の感情に触れて、自分という人間が木の板を彫刻刀で削るように深く縁どられていくのが分かった。そうやって板に刃を滑らせると、微かに木の香りが鼻をくすぐるものだ。青春とは、そういう匂いがするのかもしれない。だけど、あの時はゆったりと呼吸するようなゆとりなどなかったように感じる。

 補習から逃げた僕が辿り着いた図書室も、そんな匂いがしていた。

 形式的な数字で勝手に僕を定義されることが我慢ならなかった。数学が出来なくて何が困る? 英語が喋れない人間なんて腐るほど世の中にはいるではないか。

 なぜ図書室に逃げようと思ったのかは分からない。冷房が効いているからという理由だったかもしれない。人はいるのに静寂という、アンビバレントな空間が僕には場違いのように思えたが、本棚の間の狭い通路は身を隠すのには絶好の場所のように思えた。

 椅子の脚が床を擦る音と誰かの咳、そして、どこかで本のページをめくる音だけがあった。滅多に来ることのない本の森の中で、僕は見るともなく本の背表紙の羅列に視線を滑らせていった。

 テーブルに向かって静かに座った君が、熱心に本に目を落としている姿が、本棚の隙間から見えた。冷房がきつすぎたのか、君は制服のシャツの上にブラウンのカーディガンを肩からかけていた。半袖から伸びた白い腕が時折動くのは、物語を推し進める時だけだ。肩までのつややかな黒髪……片方を耳にかけて、本来なら髪に隠れて俯き気味の白い頬は見えないはずだ。頬の真ん中にほくろがひとつあるのが判った。少しだけ茶色がかった瞳が、縦書きの文字列を追って規則的に揺れている。

 さっきまで僕を取り囲んでいた本の森はサッと身を潜めていた。

 さっきまで聞こえていた音たちも、息を飲んで君を見守っているようだった。

 君が何の本を読んでいたのか、その表紙は見えなかったが、今なら分かる。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』……思春期の女子が読むには、ありきたりな物語かもしれない。だけど、その時の僕には、伏し目がちの君が妙に大人っぽく見えて、逃げ出してきた自分が矮小な存在に感じられたのだ。自発的に、しかし、後ろ髪引かれる思いで図書室を後にして補習に向かったのは、君のおかげなんだ。

 夏休みも図書室が開放されているとは知らなかった。補習がある日は、必ず図書室を覗くことにした。君はいつもそこにいて、そこだけ空気がしっとりしているように見えた。

 補習最後の日、適当に本を掴んで、君と同じテーブルの斜向かいに座った。たったそれだけのことなのに、僕には世界を二分するような決意が必要だった。本を開いても、意識は視界の右手に座る君に向けたままで、君に声を掛ける口実を探し続けていた。

 君の視線が僕の方に向く。そして、少し困惑したような、面白がるような、そんな笑みを浮かべて、僕の本を指さした。

「本が逆さまなんだけど」

 そこで初めて君の声を聞いたことに気づけなかったのは、想定外の言葉だったからだ。ハッと気づいてページを見ると、読めない文字が並んでいた。首筋から蒸気みたいなものが上って来て、耳が熱くなるのを感じた。それが気恥ずかしくて、思わず、軽口を叩いてしまう。

「いつ突っ込んでくれるのかと思ったよ」

 表情は引きつっていたかもしれない。普段言わないようなことを口にしたせいだ。君は、そんな僕の内心を知ってか知らずか、控えめに微笑んで本に目を戻した。図書室は静寂が当たり前だ。だが、その時の僕は、しくじったと思って、席を立った。そのまま本を片手に図書室を出ようとしたら、君が追いかけてきた。右手を僕の方に伸ばす。意味が解らずに立ち尽くしていると、君はまた僕の本を指さした。

「貸し出しの手続きするから」

「ああ……、知ってるよ」

 本を手渡す。君は図書室の入口脇にあるカウンターの奥に入って、そこにあるパソコンに向かった。本に貼りつけてあるバーコードをリーダーで読み込んで、カウンターに本を静かに置いた。その一連の動作が淀みなく、堂に入っていた。

「図書委員だったんだ」

 僕は本を手に取り、君を見つめた。僕の目の高さに君の頭頂部が来る。つむじに少しアホ毛が立っている。妙な沈黙。僕は不完全燃焼のまま礼を言って、歩き出そうとした。

「ねえ、クラスと名前は?」

 急にそう尋ねられて、ドキッとした。なぜそんなことを訊かれるのかと思いながら、乾いた口で返答した。

「……二年C組の玉坂光喜」

 君は短く返事をして、カウンターの奥の棚に近づいて引き出しを開けた。中には、カードがたくさん並んでいて、そこから一枚を探し出して抜き取ると、パソコンに繋がったバーコードリーダで読み取った。貸し出し手続きだったのだ。変な想像をして、その気になりかけていた。

 僕はまた顔が熱くなるのを感じて、鼻の頭を人差し指でなぞった。幸い、汗はかいていなかった。

「占い好きなの?」

「え? なんで?」

「だって……」

 君の目線は僕の本の表紙に。初めて自分が本棚から選んだものを知った。明らかに女子向けと分かる、ハートマークがたくさん並んだ装丁の占い本だった。なぜちゃんと確認して持ってこなかったのだろう? 僕は過去の自分を呪いながら、目を逸らした。

「……妹が好きなだけだよ」

「ふぅん……」

 嘘だった。僕に兄弟などいない。君の目に心の中を見透かされているようで、次の言い訳を考えていたら、君はとっくにさっきまで座っていた席に向かって歩き出していた。独りで勝手にどぎまぎしている自分がなんとも情けなかった。席に戻る君の背中に、

「君の名前は?」

 と問い掛ける勇気など、その時には跡形もなく掻き消えてしまっていた。君と間接的に繋がった占い本が、ずっしりと僕の心を凹ませる。

 補習中も、補習を終えてねっとりジリジリとした青空の下に自転車と共に足を踏み出した時も、いくら息をたくさん吸い込んでも、肺の中に何か先客が居座っていて、空気が足りないような気持ちになった。そのくせ、空はいつも以上に高く青くて、遠くからやって来る微かな潮の香りが豊かな海の恵みを僕に告げてくるのだ。

 自転車を押しながら、君のことを考えた。

 なぜ僕の学年を聞く前から、僕にタメ口だったんだろう? 君はひとつ上の先輩なのか? だったら、僕は失礼だったんじゃないか?

 髪を耳にかけた時、もみあげにもほくろがあるのが見えた。肌の白さがほくろで余計に際立っているように感じた。

 気づいた時には、駅前の商店街までやって来ていた。搬入業者のトラックから、大きな荷物が運び出されていく。もうじき夏祭りだ。毎年、夏にはこの商店街から海岸まで屋台が並んで大賑わいになる。祭りのクライマックスには、海岸で花火が上がるのだ。脳裏に、花火を見上げる君の横顔が浮かぶ。パステルカラーの浴衣を着て、和風の髪留めで髪をまとめた君の姿を想うと、胸の内側がくすぐったくなる。叶わない未来を思うと、焦りからなのか、息苦しくなって、もっと酸素が欲しくなる。君の横顔は、僕には無縁な想像上の世界だ。

 次の日、君は図書室にいなかった。休みの日に補習もない学校へ行ったのは初めてのことだ。親は不思議がっていたが、誤魔化して家を出た。図書室のカウンターで君の居場所を尋ねる勇気もなく、ただ本を返して帰路についた。君が読んでいた本の表紙を思い返していた。どんなものを読んで、どんなことを感じていたのだろうか。それを追体験したくて、自然と商店街にある本屋に足が向いていた。

 久光書店は本棚が縦に四列ほどしかない狭い本屋だ。漫画はここで買うことが多い。いつも向かう漫画のコーナーではなく、文庫本のある本棚の列を覗き込んで、息が詰まるかと思った。

 君がいたのだ。

 白いワンピース姿の君が本棚を熱心に見つめていた。やや上の方を向いた時の顎のラインがどこか神秘的で、息を殺して見ていた。制服ではない君は、いくらか幼く見えた。

「あ……」

 君の視線がこちらに向いた。ここに留まって君を見ていたと思われたくなくて、君の隣まで何でもない風を装って歩いていった。本棚に目を滑らせながら。

「よく本読むの?」

 君がそう尋ねた。

「まあね」

 本とは漫画のことだ。頭の中で、そう言い訳をした。君が何かを言おうとした時、店外で大きな音がした。どこかで進んでいる祭りの準備で、何か金属製の資材がガラガラと落ちて散らばったようだった。

 祭りのことで頭がいっぱいになりそうだった。君と二人で祭りに行けたら……そんな淡い想像を巡らせていた。どう会話を繋いだのか覚えていないが、二人で本屋を出た。君は何か一冊買ったんじゃなかったかな。久光書店のロゴの入ったベージュの紙カバーをかけたものを手にしていたと思う。

 君の帰り道は僕と違う方向だったが、僕は嘘をついて、自転車を引きながら君の隣を歩いた。沈黙を埋めたくて、本のことを話そうとしたが、そんな知識なんて持ち合わせていなかった。うねるような熱気をまとった風が海の方から吹いてきて、「暑いね」と言おうとしたが、そんな当たり前のことを言う意味があるのかと考えてしまった。

「家にいるとお店の手伝いさせられるからさ」

 君が唐突にそう言った。僕の家は自転車屋をやっていて、君の気持ちは少しは分かったが、その言葉の真意を測りかねたまま、風になびく髪を耳にかける君の横顔に問い掛けた。

「家が店やってるの?」

 君はうなずいて、居酒屋だと言った。祭りの日は書き入れ時なんだ、とも。そう話す目がどこか寂しそうで、気になった。

「祭りが嫌いなわけじゃないんだ。でも、もう純粋に楽しめなくてさ」

「友達と行けば?」

「彼氏と行きたいんだってさ」

 そこまで話して、君は別の道へ。君が僕に手を振りながら遠ざかっていくのを見るのがもどかしくて、でも、引き留める理由なんて思いつかなくて、僕は磯の匂いを運んでくる風の中で立ち尽くしてしまった。いまさら、君に名前を聞くなんてできない雰囲気だった。しばらくして、熱いサドルの自転車に跨って、海の方向へ飛ばした。めいっぱいの力を込めてペダルを漕いだ。腹いせのように。

 この海が好きだった。同時に、消せないブックマークのように、この海はいつまでも僕の心をここに引き留め続けた。

 弧を描いた小さな湾の中は穏やかな波で、今日も家族連れが海遊びをしている。もしかしたら、君と僕もあの家族のようになれたのかなと思うと、胸がざわつく。君のいない夏は、気の抜けたコーラみたいだ。決定的な何かが、そこにはない。

 どうして君を失ってしまったんだろう。

 どうして僕は君をここに残してしまったのだろう。

 祭りが二日後に迫った日、君と僕はいつものように隣り合って歩いた。名前も連絡先も初めて話す僕にタメ口だった理由も知らないまま、どうして二人は一緒に居られたのか分からない。本当はお互いを求めていたのかもしれないが、それは僕の自惚れかもしれない。

「祭りさ……ちょっと見て回ろうよ」

 断られること前提で、気がない風を装ってそう言ってみた。君は笑って、

「店抜け出せたら」

 とうなずいた。それだけで、何か僕の全てが肯定されたような気がした。

「笑いすぎじゃない?」

 そう指摘されて、思っている以上に自分が笑顔だったことに気づく。

「そんなことないよ」

 慌てて弁明をして、祭りの初日の待ち合わせ場所を本屋の前にした。本当はこれを口実に君の連絡先を聞きたいところだったが、がっつきすぎて引かれてしまうかもしれないと思ってやめてしまった。

 僕の次の記憶は、君と二人で海への道を歩いている場面だ。ついさっき祭りを見て回る約束をした直後のことだ。なぜ二人で海の方へ? 君はいつもならとっくに別の道を行くはずなのに。

「こっちの方ってなかなか来ないんだよね」

 君がそう言って歯を見せる。君が海を見たいと言ったのかもしれない。

「何もないよ」

「それがいいんだよ」

 君が道の向こうを指さす。逃げ水で揺らめいている。君が駆け出す。走り慣れていないようなちょこちょこ走り。その子どもっぽい姿に、頬が緩む。ちょっと先で立ち止まる君の隣まで行こうとしたのに、携帯に電話が来た。母からだった。

『姉さんが昨夜事故に遭ったみたいで、様子見に行くからお父さんの手伝いお願い』

 この後の予定を押しつけられてうんざりしたが、同時に、君を僕の力で繋ぎ止めておく自信がなかったせいで、心のどこかで、君と行動を別にする言い訳ができた、と考えてしまった。君に飽きられたり、失望されたり、嫌われるより、理由があって行かなければいけないんだ、という方が格好がつく。

「ごめん。帰らないといけなくなった」

 君は取り繕うように小さな笑みを噛み殺して、こちらにやって来た。何か言いたげだったが、潮風が連れ去って行ってしまったのかもしれない。

「そっか……」

「急用で」

「いいよ、気にしないで」

 君は理由を聞かなかった。僕も僕で、わざわざ言い訳じみたことを口にするのは、何か違うのではと感じていた。

 本当は君と別れたくはなかったが、君との関係性を焦って巻き取るような人間だと思われたくなかった。「じゃあ、また」と言って僕が自転車に跨ると、君は横道の方へゆっくりと歩き出す。僕は海の方向にペダルを漕ぎ出す。本当は家は反対の方向だったが、君といる時間を長くするために、帰る方向に嘘をついたことを隠したくて、遠回りをして家に帰ろうと思った。すぐにブレーキを踏んで、遠ざかっていく君の背中を見つめる。波の音も君を見送っていた。海はすぐそこだった。

 自転車で、君と踏むはずだった砂浜に立った。もやもやした気持ちをここに投げ捨てて帰りたかったのだ。靴の底から砂が溜め込んだ夏の記憶がじわじわと上ってくる。

 遠浅の海にも、砂浜にも、誰もいなかった。そう、普段は誰も見向きしないような場所だったんだ。

 ……そうだ。

 ここの海の景色も様変わりしてしまったんだ。まだ、ここには湾はない。


 今、僕はここに立って、箱庭のように湾内の海を囲む楕円形の砂浜をぐるりと見渡した。

 そして、思い出した。そろそろその時がやって来る。

 何かを引き裂くような音がして、空を見上げる。街の方の空から、輝く何かが冗談みたいな勢いで近づいていた。街が今も形を残しているのは、被害が及ばなかったからだろう。

 君を失ったんじゃない。ここにいたのは、僕なんだ。

 手を離した自転車が砂の上に音もなく倒れる。

 君と手を繋ぎたかった。想いを伝えたかった。名前を聞きたかった。どうして最初から僕にタメ口だったのか聞きたかった。もうそんなことができないと、何も分からないまま悟るなんて、あまりに呆気ない。

 もう一度、君に会いたかった。

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