Field 18

 穴の空いた天井から滝のような雨が降り注ぐ。

 

 目の前に全神経を集中させる。


 研ぎ澄まされた私の五感は、雨の一粒一粒が水面に落ちる音までも把握できた。


 背中越しに望月隊長の呼吸と温もりが伝わってくる。こんな状況で無ければきっと恥ずかしさで気が動転していたに違いない。


(──来た!!)


 闇の中で水面が微かに波打った。

 瞬きをする間も無く、鋭利な刃先が私の喉笛を掻き切ろうと迫ってきた──紙一重のところでかわし、相手の腕にナイフを突き立てる。金属を突き抜いたような硬い感触のあとに、刃先が深々と装甲の内側に食い込んだ。


「キエエエ──!!!!」奇声で鼓膜が破れそうだ。ヤツは素早い動きで私から離れると再び闇に溶け込んだ。


「ヒットアンドアウェイか。常套手段だが効果的だな。ユイ──」


「はい──」


 前方に注意を払いつつ、隊長の言葉に顔を少しだけ後ろに傾ける。


「次は俺を狙ってくるはずだ。誘い込んで捕まえる。お前はヤツの背後にまわって襲い掛かれ。今のお前ならそのナイフで背中に穴を開けられるはずだ。そこにこいつをぶち込む──」


 隊長は装置を手に口の端を軽く吊り上げた。彼はどんな時でも余裕で冷静だった。心強いけどその先を思うと胸が痛む。


「──!?」


 背中越しにヤツの気配を感じた。ただならない殺気に皮膚の表面がピリピリと粟立つ。


「来ます!!」


 頭に血が上ったのか、ブラッディドールは足音を消そうともせずに攻撃を仕掛けてきた。


「ユイ──周り込め!!」


 言葉と同時に私は背中を離れて時計回りに走り出す──隊長は串刺しにしようと突き出された相手の腕を脇に捉えていた。

 私はそのままの勢いで大きく回り込み、さらにスピードを上げてブラッディドールの背中に飛び掛かった。

 雨水が顔面に降り注ぎ視界が遮られるが構ってなどいられない──ナイフが深々と真紅の背中に突き刺さる。そのまま半円を描くように引き下げ、もう一度同じ要領で反対側に引き上げる。


「キエエエ──!!!!」


 ブラッディドールはなんとか逃れようと必死になってもがくも、隊長ががっつり腕をホールドしている。


 背中に出来た不恰好な円状の切り口に手を突っ込み、そのまま装甲ごと引き剥がした──と思ったが、手に力が入らない……。


 麻酔でも打たれたかのように全身の力が私の意図に反して抜けていく。


(アクセラレーターが切れた!?)


 時間切れだった。


 私は糸が切れたマリオネットのように膝から地面に崩れ落ちた──。


 姿勢を保てずに前のめりに倒れ込む。顔が水面に浸かり呼吸が出来ない。


 大量の水が口から胃へと流れ込んでくる。


(早く顔を起こさないと──)


 最後の力を振り絞ってなんとか顔を横に向ける。水面ギリギリのところで呼吸を確保したと同時に激しく咳き込んだ。

 視線の先では隊長とブラッディドールが死闘を繰り広げていた。私を巻き込まないように隊長はあえて場所を少しずらしたようだ。


 ブラッディドールの激しい攻撃を隊長はナイフで受け止めているが、リーチの差が徐々に隊長を追い込みつつある。

 短いナイフでは相手の懐に入ったほうが有利だが、それを知ってかブラッディドールも最適な間合いを維持しつつ立ち回っている。


 彼らから少し離れた場所で横たわるエドモンドが見えた。気を失っているのかピクリとも動かない。仰向けなので呼吸は確保されているが、このまま雨が降り続けて水かさが増したら危険だ。

 なんとか彼の元に辿り着きたいが、私の身体はいうことを聞いてくれない。それどころか、全身を鉄の棒で袋叩きにされるような激痛で今にも気を失いそうだった。


(あと少しだったのに……)


 悔しさと痛みで涙が出そうになる。グッと歯を食いしばりなんとか耐え抜く。


(隊長……)


 私には隊長を見守ることしかできなかった。天井から降り注ぐ雨は激しさを増し、容赦なく私の頬を殴りつける。


 一手ごとに隊長の動きが鈍くなっているのがわかった。室井隊長もアリーシャもやられて、隊長はひとりで戦っていたのだ、体力の限界が近づいていてもおかしくない。


 均衡が崩れるまでそう時間は掛からなかった。

 高速の刃が隊長の身体を切り刻んでいく──振り回したナイフが空回りし、隊長はそのまま糸が切れたように両膝を地面に着けた。

 その姿を見て、ブラッディドールが不気味な笑みを浮かべた。


 楽しんでいる──。


 猛獣が小動物を痛ぶるように……。背筋が凍るほどの恐怖心が私を蝕んでいく。

 

 真紅の悪魔は隊長に近づくと右腕を振り上げた──。


 まるで死神が消えゆく魂を刈り取るかのように。


 隊長は顔を伏せて沈黙している。反撃する様子はなかった。


「ダメ──!!」


 誰にも届かない声がむなしくこだまする。振り下ろされる腕を私は見つめることしかできなかった──。


 ドンッ──!!


 刀身が隊長の首元に迫った刹那──銃声が鳴り響いた。


「キエエエーーーー!!!!」


 ブラッディドールが左目を押さえて苦痛の声を上げる。


 その先に、仰向けのまま拳銃を構えたエドモンドの姿があった──。

 

 彼はあの深傷で意識を保ちつつ反撃の機会を伺っていたのだ。タフな精神力と忍耐力が無ければ到底無理だろう。


「道は作りましたよ……」


「ナイスだエドモンド──!!」


 エドモンドの腕が弱々しく地面に落ちるのと隊長がぐっと顔を上げる瞬間が重なった──。


 隊長がそのまま自分の首元にアクセラレーターを打ち込む。


「うおおおおおーーーー!!!!!!」


 天に高く突き上げるような咆哮──隊長を中心に水面が波紋状に波打つ。

 隊長はゆっくりと立ち上がると片手でブラッディドールの喉元を掴んで持ち上げた。バキバキという音を立てて相手の喉仏が潰される。


「グギギ──!!!!」


 ヤツは不死身だが痛みは人並みに感じるようだ。それは今までの戦闘からしても明らかだった。

 隊長は空いているもう片方の手で拳を作ると力任せに相手の顔面を強打した。

 装甲の破片が飛び散り拳が頬にめり込む。何度も何度も打ち込まれる拳の嵐に、のっぺりとしていたブラッディドールの顔が無惨なまでに歪んでいく。


 凄まじい力だった──私の比ではないほどに、隊長のそれは人の領域を超えていた。


 ヤツは震える腕をなんとか持ち上げて振り下ろそうと試みるも、隊長は相手の身体をさらに持ち上げてそのまま勢いよく地面に叩きつけた。


 爆弾が炸裂したかのような轟音と衝撃波で地面が揺れる──。


 舞い上がった水しぶきは天井にぶつかり激しく飛び散った。


 隊長はそのままブラッディドールの身体をひっくり返し背中に馬乗りになった。左手には小型ブラックホール発生装置が握られている。


「ユイ──!! もし動けるならエドモンドを連れて離れろ!!」


 私はエドモンドのほうに視線を向けた。ブラックホールの範囲がどの程度かはわからないが、そこまで広範囲ではないはずだ。

 隊長と少し距離があるが、エドモンドは巻き込まれないかねないところにいる。


(動け私の身体──!!)


 歯を食いしばり起きあがろうとするも、全身に激痛が走り、また無様に地面に転がる。


(クソッ──!!)


 痛みともどかしさで気がおかしくなりそうだった。隊長はなんとかブラッディドールを押さえ込んでいるが、アクセラレーターが切れるのも時間の問題だ。

 そうしたら……。


 ふと、何かが顔に当たった。それは白い小さな箱だった。蓋には筆記体で『morfine』と書かれている。きっとエドモンドのバックパックからこぼれ落ちたものに違いない。


 私は全力を振り絞って箱の蓋を開けた──透明な液体が入った小瓶と注射器が二本収まっている。

 気休め程度にしかならないだろうが、今は少し動けるようになるならなんだっていい。注射針を小瓶の蓋に挿して液体を吸い出し、躊躇なく首筋に刺した。

 

 プラシーボ効果に過ぎないだろうが、気持ち程度に痛みが引いた気がした。


「うおおおおーーーー!!!!」


 気合いを入れて立ち上がる。


 ガクガクと震える膝を叩いて、「動け!!」と言うことを聞かせる。


 なんとか踏み出したその一歩は歩き始めた子鹿のように弱々しく拙い。

 

 箱から最後の注射器を取り出して小瓶に挿す。

 

 箱を放り捨てて注射器を口に咥えた。


 エドモンドを目掛けて直進する。


 隊長はなんとかブラッディドールを押さえ込んでいるようだ。アクセラレーターが切れないことを祈るしかない。


 叩きつける雨の音がデスマーチのように響く中で、私は前を睨みつけてただひたすら前に進んだ。

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