守護天使

 深夜というにはまだ早い。

 しかし、郊外にあるこのコンビニでは、店内でダラダラと品出しをするアルバイトの動く音と店内に流れる専門のラジオだけがなんとか経済の巡る気配を醸し出している。窓際のマガジンラックのところには、リュックを背負って黒いフードを被った男が雑誌なんか目もくれずに、じっとスマホに目を落としていた。

 穏やかな時間が流れる中、店内に入店音が鳴り響く。

「……やっしゃっせー」

 やる気のないバイトの小さな声が店の奥に漂った。レジに置いてあるベルがチーンと声を上げた。バイトが溜息交じりにレジに向かう。カウンターには、大きな身体の男が立っていた。全身黒ずくめのライダースーツで、頭にはヘルメットを被っていた。これでバイク乗りでなければ、ヤンチャが過ぎる。

「なんすか」

 店員らしからぬ自由律接客でバイトがヘルメットの男にけだるげな目を投げた。男は無言でスーツのポケットから迷彩柄のナイフをスッと取り出してその刃を店員に向けた。

「金を出せ」

 ヘルメットの中でくぐもっていたが、その低い声は明らかに時間の流れを変えるような響きを持っていた。しかし、人類の気だるさ代表ともいうべきバイトは小さく舌打ちをした。ヘルメットの男が思わず耳を寄せるように顔を前に突き出した。

「今、舌打ちした……?」

「いや、してないっす」

 そう答えるバイトの目つきは苛立ちを隠さないほど鋭かった。

「明らかに舌打ちした人間の目つきじゃん」

「いや、だから、してないっすよ……!」

「……なんでちょっとキレてんだよ」

 男はナイフを向けながらカウンターに一歩近づいた。バイトは深く溜息をついた。

「いや、めんどくせえんすよ。五万くらいしか入ってないんすよ。たかが五万くらいをレジから出すなんて、めんどくせえんすよ。一千万くらいあれば出し甲斐がありますけど」

「レジに一千万もある方がおかしいだろ……」

 バイトはナイフを向けられているにもかかわらず、カウンターに腰を寄り掛からせて、再び鉛のような溜息をこぼした。男は右手に持ったナイフをバイトの眼前に突き付ける。

「俺、強盗なんだぞ!」

「いや、分かってますよ……」

「金出せって!」

「いや、だから、めんどくせえっつったじゃないすか」

 強盗は目を擦るかのようにヘルメットのバイザーをライダーグローブの手の甲の部分で拭った。

「もっと慌てふためくとか、恐れおののくとか、あるだろ」

「……彼女と別れたんすよ」

「はっ?」

「なんか……一方的にフラれて……イライラしてんすよ、こっちも」

「いや、こっち強盗なんですけど……」

「他行ってもらえます?」

 予想外の提案に、強盗は呆れたようにナイフを下した。この辺りにコンビニはここしかない。

「もういい。お前じゃ埒が明かんから、奥に別の奴いるんだろ。そいつ呼んで来い」

 バイトは見るからに嫌そうに顔を歪める。

「あの人、俺が起こすとめっちゃキレてくるんで嫌です」

「はっきり断るなよ……。強盗なんだぞ。キレられるくらい我慢しろよ」

 強盗はイライラしたように、というか、イライラしてナイフでカウンターをコツコツと叩いた。

「もういいわ。レジ開けろ。勝手に金盗ってくわ」

 バイトはじっと男を見つめ返した。

「なんか、ここまで来ると逆に金盗られたくなってきました」

「なんで急に正義感が溢れてきたんだよ……。しかも、逆じゃねえだろ。さっきまでは金盗られてよかったのかよ」

 今度は強盗の方が盛大に溜息を吐いて、店内を見回した。マガジンラックのそばにいるフードの男を目に留めると、そちらにズンズンと歩いていって、その肩を叩いた。

「動画観るのやめろ。強盗だ」

 フードの男がイヤホンをしたまま強盗を見上げた。それくらいの体格差がある。イヤホンからは音が漏れていた。強盗はもう一度言う。今度はナイフをちらつかせて。

「動画観るのやめろ! 強盗だ!」

 フードの男はイヤホンを片方だけ外して、面倒くさそうに訊き返した。

「なんですか?」

 強盗は三度同じ言葉を投げかけた。

「動画観るのやめろ! 強盗だ!」

 フードの男は、真面目な顔で口を開いた。

「すいません。あと十五分でここのWi-Fi切れちゃうんで……」

 そして、イヤホンを耳に突っ込もうとする。強盗はその腕を掴んだ。

「いやいやいや、ちょっと待て! これが見えねえのか!」

 フードの男の目の前でナイフをギラつかせる。フードの男は腕を掴まれて頭に来たのか、大きな声を発した。

「だから、あと十五分でWi-Fi切れるんですよ!」

「なんでWi-Fi一本槍で敵うと思ってんだ!」

 コンビニのWi-Fiは利用時間制限が設けられている。そのことは強盗も理解はしていたはずだが、ナイフよりも強い制限時間の壁にぶち当たることになった。フードの男の腕を掴んでレジの方へ連れて行こうとしたが、フードの男が激しく振り払う。

「わかった! もう動画観ながらでいいからこっち来てくれ!」

 強盗最大の譲歩もイヤホンからの音漏れが意思阻害しているのを如実に物語ってくる。強盗は肩を落として、ナイフをフードの男の首元に押しつけた。今度こそは武力行使が円滑なコミュニケーションを実現するはずだ。

「……なんですか?」

 フードの男はイヤホンの片方を外して男を見上げた。

「なんですか、じゃねーよ! 分かるだろ! 日常的にナイフ押しつけられてんのかお前は!」

 フードの男が鼻で笑う。

「そんなわけないでしょ」

「こっちは皮肉で言ったの! いいから、金出せ!」

 強盗はレジからこちらに矛先を変えたようだ。

「すいません。お金持ってないんで」

「金持ってねえのにコンビニに来るなよ」

「Wi-Fi目的なんで」

「じゃあ、そのスマホ寄越せよ」

「動画観てるって分かってますよね。っていうか、もう五分くらい無駄にしてるんですけど。どうしてくれるんですか? この五分間担保してくれるんですか?」

 必死の形相で詰め寄って来るフードの男に強盗は後ずさりする。

「お前のWi-Fiへの執着すごすぎるだろ……」

「それに、これ友達のやつなんで」

「お前のじゃねえのかよ……」

 強盗は途方に暮れて、レジの方に目をやった。バイトと目が合う。

「こっち見ないで下さいよ」

 バイトが冷めた目でそう言い放った。とてもではないが、強盗にとって居心地のいい場所ではない。鬱屈した怒りが強盗を動かす。そばにいるフードの男の首に手を回して引き寄せると、ナイフを押し当てた。

「こいつが死ぬのと金を出すの、どっちがいいんだ!」

 腕の中のフードの男はそれでも動画を観続ける。バイトは難しい顔をして考えていた。

「なんで悩んでるんだ、お前は……」

「外でやってくれるならいいですよ」

「なんちゅうこと言うんだ、お前は!」

 倫理観の外にいるバイトを見捨てるように、強盗はフードの男を睨みつける。

「お前の家に連れて行ってもらう」

 聞こえていないようだ。フードの男はどこぞのアイドルのミュージックビデオを低速で何度も観返している。ゆっくりと歩を促すと、素直に従うところをみると、どうやら動画さえ観られればいいらしい。

 強盗はコンビニの入口でバイトを振り返った。

「警察には言うなよ!」

 退店音が鳴る。レジでバイトの気だるげな声がする。

「……あざしたー」

「ありがとうございました、じゃねーよ! 強盗が来たんだぞ!」

 もうヘルメットの中は汗だくだ。ただでさえ、店の外は昼の熱気を溜め込んだ夏の夜だ。強盗はフードの男の背中を押して、溜息をついた。男が声を上げて、舌打ちする。そして、コンビニの窓のそばに駆け寄った。

「僕をWi-Fiの範囲外に出さないで下さい」

「お前は街灯に集まる蛾か!」

 しばらくして、フードの男はスマホからイヤホンコードを抜き取って、リュックのサイドポケットにしまい込んだ。

「やっと終わったか」

「で、なんですか?」

「お前の家に案内してもらう」

「なんでですか?」

「金目の物を奪うためだよ! さっき聞いてなかったのか」

「僕の家遠いんですけど」

 強盗は辺りを見渡す。駐車場にもコンビニの建物の周囲にも足になるようなものは、自分が乗ってきたバイク以外にはない。

「どうやってここまで来たんだ?」

「友達の家から」

「また友達かよ。自分の物ねえのかよ」

 フードの男はリュックを指さした。強盗はヘルメットの頭を振った。

「それも友達のかと思ったわ。なぜか安心したわ、動画野郎め……」

「仕方ないじゃないですか。並木橋BestieがさっきMV公開したんですから」

「意味分からねえこと言うな」

「アイドルですよ、知らないんですか。新メンバーがセンターですよ。ポスト橘千尋って言われてる」

「アイドルなんか知らん」

「まあ、橘千尋もソロで復帰するって噂ありますけどね」

「どうでもいいことはペラペラ喋るんだな」

「こういうことに興味持たないから強盗なんかするんですよ」

「どういう論理だ。もういい、さっさと家へ連れて行け」

 フードの男は動かない。

「なんでこんなことするんですか」

 ようやく強盗に投げかけられるべき言葉に出会って、男は安堵感でいっぱいになった。アスファルトの上に尻をついて膝を抱え込んだ。だが、素直に答えるわけにもいかずに、強がりを返すしかなかった。

「お前に言う必要はない」

 フードの男は初めから興味がなかったかのように、コンビニが面している道路の方へゆっくりと歩いていった。強盗が目を光らせる中、男は車道を注意深く眺めた。あまりにも静かな熱帯夜。空気を震わせるような車影など気配もなかった。コンビニの窓のところには、男のリュックが腰かけている。強盗はそれをチラリと見て、今ならあれを持って逃げ出すことはできると皮算用を繰り広げた。

 強盗が行動を起こそうという時、向こうのフードの男が突然走り出して行ってしまった。逃げたのだ。

 呆気に取られた強盗はゆっくりと立ち上がって、リュックのそばに歩み寄った。リュックの口を開けて驚いた。カップラーメンや総菜パン、おにぎりやお菓子などが詰め込めるだけ詰め込まれていたのだ。

 考える間もなく、強盗はリュックの中に手を突っ込んでおにぎりを開けて夢中で頬張った。胸を詰まらせながら、強盗はヘルメットの中で涙を流した。久しぶりの食事だったのだ。ずっと人目を避けて逃げ続けてきた。

 空っぽの自分の財布を開いて、そこに映った妻の泣きぼくろを撫でると、自分が情けなくなる。結婚記念日がついこの前のことだった。それなのに、今は彼女を家に置いて逃げてきた。彼女と離れることが彼女を守る唯一の方法だと信じてやってきた。組織の影に怯えて過ごす日々は、ありありと男の心を削り取っていった。それも、もとをただせば、男の犯したミスから始まったことだ。どう足掻いても言い訳の余地など男にはないのだった。

 咳き込みながらおにぎりを平らげてると、リュックのサイドポケットからスマホを取り出す。壊れた様子もなく、綺麗な状態だ。どこかで換金できるかもしれない。スマホをポケットに突っ込んで、リュックを背負うと、バイクのもとに駆け寄ってエンジンをかける。振動が強盗を焚きつける。ここから逃げ出すんだ、と。

 すぐに走り出した。

 振り返るコンビニの光がどんどん遠ざかっていく。

 異世界に飛び込んだかのように、車や人のない道路を猛スピードで駆け抜けていく。民家が数を減らして行って、草木が道路脇に増えていく。しばらく走って、前方から鳴り続けるクラクションの音が聞こえてきた。道路脇から光が投げかけられている。一台の軽自動車が電柱にぶつかっていた。速度を落として車に近づく。運転席で中年の女性が頭から血を流していた。意識がないようだった。

 男の全身に寒気が走った。

 周囲には何もない。このままここを去れば、なんのリスクを背負うこともない。しかし、女性の命を自分だけが左右するという事実に、男はそう簡単に結論をつけられずにいた。

 血。

 死。

 逃亡。

 男はヘルメットを脱ぎ捨てて、バイクを降りると、車のドアを開けて女性を観察した。息をしていた。急いでポケットからさきほど盗んできたスマホを取り出して救急車を呼んだ。

 十分足らずで赤いランプがひと気のない道を照らしだした。救急隊員が素早く応急処置を施して女性をストレッチャーに乗せた。

「ご家族ですか?」

 男は首を振った。

「事故当時者?」

「通りがかったんです」

 向こうの方で、駆けつけた警察が調査を始めていた。

「自損だな」

 そう声がする。男は念のために警察署に出向き、形式的な聴取を受けた。自損事故であることは明白だったようで、男はすぐに解放された。ちょうどそこへ、見知らぬ男性がやって来た。

「あんたが通報してくれた人?」

 息が上がっている。走って来たのだろう。

「ええ、まあ、そうです」

 すると、両手をガッシリと掴まれた。

「カミさん助かったよ! あんたがすぐに見つけてくれたおかげで!」

 激しく感謝されて、男は困惑してしまった。

 本当は、バイクも盗んだものだ。救急車を呼んだスマホも。フードの男にかけた自分の言葉が耳の奥に蘇る。

「自分の物ねえのかよ」

 どこか自分自身を見ていたような気さえしていた。ナイフを突きつけて、暴力を信奉していた。その数時間後には、誰かの命を救ったことになっていた。自分の感情をどう処理すればいいか分からず。

「当たり前のことをしただけです」

 と歩き出した。名前を聞こうとする男性を残して警察署を出た。

 バイクを留めた駐車場から、東の空が微かに白むのが見えた。

 食料を詰め込んだリュックを背負って、バイクのエンジンをかける。

 これから、どこへ行こうか?

 その瞳は微かに揺れていた。

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