You’re so sweet

 えてして終わりというものはあっさり訪れるものである。

 俺と彼女との日々もそうだった。

 俺の血液など混入されていないパスタの代わりに餃子の皮を使用したラザニアを仕事を終え帰宅した彼女と食べているときだった。唐突に玄関のチャイムが鳴った。

「すなちゃん」

「はい」

「いますぐクローゼットに入って、それから動かないで喋らないでいっさい物音を立てないで」

「承知しました」

 俺はラザニアを放置しただちに彼女の寝室の扉を開けて、続けてクローゼットの扉を開けた。春物の薄いロングコート、ワンピースの隙間にひっそり膝を抱えて座り込み、扉を閉める。そして動きを止める。組んだ腕に片側の頬を乗せて置き物のごとく座り込んでいると、十七歳のころ、彼女と出会う前の自分を思い出した。あのころ俺の耳はラジオから届く音楽だけを拾っていた。いまの俺の耳が拾ったのは「ふざっっっっっけんじゃねえ!」という兄の怒声と足音だった。俺は全力で漬物石になりきりいっさいの音を立てないよう心がける。

「おい素直すなお! 出てこい、帰るぞ!」

 俺はいっさいの物音を立てられないのでもちろん返事ができない。扉の向こうからはひっきりなしに兄の大声と足音となにかをなぎ倒すような乱暴な音が聞こえてくる。それでも俺は動けない。声はあげない。彼女に、そうするように、言われたから。

 それでも成人男性が隠れられる場所といったらそうあるものではない、兄はクローゼットへと辿り着く。かくして勢いよく扉は開かれ、俺は半年ぶりに兄と出会う。

「おまえ、痩せたな」

「……そうかな」

 兄の言うことは、たぶん正しい。俺は彼女が食べたいといったものしか作らないし食べないから一日一食か多くても二食、それも余りものだけを食べていておまけに外出もしてなかったから筋肉なんかすっかり衰えていて当然痩せているわけだった。

 兄は一瞬なにかひどく痛ましいものを見るような目つきになり、それから短く舌打ちをすると伸びっぱなしで根本がすっかり黒くなった俺の金髪を引っ張り無理矢理立たせると、盛大に頭突きをかましてくれた。

 視界に星が飛び、倒れ込みそうになったところを兄に担がれて背負われる。とてもじゃないけどもう抵抗はできない、名前のとおり素直で無様な俺である。

「じゃあな、二度とこいつはおまえには近づかせねえから。金輪際俺たちの前に姿を見せんなよこの監禁犯罪女」

「監禁なんて、してないよ」

 やっぱりとびきりのとっておきの可愛い声で、彼女は言う。

「わたし、出ていっちゃ駄目なんか、言ってないし。ここにいて、とは言ったけどね」

 兄は今度こそ隠す気はなさそうな舌打ちをすると、彼女に言葉を返さず俺を背負ったまま玄関へと向かう。

 およそ半年ぶりに吸った外の空気は、べつだん美味くはなくかといって特に不味くもなかった。兄は躊躇うことなくマンションの敷地を一刻も早く出るべく歩を進める。

 すなちゃん、と、俺を呼ぶ彼女の鈴のような声を期待していた。

 でも、その期待は断ち切られた。

 彼女はあっさりと俺を手放した。その程度の存在だったらしい。


 まあ彼女が俺に目をつけたのは元を辿れば俺と彼女を出会わせてしまった兄の責任と言えなくもない、そんなわけで妙にしおらしく甲斐甲斐しく俺を気にかける兄はなんというかちょっと可愛らしいというかおもしろかった、うっかり口を滑らせて兄ちゃんおもろいな、と言ってしまったから睨まれるかと思ったけどそんなことはなく、もう平気そうやな、と兄は笑うだけだった。

 まったく平気なことはなかったが。

 俺は相変わらず彼女のことを忘れられない。寝ても覚めても彼女だけだ。会えなくても関係ない声が聞けなくても関係ない、だって俺の世界の物差しは彼女なのだ。彼女以外にありえない。すなちゃん、すなちゃん、わたしがぜったい君のこと幸せにしてあげるから。そういう彼女の声と言葉で俺の輪郭は生まれたのだ。すなちゃんは純ちゃんにそっくりだけど、声だけはぜんぜん違うね、わたし、すなちゃんの声が好き、すなちゃんの声ならどこにいたって見つけられると思う。彼女は兄の純一じゅんいちのことを純ちゃんと呼んだ。彼女の言うとおり俺と兄は外見がそっくりで双子だと思われることがよくあるほどだった、でも、こんなふうに、俺の声を見つけて拾ってくれたのは彼女だけだった。

 だから俺は歌うことにした。

 彼女が教えてくれた世界の定義を、音にして、歌にして、そして彼女が好きだと言ってくれたこの声で歌うことにした。

 実はといえば、彼女のマンションのなかでも俺は歌を作ってはギターを弾いてそれをインターネットに上げていた。彼女は俺を部屋に連れ込むときにほとんどの私物を許可しなかったが、レスポール・ジュニア(ダブルカッタウェイモデル)は持ち込みが許された。ネットでの俺の評判はそこそこ良くて、兄に家に連れ戻された数日後、よかったら一緒に演奏してみないかと動画を見たひとから誘われたのだが彼女の部屋にギターを置いてきてしまったのでいったん見送りになり、なんとかバイトをして貯めたお金で同じギターを買いそれから俺は誘ってくれたひととその友人たちとバンドを組むことになった。

 ステージに立って俺はギターをかき鳴らす、叫ぶようにして歌を歌う、彼女の定義を物差しを、歌という名の凶器に変換して世界にそれを振りかざす。

 俺の作る歌にはしばしば女性の名前が登場する。ありがたく俺たちの演奏を聴いてくれるファンたちは、それを俺の歴代の彼女の名前なのではと勘繰っているそうだが残念見当違いだ全員イマジナリー彼女だ。俺はたくさんの女性の名前を彼女が褒めてくれた声で叫ぶがひとつ決めていることがある、彼女の名前だけはぜったいに歌にしてやらない。

 なあ、聴こえているか? 届いていますか? 俺の歌はいま街のいたるところに流れているだろう、でも、あなたの名前だけはぜったいに歌にはしてやりません。

 後悔してくれ、コンビニで流れる俺の歌を聴くたびに、うっかりつけたテレビ番組のドラマ主題歌を歌うのが俺だと気づくたびに、友人の結婚式のビデオレターのBGMで使用されているのが俺の叫ぶ愛の歌であるたびに、後悔してほしい、あのとき、俺を呼ばなかったことを、すなちゃん、と呼ばなかったことを悔やんでほしい、さすがにキレると意外とヤバかった兄を前に引き留めてほしかったとは言えない、でもすなちゃんって呼ばなかったこと、それだけは永久に悔やんでほしい。

 いま俺はステージに立っている、彼女とともに眺めた、あのステージの上に立っている。風が強い、届け、届けよ届いてくれ地獄まで届いてくれ俺の歌! 私情に満ち溢れた俺の歌をメンバーたちは笑ってくれる、愛は重いほうがおもしろい、そう言って笑う、ひとごとだと思って笑ってんじゃねえよ! でもふと思ったりもする、十七歳の俺はこんなふうにひとに怒鳴ったりはできなかった、誰にもなにも言えなかった、俺に言葉と輪郭を与えたのはやっぱりあなただった。

 観客たちのひとりのなかに、瞬間、よく似た姿を見つけた気がした、俺は全力で愛を込めて架空の女性の名を叫ぶ。短い一瞬、視線が交差し、あなたはとびきり可愛く笑うと、口のかたちだけで俺にこう言うのだ、かわいいひとだね計算通り! もちろんほんとにそう言ったかどうかなんてわからない、でも俺は確信している、あなたがそう言ったことを、すべてがいつまで経ってもあなたの手のひらの上だってことを。あーもう最悪まじで怖えよ、出会わなきゃよかった愛してる。

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世界でいちばん幸せの歌 折り鶴 @mizuuminoue

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