Field 19

 ほんの数メートルがとても遠くに感じられる。濡れた服が身体にまとわりついて呪いのように重くのしかかる。

 すぐ近くでバシャバシャと水を叩きつける音──望月隊長が必死であがくブラッディドールを押さえつけている。


(急がなきゃ──)


 やっとの思いで倒れているエドモンドまでたどり着くのも安堵するには早かった。ここからが本番だ。

 私は咥えた注射器を手に取るとエドモンドの首筋に挿してプランジャーを押し込んだ──モルフィネがエドモンドの体内に注入される。


「エドモンド!! 立ってください!」


 反応が無いエドモンドの後ろから下腹を抱え込むように両腕を回し込み、そのまま勢いをつけて後ろに下がった──少しだがエドモンドの身体が動いた。同時に全身が痛みで悲鳴を上げる。

 モルヒネの効果が十分に出ていないのか、それともアクセラレーターの副反応が強すぎるのか最早わからない。


「よく頑張ったユイ。あとは任せろ──」


 私がエドモンドを引きずって十分離れたところで望月隊長が片腕を上げた。


 その手にはあの装置が握られている。


 隊長はそのまま殴りつけるようにブラッディドールの背中に装置を押し付けた。


 私が抉り取った箇所に隊長の手がのめり込む。


 耳を塞ぎたくなるほどの高周波音が辺りに響き渡る。

 

 同時に隊長とブラッディドールを覆うように半透明の膜が展開された。


「隊長──!!」


 こちらの声が届いていないのか隊長は反応しなかった。


 そこから先は想像を絶する光景が繰り広げられ、まるで虫メガネ越しに見ているかのように、ふたりの身体が上下に伸びたり縮んだりしている。


 ブラッディドールの背中から黒い球体が出現して隊長たちを覆い尽くす。それがブラックホールだということは一目瞭然だった。


 黒という言葉が適切かどうか迷うほどの漆黒──光を反射しておらず立体感は感じられない。

 真っ黒の正円に切り抜かれた垂れ幕を背景に、ブラッディドールの真っ赤なボディが痛々しいコントラストを作り出している。

 ゴムバンドのように激しく伸び縮みを繰り返していた身体が、急に動画を止めたかのように、全てが時を止めたかのように静止した。

 それは小さな、とても小さな火種が少しずつ紙屑を燃やしていくようなそんな光景だった。深淵に現れた始まりの燈かのようにゆらゆらと拙い輝きを放ちながら、ゆっくりと足元から隊長とブラッディドールの身体を灰にしていく。


(隊長──嫌だ……)


 声にならない感情が胸の内を駆け抜けた──さようならすら言えない別れが訪れようとしている。直視できない現実がそこにあった。


 最初に灰と化したのはうつ伏せに押さえつけられていたブラッディドールだった。


 真紅の赤が炎と混じり合い灰色の粉となって消えた。


 望月隊長も既に胸の高さまで炎が燻っている。


 もう助けられないし助からない。

 

 抗いようのない残酷な現実が私の心を締めつける。

 

 肩から首へと隊長の身体が少しずつ灰となってブラックホールの闇に消えていく。


 時間の流れが異なる二つの空間──こちら側では天井から降り注ぐ雨がさらに勢い増していた。


 隊長の口元が少しだけ笑ったように見えた。


 確信を持てないままそれも儚く塵となり闇に消える。


「望月隊長──!! ダメ!! 行かないで……」


 溜め込んでいた気持ちが溢れ出した。頬に叩きつける雨と溢れ出す涙で視界が霞んでいく。


 その先で、隊長がゆっくりとこちらに顔を傾けた──静止した空間で、通常なら既に死んでいるであろうこの状況で、なにがそうさせたのかは分からない。

 偶然か、はたまた隊長の強い意志か、消えゆく最後の魂が、動くはずの無いその肉体を突き動かしたのだろうか……。


 澄んだ灰色の瞳は真っ直ぐ私を見つめている。


 生きろ──隊長からそう言われている気がした。


 やがて全てが無に帰したとき、闇だけがそこに残った。


 ブラックホールが徐々に小さくなり、最後は黒い線を水平に走らせて閉じた。


 覆っていたシールドがガラスを破るように粉々に砕け散り、キラキラと宙を舞う破片が粉雪のように輝きながら消えていった。


 頬を濡らすのが自分の涙なのか、叩きつける雨なのかもうわからない。

 あの化け物を倒したのになんの喜びも湧いてこない。同時に隊長を──大切なひとの存在が消滅してしまった悲しみの方が遥かに大きかった。


「……ユイ──大丈夫ですか?」


 虫のような声でエドモンドが呟いた。


「エドモンド──!!」


 一気に現実へと引き戻される。


 「目の前のことに全力を尽くせ」隊長の言葉が脳裏をよぎった。

 私が今できることは悲しみに打ちひしがれることではなく、エドモンドと一緒にここを離脱することだ。


「動けますか? 私が肩を貸すのでここを出ましょう」


「ありがとうございます……。少し気を失っていました。望月隊長は……」


「隊長は……任務をやり遂げました」


「……そうですか。立派なひとです」


 私は唇を噛み締めた。本当に立派な最後だった。いつか私も隊長のようになれるだろうか。任務のために、誰かを守るため全てを守る覚悟を持つことができたらいつかは……。


「私につかまってください」


 エドモンドの脇に腕をまわしてゆっくりと立たせる。力が入らないのか一度よろめくも、なんとか体勢を維持することができた。


「ユイ、そういえば一点だけ少し気がかりなことが」


「あの無線のことですね」


「ええ。マイケルがなにを伝えたかったかは聞き取れませんでしたが用心しましょう」


 エドモンドから最後に受信した無線は途切れ途切れでよく聞き取れなかったが、なにか重要なことを伝えたかったはずだ。それに無線を送ってきたマイケルの安否が気がかりだった。


 非常用の懐中電灯をポケットから取り出そうと探しても見つからない。どうやら戦闘の最中に紛失してしまったようだ。

 私はエドモンドから手渡されたライトを借りて前方を照らした。薄暗い駐車場で、一瞬だが奥に停車している錆びついた車の陰でなにかが動いた気がした。


「今、なにか動きませんでしたか?」


「……いえ、何も見えませんでしたが」


 エドモンドが苦しそうに呻いた。私も彼も気力を保つのがやっとだ。何か見えたとしてもそれを確認する体力は残っていない。

 薄暗い駐車場を懐中電灯の光だけを頼りに進んでいく。足元の水はくるぶしを優に超え、脛の半分にまで達している。


「ユイ──望月隊長が繋いでくれた命です。なんとか生き残ってここを出ましょう」


「そうですね。なんとしてでも」


「地上に出て応援を呼びましょう。室井隊長たちの救助も要請しなくては……」


 希望を捨ててはいけない。

 私たちの行動で助けられる命がまだあるかもしれないのだ。私は全身の痛みに耐えながら自分を奮い立たせた。

 先に進もうとして急に肩が重くなる。エドモンドを支えていた左肩が重さに耐えきれずずり下がった。


「エドモンド?」


 エドモンドを見ると力が抜けてまるで抜け殻のようにぐったりしている。彼の脇を抱えるようにして地面に座らせる。懐中電灯で照らすと胸の辺りから血が流れ出ていた。


「エドモンド──!? 大丈夫ですか!?」


 エドモンドがゴボッと勢いよく吐血する。黒い血溜まりが水面に浮かび上がった。


「ユイ……気をつけて……ください……もう一体います……」


 もう一体とはどういう意味だろうか。私は状況が整理できず、ただ呆然とエドモンドを見つめる。先ほどから胸元の傷に手を当てて止血を試みているが血が止まる気配は無かった。このままでは彼の命が危ない。


「とにかく話さないでください──傷が開いてしまいます……」


 微かだが背後に気配を感じて身体が反応する。片手で止血を続けながらもう片方の手に懐中電灯を掴んで後ろを照らした。何もないように思えた瞬間、天井から大きな塊が降ってきて水飛沫を上げながら地面に落ちた。


「──!?」


 それはゆっくりと水面から立ち上がる。

 人かと思ったが、それが違うことを私の脳は即座に認識した。真紅色の身体は水がポタポタと滴り、嫌な光沢と滑りを帯びている。懐中電灯の灯にぼんやりと照らされたその姿はまさに地獄から蘇った悪魔そのものだった。


「ブラッディドール……なぜ」


 量産された別個体かと疑う。本部から複数体いるとの報告は受けていない。ふと、研究所で観たプラナリアの映像が脳裏を過ぎった──モニター越しに切り刻まれたプラナリアが分裂するあの映像だ。


(まさかそんな……)


 嫌な予感しかしなかった。そしてその予感は恐らくほぼ的中しているだろう。やつは自身を切り離して分裂したのだ。

 勝ち目がない……。そう悟ったとき、のっぺりとした顔面に一筋の亀裂を作り出してヤツは笑った。地獄の業火に焼かれる人間を見て笑う悪魔のように。


 スローモーションのようにゆっくりと鋭利な刃物と化した腕が持ち上げられる。


 ああ、このまま振り下ろされて私の命は終わるのだ。望月隊長が繋いでくれたこの命。それがこんな理不尽な結果で奪われるなんて……。

 生きる希望すら見出せず、私はただ自分の運命を呪った。


 頭上から高々と振り下ろされる刃をただ呆然と眺めるしかなかった。


 絶望に蝕まれた身体は蜘蛛の巣に囚われた羽虫のように動けずにいた。


 ここで終わるのだ──。


 思い残すことは山ほどあるようで、こんな絶望しかない世界ともこれでさようならだと思うと少しだけ救われた気持ちになる。


 それなのに、私の頬を伝う涙は生きたいという心の表れだった。


 もう身体は動かない。


 もう出来ることは全てやったのだ。このまま悪魔に首を狩られて終わるのが私の運命なのだろう。


 隊長ごめんなさい……。私もそっちに行きます。


 覚悟を決めて私はゆっくり目を閉じた。

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