Y字路の男

 初期衝動はその後の人生を変える。

 馬渕遣佑にとって、それはアニメであり、高校に入ってバレーボールを始めることに何の躊躇もなかった。ところが、誰もが知っている通り、得てしてそういった衝動は現実によって、誕生日ケーキの上に立つろうそくのように吹き消されてしまうものだ。遣佑も例に漏れず、鬱屈した部活動生活を送るハメになっていた。頭の中のイメージと重なり合うことができずフラストレーションを溜め、厳しすぎる顧問に耐え、しかし、たいして出番もないユニフォームを思い切って脱ぐこともできないでいた。

 だから、金谷史帆の、

「馬渕がバレー部ってめっちゃ意外だよね」

 という言葉は遣佑の不完全燃焼を見事に浮き彫りにしていると言える。

「まあ、そこまでマジでやってるわけじゃないし」

 大きく開いた教室の窓から、真夏の熱気が行列をなして上がり込んでくる。その空気の流れに揺れる史帆の黒い髪を盗み見て、遣佑は目を逸らす。

「なんで辞めないの?」

 剛速球が彼の胸に突き刺さる。その理由は彼自身も知らない。

「別にいいだろ。それに、夏休みには地区大会もあるし……急にやめるのは先輩に申し訳ないだろ」

 言い訳に過ぎなかったが、史帆は少しだけ同情したようだった。

「まあ、確かにね」

 少し沈黙があって、お互いが同時に口を開いた。笑顔がこぼれる。気恥ずかしさで顔を熱くしながら遣佑は史帆に先を譲った。

「地区大会っていつあるの?」

「八月の最初の土曜日」

 史帆の表情が一瞬、サッと曇ったのを遣佑は見逃していた。その答えは夏休み前、最後の登校日に明らかになる。

 終業式とホームルームが終わると、生徒たちは散り散りに教室を出て行く。残った生徒たちがそこかしこで言葉を交わしている。教室の一角で史帆たちのグループが小さなセレモニーを行っていた。

「マジでまた会おうね」

「絶対連絡するね」

 女子が二人、そう言って史帆に手を振って出て行った。その様子を横目で見ていた遣佑は胸がざわつくのを感じていた。お互い別のグループで友人と談笑していた。しかし、その視線が一瞬だけぶつかった。

 史帆たちのグループがどこかに集まる話をしながら教室を後にしていく。遣佑の隣で誠が言った。

「金谷さん、転校するらしいな」

 遣佑にとって、その一言は青天の霹靂だった。

 必死に情報を集めると、バレーボールの地区大会の開催日と史帆が引っ越しをする日が重なっていることが分かる。

 なぜ言ってくれなかったのか、という燻った感情が遣佑を支配したが、同時にそれは自分の中の想いを如実に浮かび上がらせることになった。いつか、何かがあると期待していただけに、突然の別れは遣佑の心を乱した。

 悶々とした日々を過ごした。史帆と連絡先を交換してはいない。だが、クラスメイトとの会話で、住んでいる場所は知っていた。地区大会は午前中に始まる予定だ。史帆の家に様子を見に行く時間はないだろう。かといって、その前に彼女の家に押しかける勇気も遣佑にはなかった。

 あっという間に当日がやって来る。

 空は雲ひとつない青。遣佑の心模様とは相いれないものがある。学校のジャージに着替えて、ユニフォームやサポーターを詰め込んだバッグを肩にかけて、時間通りに家を出た。朝七時には学校に集合し、そこから自転車で会場となる市外の体育館へ向かう予定だ。

 まだ熱を帯びていないサドルに腰を下ろしてペダルを踏み込む。全ての動作は上の空で、そこここに史帆への未練が滞留していた。

 学校への道の途中に、古い木造家屋が立っている。Y字路のど真ん中に立つその細長い民家は、遣佑が物心ついた時からそこにあった。いつからそこにあるのか、誰がそこに住んでいるのか、そういったことは何ひとつ知らなかった。ただ、そこを左へ行けば学校に辿り着けるという目印に過ぎない。ここを右へ行けば、史帆の家に向かうことができる。遣佑にとって、運命の岐路が近づいてくる。

 Y字路の分岐点に、誰かが立っていた。

 輝くような白髪の男。そこまで歳を食っているようには見えないが、どこかみすぼらしく見える。白いタンクトップにベージュのスウェットパンツ、足にはレンガみたいな色のサンダルを履いている。その男がじっとこちらを見ているような気がして、遣佑の感傷的な思いは有耶無耶になる。気づかない振りをして、ペダルを踏み込もうとした時、男は口を開いた。

「おい、そこの少年! 待たれい!」

 弁慶のように立ち塞がる男。遣佑は、やばい人間に捕まったと言わんばかりに大きくハンドルを切ったが、男の言葉に思わずブレーキをかけることになる。

「そのまま楽しくもないバレーの大会に行く気か? 史帆の家に行くなら、今この瞬間を置いて他にはないぞ!」

 いちいち芝居がかった物言いだが、なぜこの男は自分のことを知っているのだろうと、遣佑は離れたところからじっとその顔を見つめる。知り合いではない。男が手招きするので、吸い寄せられるように近づいた。

「そっちの道に、明るい未来などないぞ!」

「いや、あなた一体誰なんですか?」

 不敵な笑みを浮かべる男。

「何を隠そう、俺は二十年後のお前自身なのだ」

 遣佑は聞かなかった振りをしてペダルを踏み込もうとした。男が慌てて進路上に飛び込んでくる。

「待った、待った! いきなり信じるのは難しいだろうが、これは本当のことなんだ!」

「警察の不審者情報に載りたいんですか?」

 遣佑が冷たく言い返すと、男は複雑なジェスチャーで対抗してくる。

「違う! 話を聞け! お前、部活の先輩に富永っているだろ?」

「ああ、トミー先輩」

「そう! 略してトミセン」

「トミセン知ってるんですか?」

「だから、お前は俺なんだよ! そして、俺はお前なんだよ。二十年後のな」

 遣佑は改めて男の風貌を観察する。肌には元気がなく、そのくせ狂気じみているのか目が活き活きとしている。手足は細いのだが、やや腹が出ている。遣佑は夢見心地で男の頭に手を伸ばす。男は身を引いた。

「触るな!」

「いや、申し訳ないんですけど、自分の未来の姿がこんなだったら今すぐ自殺しなきゃいけないですよ」

「なんちゅうこと言うんだ、お前は……。いいか、大人になるってのはこういうことを言うんだよ」

「こんな大人見たことないですよ」

「見たことなくても存在してるの! 今お前が目の当たりにしてるだろ。信じろ!」

 眉間に寄った皺。歪められる唇。遣佑の表情は、疑わしさを絵に描いている。それが次第に悪戯っぽくニヤついていく。

「じゃあ、証明してみせて下さいよ。あなたが俺の二十年後の姿だっていうなら、それなりの証拠があるでしょう?」

「お前、生意気だな……」

「僕が生意気なことは分かってるはずじゃないですか?」

「いや、自分のことは自分ではよく分からないものなんだよ」

「じゃあ、不審者情報行きってことで……」

「待て待て」

 自称二十年後の遣佑は顎に手をやって考え始めた。やがて、物憂げに目を細める。

「二十年後くらいに日本に小惑星が落ちてくる。今はそんな情報全く出てないだろ?」

「二十年後の話されても僕が判断できるわけないじゃないですか」

「心底失望したみたいな顔するな」

「だいいち、僕がバレーの大会に行くと、なんで未来は暗いんですか?」

 自称遣佑が自分の胸にドン、と手を当てる。すぐに遣佑は真面目な顔を取り戻す。

「確かに、つまらない人生を送ってそうですね」

「理解が早すぎじゃないか……? そして、失礼だろ」

「いや、でもですね、仮に本当にあなたが未来の僕だとして、部活に打ち込むことの何がいけないんですか?」

「打ち込んでるって言えるほど打ち込めてないだろ」

 図星を突かれて、遣佑は口を噤んでしまう。自称遣佑はここぞとばかりに攻勢をかける。

「トミセンな、高校卒業したら、悪い連中と付き合うようになるぞ。お前はトミセンに誘われるようになり、やがて半グレに出入りするようになる。もうそうなったら、お前の人生は干乾びたミミズみたいなもんだ」

 干乾びたミミズが熱のこもった眼で遣佑を見つめた。

「トミセンが悪い連中と? そんなわけないですよ。めっちゃ良い人じゃないですか」

「トミセンにも先輩との付き合いがある。それが坂田って男だ。トミセンは坂田に誘われて半グレ活動に身をやつすことになる。で、お前はその手伝いをさせられるんだ。まあ、お前というか、俺だな」

 遣佑は黙ってしまった。しかし、すぐに思い直す。

「いや、ちょっと待って下さい。どうやって過去に戻ってこれたんですか? タイムマシンでも存在してるんですか、未来には? だからそんな『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のドクみたいな頭なんですか?」

「やかましい。時間移動のカラクリは俺にも分からん。だが、実際にこうしてやって来れたんだから、いいだろ」

「肝心な部分をぼかされると、信用できないんですよ」

 気持ちが離れて行きそうな雰囲気に、干乾びたミミズこと自称遣佑はもう一方の道を指さした。

「史帆の家に行け。今ならまだ間に合う」

「行きたいのは山々ですけど……、大会をすっぽかすのは怖いですよ」

「そっちの道に行くと後悔することになるぞ」

「未来のことを言われてもピンと来ないんですよ」

 自称遣佑は白い頭を掻き毟った。何かを言いたいことがあるようだが、思い悩んでいるようだ。

「じゃあ、金谷さんの家に行ったら何が起こるのか教えて下さいよ。連絡先を交換して付き合えるんですか?」

 ふと口から出た自分の言葉に、遣佑は図らずも胸の中の望みに向き合うことになった。

「そんなこと気にしないで史帆の家に行けよ」

「いや、気になるでしょ。いい加減、もう時間がやばいんですよ」

 自称遣佑はここに来て表情を強張らせた。その目は真っ直ぐと遣佑の瞳に向けられていた。その強い意志に遣佑はやや気圧された。

「いいか、目の前の利益を優先してばかりいると、未来に待つもっと大きな利益を逃すハメになる」

「そんな深そうなことじゃなくて、金谷さんの家に行ったらどうなるんですか? 成功するんですか? しないんですか?」

「失敗するなら行かないのか?」

「そりゃあ、そうでしょ。誰でもそうしますよ」

 考え込む自称遣佑の姿に、遣佑は答えを見た気がした。サドルに尻をつけて、思い切りペダルを漕いだ。

「あっ、おい! だからそっちはダメだって!」

 追いすがる自称遣佑の声を置き去りにして、遣佑は左の道へ飛び込んで行った。

 遣佑にしてみれば、簡単な賭けだった。あれだけ答えを渋るということは、史帆との関係性は進展しない。ならば、実直にバレーの地区大会へ向かう方が得策だというわけだ。

 風を切っていた遣佑だったが、ふと思い立って、ブレーキをかけて停まった。

 そして、自転車を引いて歩き出すと、学校への曲がり角を素通りしていった。この先を少し進むと、民家の隙間にこの近所の少年少女が〝秘密の抜け道〟と呼ぶ住民非公認の道がある。通る際には、静かに、素早く、そして喋ってはいけない。その道を辿れば、Y字路の向こう側に出る事ができる。遣佑は近くに自転車を残して、バッグを肩にかけると、その秘密の道へと足を踏み入れた。

 遣佑の考えはこうだった。

 仮にあれが本当に二十年前の自分ならば、多少ひねくれた性格は熟知しているはずだ。だから、彼の言う通りにしないことは容易に想像ができる。つまり、史帆の家への道が本当の正解ということになる。

 秘密の抜け道を出て、左へ行けば史帆の家に辿り着く。

 しかし、ここで遣佑を躊躇させるのは、自称遣佑の振る舞いだった。史帆の家への道を選んだらどうなるのかを聞いて、答えあぐねていた。遣佑の中に暗い想像がなみなみと注がれていく。

 わざわざ直感で選んだ道を捻じ曲げてまで、失敗の未来を引き当てたとしたら……?

 遣佑の足がどんどん重さを増していく。唐突に目の前に降って湧いた人生の岐路。それを物の数分で処理しきることなど、まだ人生経験の少ない彼には難しい話であった。

 遣佑は目の前の道を右の方へ、すなわち、史帆の家とは反対の方向へ歩き出した。自転車は後で回収しにくればいい。

 トボトボと歩いていた遣佑の耳に聞き慣れた声が届く。

「おい、お前なにしてんだ!」

 自称遣佑であった。Y字路に立っていた彼がずんずんと距離を縮めてくる。遣佑は自棄になって言い返した。

「うるさいな! いきなり現れてゴチャゴチャ言われて、気持ちなんか整理できるわけないだろ!」

「お前、逆の道行かなかったっけ?」

「どうでもいいだろ、そんなこと!」

「分かったから、もう泣くな」

「泣いてない! だいいち、あんたが未来のこと教えなかったせいだろ」

「いや、それはすまん。お前に喋ると、絶対に間違った方に行くからさ……」

「どうなるっていうんだよ?」

 自称遣佑は逡巡していたが、観念したように話し始める。

「いいか、バレーボール大会に行けば、なぜか引っ越し作業を終えた史帆が大会を観に来る。最後の思い出にな。そこでお前は、彼女と連絡先を交換することになる」

 遣佑が怒りの目を向ける。

「じゃあ、お前が邪魔しなければ……!」

 今から学校に向かってももう遅い。遠征などの集合時間に遅れた者は、同行が許されないのだ。

「史帆の家に行く未来では、お前はうまくやり取りができずに、連絡先を交換することはできない。大会の会場に向かった史帆はトミセンの先輩の坂田と親しくなる」

「……俺が元々選んでた道が正解だったんじゃないか」

「史帆と一緒になる未来では、お前は半グレの手先だぞ」

 今になって遣佑は自分の頬が濡れていることに気づいた。自称遣佑の確かめようのない未来図に背を向けるように、彼はそのまま歩いていく。

「ちょっと待て、どこに行く気だ?」

「帰る」

「お前、自転車はどうした?」

「向こうの道の途中に置いてきた」

 それを聞くと、自称遣佑はそちらの道に走っていった。

 遣佑が家に帰ると、母親がびっくりした顔で出迎えた。

「あんた部活行ったんじゃないの?」

「行くのやめた」

「はあ? なに言ってんの! 今からでも行きなよ!」

「うるさいな! 今日はもう行かねえよ!」

 あまりの剣幕に、母親は目を丸くして立ち尽くすしかできなかった。玄関のドアが開く。遣佑が息を切らしてそこにいた。

「おい、自転車拾ってきてやったぞ。礼を言え」

 その顔を見て、遣佑の母親は驚きの声を上げた。

「お義父さん?!」

 遣佑が怪訝そうに眉を曲げた。

「どういうこと?」

 母親の声が震えている。

「あんたのおじいちゃんよ、お父さんの方の」

「え? 僕が小さい頃に亡くなったんじゃ……」

 馬渕親子の視線を浴びて、自称遣佑かつ他称義父はキョトンとしていた。

「お義父さん、会いに来てくれたんですか? お盆はもうちょっと先なんですけど」

「いや、ちょっと待て……。俺は幽霊じゃねえ」

「タイムトラベラーじゃないのかよ?」

 遣佑の強い語気に母親が応じる。

「なに言ってんのよ。あんたのおじいちゃんよ」

「やっぱりタイムトラベラーじゃねえじゃんかよ」

 鋭い遣佑の視線に幽霊疑惑の男は応える。

「なんで幽霊は信じられてタイムトラベラーは信じられないんだ!」

「道理でおかしいと思ったんだ。未来の僕がこんな不審者のわけがない」

「さっきからなに言ってんのよ?」

 母親が問い掛けるので、遣佑が手短に説明をする。母親の疑惑に満ちた視線が幽霊もしくは時間旅行者に突き刺さる。母親は途端に笑顔になって、

「まあ、とりあえず、こちらにどうぞ」

 と、手招きをした。遣佑も、もはや誰か分からない男も訝しみながら家に上がる。母親は廊下を少し行った所にあるドアを開けて、男を中に案内した。

「いや、お母さん、そこは──」

 母親は唇に人差し指を当てて、男が中に入るとドアを閉めた。すぐにドアを押さえる。

「遣ちゃん、椅子持ってきて」

「なんで……」

「いいから早く!」

 久しぶりに怒鳴りつけられて、遣佑は急いでキッチンダイニングから椅子を引っ張って来た。ドアの向こうで男の声がする。

「おい、なに閉じ込めてんだ!」

 母親は椅子を受け取ると床に倒して、ドアと向かい側の廊下の壁の間に突っ張り棒のようにして置いた。

「いや、なにしてんの、お母さん」

「幽霊は水場に集まるっていうでしょ」

 ドアの先は洗面所と風呂場がある。

「だからって、閉じ込めるのはやばいでしょ」

 二人は壁一枚を隔てた畳の間に場所を移す。

「そもそも、どこでおじいちゃんと会ったの?」

「学校に行く道の途中。……え、おじいちゃんはもう死んでるんだよね?」

 母親の真剣な顔。

「だから、幽霊なのよ、あれは」

「幽霊だったら、閉じ込められないでしょ」

「塩撒いておかないとダメかしら」

「いや、おじいちゃんの霊を悪霊みたいに……。あの人は、二十年後の僕だと言っていたんだ」

 母親の表情が曇る。

「あんなのがあんたの未来の姿だと思うと反吐が出るわね。だから、あれはおじいちゃんの幽霊よ」

「どんなロジックだよ。しかも、単純におじいちゃんに反吐が出てるじゃん」

「あんたこそ、タイムトラベラーなんて現実離れしたこと言わないでよ」

「その言葉そっくりそのまま返すわ!」

 母親は自らの主張に自信があるようだった。

「よく考えなさいよ。幽霊とタイムトラベラー、どっちがあり得るかって言ったら、幽霊の方でしょ」

 そもそも同じ秤に載せられるものかどうかすら判らない二択を迫られて、遣佑は頭を抱えた。

「いや……、そりゃあ、そう言われたら幽霊の方が優勢かもしれないけど……」

「ほら見なさい」

「でも、二人揃って幽霊を見るってパターンは都合が良すぎるよ。それって、霊体じゃなくて普通に物体を見てるのと同じじゃん。実体があるんだよ」

 母親は食い下がる。

「実体があるっていう証拠は?」

 この子にしてこの親あり、というのを体現したような反論だ。遣佑は迷った末に、何かを手繰り寄せたようだった。

「さっきあいつが『自転車を拾って来た』って言ってた。本当に自転車がそこにあれば、実体があるってことに……!」

 遣佑は急いで玄関を開けて、庭先に視線を投げる。そこには確かに、遣佑の自転車が置かれていた。しかし、母親はその光景を目にしても引き下がらなかった。

「あんたが本当に自転車に乗って行ったかどうかは証明できてないわよね」

「自転車で集合するんだから、乗って行ったに決まってるだろ」

「でもあんた、この前荷物全部忘れて学校行ってたじゃない」

 都合の悪い過去はよく覚えているのが、遣佑の母親である。そして、その事例は遣佑の主張の信憑性に疑問を呈するのに十分なものだった。

 追い詰められた遣佑は最後の手段に打って出ることにした。

「あいつがおじいちゃんの霊だったら、洗面所から出て来ているはず。それなのに、あいつは姿を見せない。ってことは、あいつは実体のあるタイムトラベラーなんだ」

「残念でした~。幽霊は消えることはできるけど、消えないこともできるから、それだけでは証明になりませ~ん。しかも、タイムトラベラーだって時間移動したら消えると思いま~す」

 粘り強い論客を前に、遣佑は怒りが沸々としてきた。ただでさえ、バレーの地区大会を蹴った上に、史帆との関係性も萎んだままなのだ。挙句の果てに、あの謎の男が幽霊なのかタイムトラベラーなのかという頭のイカれた議論に身を投じるハメになった。遣佑でなくとも、気が狂うかもしれない。

 遣佑は大声をあげて母親に掴みかかる。庭先はリングと化し、親子対決が勃発する……かと思われたが、ちょうどそこに自転車でパトロール中の警察官が通りかかる。

「ちょ、ちょ、ちょ! やめなさい! 二人とも!」

 警官は庭に入って来て、レフェリーのように二人の間に割って入った。

「落ち着いて下さい! 親子で喧嘩なんかするもんじゃありませんよ。何があったんですか?」

 警官が尋ねると、遣佑がブスッとした顔で家の中を指さして答える。

「母があいつはおじいちゃんの幽霊だって言うんです」

「……は?」

 警官が自分の耳を疑っていると、母親が声を上げる。彼女も家の中を指さしている。

「息子があの男はタイムトラベラーだと言うんです」

「いや、あんたがた一体何言ってるんだ?」

 困惑する警官は開け放したままの玄関のドアの向こうに、倒れた椅子を発見して只事でないことを悟った。急に真剣な表情になって、靴を脱ぐと廊下に足を踏み出した。後ろについてくる親子に許可を取って、椅子に近づいてそれをどかすと、ゆっくり洗面所のドアを開けた。

「……誰もいないじゃないですか」

 親子が揃って洗面所に顔を突っ込む。もぬけの殻であった。遣佑は急いで風呂場のドアを開けて中を覗いたが、誰もいない。念のために風呂の蓋を開けて中を見たが、昨日の残り湯が張ってあるだけだった。

 狐につままれたような顔の親子を残して、警官が呆れ顔で去って行く。

「密室からの消失じゃん」

 遣佑がボソリと言う。

「じゃあ、幽霊で決まりじゃん」

 母親が勝利宣言するが、遣佑も負けを認めない。

「タイムトラベラーも消えられるってお母さんが言ったんじゃん」

 とぼとぼと玄関に向かう遣佑は、沓脱にあのレンガ色のサンダルが置きっぱなしになっているのを見た。

 ──タイムトラベラーじゃん。

 母親に向かって、そう口に出そうとして首を捻った。

 彼がタイムトラベラーなのだとしたら、この結果は不本意なもののはずだ。

なぜやり直そうとしなかったのだろうか? あの男にとっては、どんな結果でもよかったとでもいうのだろうか? 自分の未来を変えたいと思って来たのならば、そんな淡白な決意が彼を突き動かしたというのだろうか?

 謎ばかりが残った。

 母親が隣にやって来て、サンダルに目を落とす。

「実体があったんだね」

 敗北宣言の響きはそこにはなかった。勝敗の垣根を飛び越えた先に着地した彼女は、静かに言った。

「あれは妖怪だったってことでいいか」

「ああ、それいいね」無気力な同意が親子の仲を取り持った。「なんて名前の妖怪?」

 母親はしばらく考えた末に答える。

「乳首おやじ」

「ああ……、気にしないようにしてたけど、ずっと乳首立ってたもんね」

 真夏の生暖かい風が渦巻いて、退散していった。

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