世界でいちばん幸せの歌

折り鶴

彼女

「だいじょうぶだよ、わたしといればぜったい幸せになれるから」

 もちろんこの世界にぜったいなどなくそしてそんな曖昧な定義で示された幸せに無防備に縋りつけるはずもなく、つまりはこんなこと語るまでもなくまったくだいじょうぶでもまったく幸せでもないことは誰の目に見ても明らかだった、それでも彼女の双眸から視線を外せない俺だった。

 彼女の指が、俺に触れる。冷えた指先、かたい爪。ゆっくりと、伝うように、ゆるやかに頬を撫でられる。少しずつ指は降りてくる。頬骨を越え、乾き切った唇の横を越え、顔と頸との淡い境い目、顎のあたりをなぞられる。瞬間、鋭い痛みが俺を貫く。

 声は出せない。出せる、わけがない。そんなこと俺には許されていない。爪を立てられ破れた皮膚から滴る血を拭いもできず、俺は彼女の艶めく瞳にただただ射抜かれ刺されたまま。

「あはは、ごめんね、痛かった?」

 ようやく硬直から目覚めた躰をなんとか動かす、首を横に振り否定の意を示す。そう、と彼女は満足気に笑う。とびきりキュートで可愛い笑顔。どうやったって逆らえない。

「じゃあ、わたし仕事行くからね。あ、そうだ、晩ご飯はラザニアがいいなあ。知ってる? あれって餃子の皮でもつくれるんだよ! それじゃね、すなちゃん、よろしくね」

 そう言って彼女は部屋を出る。扉を開けて、外へ向かう。彼女の仕事はなんつったっけあのほら長ったらしい横文字のやつ、えーとそうだコンサルティング! あれ? 思ったより長くねえなまあいいや。実際それがどんな仕事なのか俺は知らない、そして俺はといえばまともな仕事なんかしたことない、つうかここ数ヶ月このマンションの一室から出ていない。

 頸筋を伝う血を自分の指先で拭う。さほど出血したわけでもない、すぐに固まるだろう。手を洗うか洗うまいか一瞬悩んで洗うことにする、俺の血液がラザニアに混入したところで動揺してくれる彼女ではない。

 のろのろとキッチンへ向かい冷蔵庫を開ける。未開封の餃子の皮を確認する、一昨日だけじゃ使いきれなかったやつの余りだ。あとなにがいるんだっけ、つかラザニアってなんだっけ、いったん冷蔵庫を閉じてキッチンからリビングへ移動し放り出されたスマホを手にする。

 いくつかメッセージが届いていた、膨大な企業の広告メッセージに紛れて一件、俺を俺として認識してくれているひとからもメッセージはあった。『素直すなお、ぜったい責めたりせんから帰ってこい、頼む。あいつはまじであかん』。兄からだった。俺は返事をせずにインターネットの海でラザニアの作り方を検索する。


 もとはといえば兄の恋人だったひとだった。

 最初に彼女と会ったのは、なんとかとかいう野外音楽フェスで、俺は兄とその友人たちに連れられてそこへ来たのだった。彼女はその友人のうちのひとりだった、その時点では彼女は兄の恋人ではなくもちろん俺の恋人でもなかった。兄と兄の友人たちと俺というよくわからんメンバー編成でフェスへ来たのは、当時の俺が高校生活をドロップアウトしてずっと部屋に閉じこもっていて(皮肉なことにいまも似たような生活スタイルだ)、ただぼんやりとうずくまり日々を過ごすなかで唯一興味を示したのがFMラジオから流れる音楽だった、兄は俺を狭い部屋から広い外へと連れ出そうとしたのである。昔から友人が多く、かつ友人は多いほうがいいと信じて疑っていなかった兄は俺を外へ連れ出す際、せっかくなら友人まあ知り合いレベルでもいいからそういう繋がりのある人間ができればいいだろう、たぶんそういう考えのもと自分の友人たちを巻き込んで俺のささやかな社会復帰を試みたのだった。それが間違いだった。兄はめちゃくちゃ後悔しているだろう。

 はじめは順調だった、俺でもそう思った。四ヶ月ぶりに浴びた陽の光に眩暈を覚えつつ、でも、ステージから離れていてもときおり吹く風が運んでくる音の振動はあまりにも心地よくて、そうだ、音って波だった、そんなことを考えながら芝生エリアに座り込んで俺はだいぶ人間のかたちを取り戻しつつあった。それを再びぶっ壊したのが彼女である。

「なーんか、はっぴーって感じだねえ」

 彼女は、俺の隣に座ってそう言った。そのとき、兄や他の友人たちはその場にいなくて——なんでだったかははっきり憶えてない、たぶんなんか食べるものを買いにいってたとかだったはず——だから、俺は彼女とふたりきりだった。いや、野外フェスなんだからとうぜん少し離れた位置に大勢の観客がいたんだけどそれはそれとして俺の認識として俺は彼女とふたりきりだった。

「はっぴー、ですか」

 鸚鵡返しの俺の問いに、彼女は、うん、と頷いた。

「カタカナのハッピーでも、英語でHAPPYでもなくて、ひらがなの、はっぴーって感じ」

 彼女は俺を見なかった。離れた位置で音を爆発させているステージを幸福そうに眺めていた。春先のフェスだった。四月の風は、陽を浴びて光る。

 俺もステージへと視線を向ける。関西出身の明るく弾けた、それでいてどうにも切実なロックバンドが鳴らす音楽は、その音が、うららかな春の空のもとに波及させたその効果は、ハッピーではなくHAPPYでもなく、間違いなく彼女の言うとおりに『はっぴー』だった。そう思ってしまった瞬間にたぶん、俺の終わりが確定した。彼女の言葉が俺の世界を定義した。

 じゃあね、また会おうね。規模のちいさい打ち上げ花火で締めくくられた音楽フェス、その帰り道、兄の他の友人たちと同じように、彼女は俺にそう言った。深い意味はないだろう、と思っていた。俺も特になにかを期待したわけじゃなかった。なにせ俺はといえば数時間前まで部屋の片隅から動けなかった生きもので、好きとか付き合いたいとかそういう感情を持つにはまだ出来上がっていない状態だった。だから、後日、兄と彼女が恋人同士になったと聞いても、ふうん、以外の言葉は浮かんでこなかった。そこから少しずつ、俺が十七歳男子としての欲求を取り戻してきたころに、彼女は兄を介して俺に近づいてきた。外堀を埋めてくるタイプの怪異だった。最悪だ。もちろん兄は彼女に捨てられた。俺もようやく手に入れた社会性をはじめとするいろんなものすべてを投げ出して、彼女の言葉に従うことになった。結果、二十一歳の俺は彼女の住むマンションから出られなくなり、そしていまラザニアの作り方を検索している。

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