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 うんざりだった。

 馬鹿な連中も、それに気づかなかった俺も……そして、今やこの国も。

 荷物はすでにシンガポールに送ってある。資産は全て暗号資産に変えたうえで、ペーパーウォレット化した。これで誰も手を出せない。玲花とは向こうで落ち合う約束になっている。全ての手筈は整ったのだ。

 決意の朝をホテルの一室で迎えた。もうこの国に俺の帰る場所などない。洗面所に向かって顔を洗い、ヒゲを剃る。黒い粉になったヒゲが排水溝へ吸い込まれていくのは、この国への未練が流れていくようだ。バスローブを脱ぎ捨てて、クローゼットに用意しておいたスーツに着替える。今日のためにテイラーに作らせたものだ。最後に髪を整えて、部屋の中に忘れ物がないか見回す。たとえ忘れ物があったとしても、ここに戻ることはもうないだろう。最後にコートを羽織る。バゲージラックに置いておいたバッグに手を伸ばす。

 支度を済ませて、部屋を出る。最上階からロビーのある一階までエレベーターで降りると、朝の光が一面ガラス張りのエントランスから差し込んできた。まるで俺の門出を祝うかのような眩い光景だった。

 チェックアウトの手続きを行うフロントのスタッフが、厚手の紙でできた封筒を手渡してくる。

「当ホテルでご利用になれますギフトカードをプレゼントしております。またのご利用をお待ちしております」

 礼を言って懐にしまう。ゴミが増えただけだ。金や利益で繋がる関係性はダイヤモンドのようなもの。固いが割れやすい。そういうものに裏打ちされた関係性に絆という名前を付けて、あたかも魂が繋がった者同士だと思わせてきたのだ、俺たちは。馬鹿げたことだ。

 ホテルを出る。無機質な冷気が俺を包み込んだ。この都市はひどく他人行儀だ。だが、今の俺にはそれくらいがちょうどいい。

 車寄せに向かって、フロントに頼んでおいたタクシーがやって来るのを待った。しばらくしてタクシーが滑るように到着する。運転手が降りてきて、荷物をトランクに載せるか聞こうとしたようだったが、手で制すると大人しく運転席に戻っていった。暖かい車内に身を投じて、空港へ、と告げる。ゆったりと発進するタクシーの後部座席で、腕時計に目をやる。出発時刻は三時間後だ。

「お仕事ですかぁ?」

 間の抜けた声が運転席から届く。

「ええ、まあ……」

「飛行機で飛び回るなんて、格好良いもんですなぁ」

 空笑いでやり過ごそうとしたが、深く刻まれた烏の足跡は俺を追いかけてくる。

「何されてるんですか?」

「失礼。ちょっと連絡が来てしまったので……」

 そう言って、スマホの小さな画面に逃げ込んだ。ちょうど玲花からのメッセージが届いた。なんだかんだいって、以心伝心なところがある。

≪一足先に楽しんでるね✨≫

 送られてきた写真にはマリーナベイ・サンズの特徴的なシルエットをバックにポーズを決める玲花の姿が映し出されていた。派手な花柄のTシャツにデニムのダメージショートパンツというラフな出で立ちからは、すでに向こうでの生活を満喫しようという思いが溢れ出ている。それが可愛らしいところでもあり、危ういところでもある。

≪そっちには夕方ごろ着く。夜は豪華に行くか≫

≪店探しとく👌≫

「知ってましたぁ?」沈黙に耐えられない人間なのか、運転手が痺れを切らして口を開いた。「来年だったかに小惑星が地球のそばを通るらしいんですよ」

「ああ、そうですか」

「デカい隕石が落ちてきたら、東京なんて一巻の終わりでしょうねえ」

「そんなことにはならないと思いますけどね」

 投げ槍にそう返すと、運転手はなぜか残念そうに「そうですか」と言った。人生がうまく行っていないのだろう。

 三十分ほど会話を交わし続けて、ようやく空港に辿り着いた。俺は一万円札を渡して、逃げ出すようにタクシーを降りた。運転手が何か言っていたが、無視をしてチェックインカウンターを目指した。アイドルの橘千尋がデジタルサイネージの中で何かを喋っている横を通り過ぎると、子どもたち二人が俺のバッグにぶつかって尻餅を突いた。途端に泣き出す子どもの数メートル向こうに両親らしき男女が立っている。

「すみませ~ん」

 女の方が頭を下げたが、それを無視して先を行くと、男の方が、

「なんだよ」

 と腹立たしそうに、わざと俺に聞こえるように声を上げた。自分の力を誇示したがる情けない男を俺は何人も見てきた。顔面を何発か殴りつければ、大人しくなる奴らばかりだった。

チェックインカウンターのそばにやって来ると、近くの老人の携帯電話がけたたましく鳴る。老人が大きな声で喋り出すと、近くの男が怒りを露わに怒鳴りつける。

「うるせえんだよ!」

 老人が男に突っかかるのを尻目にチェックイン機で手続きを済ませる。老人のまわりに空港スタッフが駆け寄っているが、俺には関係のないことだ。荷物を預けて保安検査を抜け、急ぐこともなく搭乗ロビーへ。窓のそばの日当たりの良い場所に陣取って、時間が来るのを待つ。若い女の集団がやって来て、七番搭乗口そばにいるスタッフに大きな声で自分たちの目的地を尋ねている。耳障りな笑い声が遠ざかっていく。

「ね~え、早く乗りた~い!」

 子どもが駄々をこねている。この調子では、機内では延々と泣き叫ぶかもしれない。近くの席でないことを祈ろう。ポケットの中でスマホが震える。坂田からの着信だ。

『司馬さん、どこにいらっしゃるんですか!』

「どうした、坂田?」

『ブツが消えてるんですよ!』

 ブツというのは、俺たちの組織が管理している脅迫材料のことだ。そいつで俺たちはあらゆる場所に幅を利かせてきた。全部、俺が処分しておいた。

「そうか」

『「そうか」って……。藤堂の野郎どもがやったのかも……』

 坂田と藤堂は対立する派閥の頭だ。坂田も藤堂も勝手に俺を掲げ上げて大義名分を主張している。ただ欲にまみれただけの馬鹿な連中だ。

 坂田に応えるのも億劫で、ボーッと奴の声を聞いていると、搭乗開始のアナウンスが流れる。異変を察知したのか、坂田が声を張る。

『司馬さん、今どこにいるんですか?』

 電話を切って、搭乗ゲートに向かう。チケットを見せて、ゲートの向こうへ一歩踏み出したところで、目が覚めた。


 ベッドの縁に腰かけていた。今朝目覚めたはずの部屋だった。

 静寂の中で立ち上がる。バゲージラックのバッグが目に入る。クローゼットに近寄って中を見ると、テイラーに仕立てさせたスーツがぶら下がっている。顎に手のひらを滑らせると、ザリザリと音がする。ベッドのサイドテーブルの上に置いたスマホを手に取って日付を確認する。今日の朝だ。

 寝惚けているのかと思った。さっき、空港の搭乗ゲートを通り抜けたはずではないか?

 電話が鳴る。急いで受話器を取ると、昨夜設定しておいたモーニングコールだった。十一月二十九日午前六時三十分……。鮮明な記憶があるのに、自分自身を信じられなかった。恐る恐る洗面所に向かって、顔を洗い、ヒゲを剃り始める。明瞭すぎるデジャブだ。スーツに身を包んで、バッグを手に部屋を出る。

 フロントでチェックアウトを済ませる。見たことのあるフロントスタッフが厚手の紙の封筒を手渡してくる。

「当ホテルでご利用になれますギフトカードをプレゼントしております。またのご利用をお待ちしております」

 礼を言わずに封筒をバッグに押し込んで、確かめるように車寄せに急いだ。頼んでいたタクシーがやって来て、あの運転手が降りてきた。俺のバッグに目をやって、

「ええと、お荷物は……」

 と聞いてくる。

「いや、結構」

 俺はタクシーの後部座席に身を滑らせた。腕時計を見る。飛行機の出発時刻まで、あと三時間ある。何が起こっているのか分からなかったが、空港へ、と告げる。

「お仕事ですかぁ?」

 同じタイミング、同じトーン、同じ声。ルームミラー越しに運転手と目が合ったが、何も返すことができなかった。運転手の目が細められる。

「飛行機で飛び回るなんて、格好良いもんですなぁ」

 同じ時間が流れている……。

「何されてるんですか?」

「今日、あのホテルに何回来ましたか?」

 恐る恐る聞いた。

「今日ですかぁ? 朝早いですから、これが最初ですよ。何か気になることでもおありですかぁ?」

「いや、何でもありません」

 ポケットの中でスマホが短く震える。玲花からのメッセージが着信したのだ。

≪一足先に楽しんでるね✨≫

 マリーナベイ・サンズを背にした写真。返信をするのが恐ろしくなり、スマホをしまう。

「知ってましたぁ? 来年だったかに小惑星が地球のそばを通るらしいんですよ」

 次にこの男が何を言うかも分かる。

「デカい隕石が落ちてきたら、東京なんて一巻の終わりでしょうねえ」

 無言を貫いて空港に着く。手にしていたスマホで決済する。タクシーを降りて、チェックインカウンターの方へ歩いていく。踏みしめる床がフワフワしているような気がして、眩暈がしそうだった。橘千尋のデジタルサイネージを通り過ぎたところで、子どもがバッグにぶつかって尻餅を突いて泣き出した。

「すみませ~ん」

 子どもの母親が頭を下げる。俺も思わず頭を下げた。父親の方が子どもの手を引いて、

「すみませんでした」

 と言って遠ざかっていく。頭がおかしくなりそうだ。

チェックインカウンターのそばで、老人の携帯電話が鳴る。大きな喋り声。それに呼応する男の怒鳴り声。

「うるせえんだよ!」

 繰り返しだ。速足で搭乗ロビーに向かう。窓のそばの椅子に座っていると、耳障りな若い女の集団が現れて去って行く。そして、子どもの駄々。

「ね~え、早く乗りた~い!」

 そろそろ、電話が来る頃だ。案の定、俺の手の中でスマホが震えた。画面に「坂田」と出ている。

『司馬さん、どこにいらっしゃるんですか!』

 さっきと同じテンション。同じ文言。同じテンポ。黙っていると、坂田が続ける。

『ブツが消えてるんですよ!』

「坂田……、お前、さっきも俺に電話してきたよな?」

『えっ……? なに言ってるんですか?』

 頭を掻き毟る。こいつにとって、初めてのことなのだ。搭乗開始のアナウンスが流れて、坂田が声を上げる。

『司馬さん、今どこにいるんですか?』

 俺は立ち上がって、電話の向こうの坂田に言った。

「今から飛行機に乗る」

『……飛行機? どこに行くんですか?』

 通話しながらスタッフにチケットを見せる。七番搭乗ゲートに足を踏み入れる。

「今、ゲートを──」


 目が覚めて、俺はスマホを握ったままベッドの縁に腰かけていた。

 これは夢じゃない。時間がループしている。

 俺はこの国を出て行きたいのに、それが叶う目前でこの時間に飛ばされてしまう。何とかしなければ……。しかし、何をすればいい?

 モーニングコールが鳴る。受話器を取ってすぐに置く。洗面所で顔を洗って、ヒゲを剃ろうとしたがやめた。スーツに着替えて、バッグを持つ。前回より早くフロントに降りた。

「当ホテルでご利用になれますギフトカードをプレゼントしております。またのご利用をお待ちしております」

 タクシーは自分で拾うことにした。ホテルを出て、ポケットからスマホを取り出そうとして、そこにないことに気づいた。部屋に忘れてきたのだ。急いでフロントに戻り、事情を説明する。スタッフはフロントで待つように言ったが、一緒に部屋まで上がり、ベッドの上に転がっていたスマホを手に取って部屋を出た。あまりにも必死だと思われたのか、スタッフが俺に訊いてきた。

「お急ぎでしたら、タクシーをお呼びしましょうか?」

 腕時計で時刻を確認する。本来なら、すでにタクシーに乗っている時間だ。今からなら、別の運転手がやって来て、俺の運命も変わるかもしれない。タクシーを呼んでもらうことにした。

 車寄せに向かい、やって来たタクシーから降りてきたのは、お馴染みのあの運転手だった。俺のバッグを見て言う。

「ええと、お荷物は……」

 時間が違うはずなのに、同じことが起きている。断るわけにもいかず、タクシーに乗り込む。なかなか走り出さない。怪訝に思っているとルームミラー越しに声がやって来る。

「どちらに参りましょうか?」

「だから、空港へ……!」

 運転手は訳も分からない様子で頭を下げた。走り出して少しすると、運転手は気を取り直したのか、にこやかな雰囲気で口を開いた。

「お仕事ですかぁ?」

「別に飛行機で飛び回ってるわけじゃない」

「おっ……、そうだったんですね」

 俺の苛立ちが伝わったのか、運転手は口を利かなくなった。すぐにスマホが短く震える。玲花からの見慣れたメッセージだ。タイミングがずれたとしても、全く同じことが起こるらしい。だとすれば、あの搭乗ゲートを通り抜けた瞬間に、俺はまた元の時間に戻されるのかもしれない。

 乗る予定だった飛行機の時間を変更できる期限は過ぎている。同じシンガポール行きで予約可能なのは、六時間後以降のものだ。午後に出発して向こうに夜到着の便がある。今の予約をキャンセルして、そちらに切り替えた。これで何か変わるかもしれない。

 俺が息ついたのを見計らっていたのか、運転手が喋りかけてきた。

「知ってましたぁ? 来年だったかに小惑星が地球のそばを通るらしいんですよ」

 同じやり取りにうんざりする。早くこの国から脱出しなければ、頭がおかしくなってしまう。

 空港に着いて、チェックインカウンターを目指す。橘千尋のデジタルサイネージの前で、ふと立ち止まる。ここを通り過ぎると、子どもがぶつかってくるはずだ。俺はデジタルサイネージを迂回して、ひとつ隣のブロックに移動して、周囲を警戒しながら先へ進んだ。子どもはぶつかってこない。俺が通るはずだった方を見ると、家族連れがじっとしている。まるで俺が現れるのを待ち構えているかのようだった。

 チェックインカウンターのそばで鳴るはずの老人の携帯電派の音がしない。それどころか、老人も、それに文句を言う男の影もない。チェックイン機にチケットを読み込ませようとするが、機械が動作しない。諦めてチェックインカウンターへ。時間はかかったが、無事チェックインを終えた。出発までにはかなりの時間がある。空港内のカフェに入り、コーヒーを頼む。

 しばらくして、スマホが震える。坂田からだった。違う場所であいつからの電話に出るのは変な気分だ。

『司馬さん、どこにいらっしゃるんですか!』

「どこでもいいだろ……」

『ブツが消えてるんですよ!』

 真に迫った声だ。まるで初めての事態に遭遇したような。

「それがなんだ」

『いや……大問題ですよ。これじゃあ〝取引先〟を繋ぎ止め続けられないじゃないですか』

 もともと繋ぎ止められていたわけじゃない。連中の弱みを握ってできただけの泥船なんだ。この組織にいて、誰もそのことを理解していないのだ。

「藤堂がやったと思っているんだろう」

『やっぱり、司馬さんもそう思いますか?』

「俺の考えじゃなくて、お前の考えだろう。なんでそう思うんだ」

『あいつは司馬さんを引きずり降ろして、自分がトップに立とうと考えてますよ。そんな奴のこと、信用できるわけないじゃないですか』

 藤堂も坂田について同じような考えを抱いていることを、こいつが知ったらどう思うんだろうな。

「まあ、なんとかなる」

 そう言って電話を切った。なんとかならないから、俺は日本を出て行こうと思ったのだ。あいつらを捨てて。

 時間が迫って来た。保安検査を済ませ、搭乗ロビーへ。今度は、うるさい女の集団も駄々をこねる子どももいない。七番の搭乗ゲート脇のスタッフにチケットを渡す。しかし、機械が正常に動作しないらしい。さっきもチェックインカウンターで同じようなことがあった。俺は一旦列から外れて、スタッフの対応待ちの状態となった。他の乗客がゲートの向こうへ消えていった頃、スタッフが申し訳なさそうにチケットを手渡してきた。どうやら、手続きは無事に済んだらしい。

 俺は搭乗ゲートに向かって一歩を踏み出した。


 ベッドの感触が蘇る。

「なんでだ!」

 俺の声がホテルの部屋に響き渡る。朝六時半。モーニングコールが鳴る。受話器を取って、置く。スーツに着替えてバッグを持ち、ベッドの上のスマホを拾い上げてフロントに降り、タクシーも頼まず、ギフトカードも受け取らずに外に出た。冷たい空気の中、駅の方へ歩き、途中で空車のタクシーを見つけて停めた。後部座席に乗る俺を振り返った運転手は、いつもの男だった。

「なんであんたが……」

「どちらに参りましょうか?」

 運転手の木の洞のような目……俺の心がそう見せているのかもしれない。

「……空港へ」

 いつものやり取りを上の空で流し、空港へ。もう何度目なのか分からなくなってくる。チェックインカウンターへの経路を、前回と同じようにデジタルサイネージを迂回していく。また子ども連れの家族がじっと俺が現れるのを待っているようだった。しかし、どこかおかしい。身動きひとつしないのだ。気づかれないように近づく。ピタリと止まったつもりでも人間は微かに動いているものだ。しかし、彼らは毫も身動ぎを見せない。

 近くの椅子にスマホを立てかけて、彼らを撮影した状態でデジタルサイネージの方に回る。俺のバッグに子どもがぶつかって尻餅を突いて泣き出す。

「すみませ~ん」

 両親が歩み寄ってくる。それを無視して、椅子に置いたスマホを取りに向かう。

「おい、あんた……!」

 俺に突っかかろうとする父親を母親が制する。撮影された動画を確認する。俺がデジタルサイネージのそばを通りかかったタイミングだろうか、それまで少しも動かなかった家族が急に動き出した。理解のできない行動だ。

「これはどういうことなんだ?」

 夫婦にスマホの映像を見せつける。しかし、二人は顔を見合わせて首を傾げるだけだ。

「なんで俺に接触しようとするんだ!」

「言いがかりをつけるなよ!」

 男が俺に詰め寄る。その目は本気だ。わざとやっているわけじゃない。この場から離れてチェックインカウンターへ。近くで老人の携帯電話が鳴る。大きな声で喋る老人に男の声が飛ぶ。

「うるせえんだよ!」

 前回は老人も男もおらず、交わされなかったやりとりだ。なぜ前回はここにいなかったんだ?

 チェックイン機でチェックインを済ませる。今回は機械は正常に動作した。保安検査を通って七番搭乗ゲートの前に。うるさい女の集団がスタッフに道を聞いて去って行く。

「ね~え、早く乗りた~い!」

 子どもの駄々をこねる声。LEDで光る大きな「7」という数字。悪魔の数字に見えてくる。スマホが震えて、坂田から電話が来る。あいつが何か言う前に、

「あとで説明するから、今は黙って待ってろ」

 と先手を打つと、坂田は驚いたようだった。

『把握してたんですか?』

「ああ、大丈夫だ。問題ない」

 なぜか坂田は安心したようだった。お前が話している相手は、お前たちを捨ててシンガポールに行こうとしているんだぞ。

 時間が来た。電話を切って搭乗口に向かう。一歩を踏み出す。


 ベッドの上で目覚める。

 声も出ない。

 一体何が起こっているのか……。これを現実だと受け入れるのだとすれば、俺があの搭乗ゲートに入ると、時間がここに戻ってくる。時間だけでなく、俺の位置もホテルの一室に戻される。なぜ時間はループする? なぜ俺はあのゲートの向こうに行けない?

 俺以外の人間がループの引き金になっているとは考えにくい。タイミングを考えれば、俺がこの世界の時間を捻じ曲げる要因だと見て間違いはない。もしこのループを仕組んだ者がいるのだとしたら、俺をあの飛行機に乗せたくないようだ。理由は分からない。

 家族連れの存在が異質だ。俺の動線に交差するように動いているのは明らかだ。俺の動線が彼らの行動と紐づいているようだ。その後の老人などは、もしかすると、子どもが俺にぶつからなかったことで現れなくなったのでは? まるで、ゲームにおけるスクリプトイベントのようなものだ。

 ゲームにおけるスクリプトイベントは、キャラクターがイベント開始ポイントに接触したりすることがイベント開始の引き金になる。そのイベントが起こることがその後のイベントの開始条件になるのだとすれば、老人が現れなかったり、機械が動作不良を起こしたのもおかしくはない。……いや、現実世界でそんなことが起こること自体おかしいことだ。とにかく、学生の頃にプログラミングをかじっていたのが、今になって活きた。人生は分からないものだ。

 ならば……。

 モーニングコールを止めて、洗面所でヒゲを剃る。飛行機をキャンセルして、昼過ぎのマレーシア行きを新たに予約する。搭乗ゲートが変更になる。本当にあのゲートに入ること自体がループの引き金なのか確かめる必要がある。

 忘れ物のチェックをしてバッグを手に一階に降りる。あとは、空港までは同じだ。

 空港に着いて、前回までと同じ経路を辿る。搭乗口だけが違う。隣の八番搭乗口だ。こっそりと、数十メートル先の七番搭乗口付近を観察する。うるさい女子グループがスタッフに道を聞いている。叫んでいる子どももいる。

 時間がやって来て、搭乗ゲートに向かう。一歩を踏み出す。今度は何も起こらない。そのまま飛行機までの通路を辿って、座席につく。

 半信半疑のまま、飛行機は発進する。身体にGがかかる。今度は成功だ。玲花にメッセージを返す。

≪夜遅くにそっちに着く≫

≪遅くない?≫

≪こっちにも色々あるんだ≫

 理解したらしく、妙なスタンプを返してくる。

 マレーシアに到着してからは、陸路でシンガポールへ。夜遅くに玲花と落ち合うホテルにやって来た。時間がループする気配はなさそうだった。だが、俺の胸の中に居心地の悪さがずっと居座っている。いつまたあのホテルの一室で目覚めてしまうのか……そう考えるだけで恐ろしくなる。

「やっと合流できた~!」

 ホテルの部屋で玲花と抱き合った。俺には手土産があった。現地の人間から手に入れたドラッグだ。そいつでこの気味の悪い気分を一掃したかった。

 ルームサービスで頼めるものを頼めるだけ注文した。もう夜も深いが、そんなことはどうでもよかった。玲花も海外で気分が高揚しているのか、ドラッグに興味津々だった。

 二人で粉を混ぜたシャンパングラスを合わせる。

 しばらくすると、自分と世界との境目がじんわりと混ざり行くのが分かった。窓の外では、宇宙に遍く惑星のスペクトルが降り注いで、ラスベガスのような光彩を放っている。絨毯の長い毛足がくねくねと踊り出して、ジム・モリソンの顔になると、大きな口を開けて『ジ・エンド』を歌い出す。調子に乗ってふかしていた葉巻の灰たちがワーテルローの戦いを再現する横で、玲花と交わった。二人の身体も溶け合って、宇宙に爆散した細胞のひとつひとつが原初の文明から急速に進化して、精神世界を飛び回る蝶の群れになる。人類の歴史がパイ生地になって、サクサクと音を立てながら、玲花の喘ぎ声の虹色の波形に切り刻まれていくと、粉になって巻き上がった人間の魂たちが俺の肺胞の中で菌糸を伸ばす。全身からきのこが顔を出して、そいつらが俺を笑って、一斉に飛び立つ。舞い散る細かい羽毛がスクリプトになって、この部屋もホテルもシンガポールの土地も全てコードに変えてしまう。


if(i = 7){

continue;


 膨大なスクリプトの中にそのコードが見えた瞬間に、俺の身体は揺らめくスペクトルドットで描かれる情報空間に放り出されていた。コードの意味は、おそらく、搭乗ゲートの番号が七である限り、最初に戻って処理を再開する、というものだ。こんな粗末なコードがあるだろうか? コードも書いたことがないような人間が考えついたに違いない。だが、どういうわけか動作して、「i=8」になった今、俺は先の処理を行っていることになる。その先に、if文の終わりを示す〝}〟が待っているというのだろうか?

 文字を形作るピクセルが俺を飲み込む。その中にあのホテルの一室があって、俺はそこで目を覚ます。そばにあったスマホに手を伸ばす。六時二十八分という時刻を告げる文字のピクセルのひとつが大きな口を開けて、俺を飲み込む。そこはまたあのホテルの一室で。

 もしかしたら、俺はずっと繰り返してきたのかもしれない。

 どこから始まった?

 ここであの粉を身体の中に取り込んでから?

 こことはどこなのか? シンガポールだと思っているのは俺だけか?

 粉を取り込んだのは「i=7」の先でのことではなかったのか?

 何も分からなくなってきた。){


continue;

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