第4話 アクシデント
耳慣れたアラームで目覚めると予想したとおりの光景が目に入った。
ひびきは前日と同じように右手で逆立ちした格好のままベッドの上に浮いていた。
だがもうこれくらいでパニックになることはない。なにごともなかったように反転して足から降り立つ。意識しなくても簡単だった。昨夜いろいろと練習したおかげだ。
ただし毎朝このくり返しとなるといささか考えものである。
乙女が逆さまにぷかぷか浮かんで高いびきというのは(いびきについては定かではないが)あまり見栄えのよろしいものではない。年ごろの女の子としてはもう少し品のよい寝相があってしかるべきだ。この点についてはなにか考えなくてはと思った。
今朝はなにごともなく姿を見せたひびきに誠は素知らぬ顔だった。
本当は姉をからかうネタがなくてがっかりしているに違いない。
ふふん残念でした、などと考える余裕が今のひびきにはあった。昨夜の特訓のおかげであの奇妙な力をなんとか制御できそうな気がしていたからだ。
久々に姉の威厳を保ったままひびきは胸を張って「行ってきます」と家を出た。
ところがだ——。
玄関を一歩出たとたん、彼女のささやかな自信はもろくも崩れ去ったのである。
いっ、と妙な声が自分の喉からもれるのが聞こえた。一瞬目が回りそうになって思わず足が止まる。まるで立ちくらみでもしたような感じだった。
原因は外の景色にあった。見上げた空の感覚が昨日までとはまるで違っていたのである。
足下が急に頼りなく感じられ、あの空の高みに向かって「落っこちていく」という錯覚でめまいがしそうだった。昨日まで平気だったながめがいきなりこわくなってしまったのだ。
なぜそんなことになったのかわからない。
だがもしここでうかつに飛び上がったりしたら——そう考えるとじっとりと脇の下に汗がにじんでくるような気がした。
うわーどうしよ、とかなり焦った。
理由は不明だが、高さに関係なく高所を連想させるイメージそのものを今までよりずっとリアルに感じているような気がした。空までの広大な距離感が高さとして伝わってくるのだ。昨夜の経験となにか関係があるのかもしれない。
が、このまま玄関先でへたっているわけにもいかない。
とりあえず深呼吸してなるべく上を見ないようにしようと決めた。最近ため息と深呼吸ばっかりだなあと頭の隅で嘆きながら学校へと歩き出す。
慎重第一、時間は二の次だ。たとえ遅刻しそうになってもかまわない。この状況だと跳んだり走ったりだけではなく「急ごう」という心の動きが引き金になることも十分あり得るからだ。
常に冷静沈着というのは間違っても天野ひびきのキャラクターではないのだが、今はそう心がけるしかない。
一歩一歩足下を確かめるようにして歩いた。
踏切を渡りまだシャッターの降りた商店街のアーケードを抜けたところで交差点を右に曲がる。そこから学校までは一直線で、ゆっくり歩いても三分というところだ。
このあたりになると登校する生徒たちの姿も目立つ。ひびきとしてはますます神経をつかう地点である。自転車やバイク、トラックまで混じって道はかなり混雑している。
やっぱりこれは疲れるなあと思った。
これまではなにも考えずに駆け足で学校に飛び込んでいた。すれ違う車や自転車をよけて軽く跳び退いたりすることも珍しくなかった。よくまあ今まで無事に済んでいたものだ。
もう絶対にそんな危ない真似はできないと思った。
ひびきはゆっくりゆっくりと心の中でつぶやきながら慎重に足を進めた。なにがあっても落ち着いて、とそればかりを考えていた。
だからその肩を誰かがぽんとたたいた時には思わず「ひゃうっ」と妙な悲鳴が飛び出した。
「なによー、そんなにびっくりするほどお姉さんの顔が珍しいの?」
ふり返るとなぎさの不敵な笑顔が目の前にあった。
「ああ、なんだもう、おどかさないでよ」
「なんだじゃないよ。ひびき、あんたいつもこんなにのんびり歩いてんの? どうりで毎朝ぎりぎりになるわけだ」
なぎさはあきれたようにそう言ったが、ひびきの方は飛び上がるほど驚いたせいで笑顔が引きつっている。
「こんなにお天気なのに足下水たまりだらけって感じだったよ。校門くぐってから走るくらいならもっとちゃっちゃっと歩きゃいいのに。やっぱあんたとろいんだ」
「大きなお世話、今日だって余裕で間に合ったでしょ」
「ふふん、あんたが三日も続けて楽々セーフってのは確かに珍しいねー、せっかくの週末も雨か、残念」
「あ、またばかにして!」
にひひと笑ったなぎさの笑顔には確かに惹かれる。
活力に満ちていてこちらまで元気になれる気がする。相手がなぎさだとひびきも遠慮なく突っ込めるし、甘えてもやり合っても楽しい。一緒にいていちばんリラックスできる相手であることは確かだ。
「ほれ、急ぐよ」
そう言ってなぎさはひびきの右手をとった。引っ張られている分にはまあ大丈夫だろうとひびきも少し足を早めた。今日は金曜日、不可解な出来事に振り回された一週間もようやく終わる——はずだった。
※※※
最初に異変に気がついたのはなぎさと並んで校舎の階段を上っている時だ。
ふと足下に違和感を覚えてひびきは立ち止まった。
確かに踏んでいるはずなのに階段の感触が妙に薄い気がするのだ。プールの中を歩く時のような頼りなさである。まるで体重が半分になったような感じだった。
そう思ったとたん、ある可能性に気がついてはっとなった。
まさかこんなところでスイッチが入ってしまったのだろうか。慎重に慎重にと気をつけていたはずなのにどうして。
「ん、どしたの?」
階段の途中で急に立ち止まったひびきをなぎさは怪訝そうにふり返った。
「え? あ、なんでもない」
「じゃ急いで、ほら」
実はこんな場所でもひびきの高所恐怖症は生きている。それを知っているなぎさはさっと親友の手をとってかまわず階段を上っていった。高さやこわさに心がとらわれる前に動いてしまう方がいいとわかっているのだ。
だが足下を気にしていたひびきはそこではっきり異状に気がついた。
明らかに自分の体が軽くなっているのだ。さっきまではもう少しまともに踏んでいる感触があったのに今はつま先だけが触れているような感じだった。理由はわからないが体が勝手に浮かびかけている。
うわ、まずい! 思わず声が出そうになった。
こんなところでふわふわと浮かんでしまったらとんでもない騒ぎになってしまう。
「ちょっ、なぎさ待って、そんなに引っぱらないで」
二階の廊下に出てもぐいぐいとひびきを引っぱって歩いていたなぎさはそこでようやく立ち止まった。
「よけいなこと考えるからいけないんだ」
ひびきの混乱をよそになぎさはきっぱり断定した。
「なにかをこわがる人ってたいていそのことばっか考えてるからね、そんなヒマ与えないのも親友の心づかいってもんよ」
「そ、それはありがたいんだけど……」
確かにひびきは階段の上り下りでも時にひやりとすることがある。だがさっきはそんなことを気にしていたのではなかった。無関係ではないが、彼女をとらえていたのは別のパニックである。
これは急いでなんとかしなければと思った。
切替えの早いなぎさは並んで歩きながらもういつものようにあれこれと話しかけてくる。しかしその親友の次のひと言には心臓が跳ね上がりそうになった。
「なんかさっきずいぶん軽い感じがしたな。ひびき、あんた最近ダイエットとかしてる?」
「え? 別に……」
「そう、いいよねーあんたは。あたしなんかここんとこ食べ過ぎちゃって」
ちょっとお肉がさ、と言いながらなぎさの手は無造作にひびきのお尻をつかんだ。これは自分のものだと確信しているのでなんのためらいもない。
内心なぎさの指摘にどきどきしていたひびきはこの不意打ちにまた「ふぎっ」と妙な悲鳴を上げた。危うくもう少しで飛び上がるところだった。
「こ、この変態!」
すれ違った女子たちが声を上げて笑っていた。なぎさは伸びてくるひびきの手をかわすと陽気に教室へ逃げ込んだ。
※※※
授業が始まると内心ほっとした。
少なくとも机にへばりついていられる安心感がある。ただし頭の方は授業どころではない。教科書に向かっていても上の空で、この困った事態をどうするか、それ以外のことを考えている余裕はなかった。
あれほど浮かばないように念じていたはずなのにどうしてこんなことになってしまったのだろう。
昨夜試した範囲ではあの力はひびきの意志でオンとオフを切り替えることができた。不用意なイメージで浮かびそうになることはあってもしっかり「オフ」と意識していれば大丈夫のはずだった。
とすると、さっきは自分でも気づかないうちになにかしらスイッチを入れるようなことを考えたのだろうか。
そう思って心の中を探ってみたがそれらしい記憶はない。階段といってもひとつ上の階に上るだけである。自分はその程度でしんどいと思うほど太ってもいないし運動不足でもないから「楽に上りたい」と考えたはずはない。
それとも膝にかかるわずかな負荷に無意識に反応したのだろうか。
たとえば電動自転車の「らくらくモード」のようにだ。
今こうして座っているとお尻にかかる体重は普段と同じくらいに感じる。これは「ノーマルモード」に復帰したということだろうか。
あの力がなにげない心の動きに反応するらしいことはなんとなくわかる。
それでもその決定権は自分のものでなければならない。さもなければ危なっかしくてとても外は歩けないからだ。
ここはひとつ、より慎重に動かなければと思った。あまり建設的とは言えない結論だが今はしかたがない。
帰宅するまではじっとしているのがベストだ。四時限目に体育の授業、それもよりによってバスケットボールの対抗戦が入っていたが、むろん最初から見学に回るつもりだった。今の状況でそんな危ない真似など論外だ。
もし体育館の天井まで飛び上がってしまったら。
その恐怖は想像を絶するだろう。そこで落下するようなことになったら間違いなく命にかかわる。ひびきはそのシーンを想像しただけで震え上がってしまった。
今日はサボり! 絶対サボり!内心ぶるぶると首を振る思いである。だが同時にこうも考えた。
今日はそれでいいけど次はどうするの? その次は?
運動神経優秀な天野ひびきが体育を見学ばかりではすぐにおかしいと思われるに違いない。といって今のままではとても人前でスポーツなどできない。ではどうすれば?
お手上げだった。
そもそもこれはれっきとした超常現象であり、ただの中学生にすぎないひびきには荷が重すぎる事態なのだ。頭の中はさっきから堂々めぐりでちっとも先へ進まない。しかも——。
悩めるひびきをさらに鞭打つかのように新たな異変が待っていた。
それは問題の体育の時間中の出来事だった。
「ええー、休むのー?」
「そんなあ、助けてよお」
ひびきが今日は見学だと告げるとなぎさたちは盛大に嘆いた。貴重な戦力としておおいにあてにされていたからだ。
前回の対抗戦ではミサとひびきがスピードを活かして大活躍し、隣のクラスに大差で快勝していた。それだけにひびきのリタイアは大幅な戦力ダウンである。有力なポイントゲッターを一人欠いたため試合の方は白熱した接戦になった。
壁際に立ってなぎさたちの奮闘を応援しながら、ひびきはそっと胸をなで下ろす心境だった。
ダッシュにフェイント、切り返してシュート。
やはりサボって正解だった。この激しい動きは今の自分には自殺行為だ。どの一瞬でも簡単にスイッチが入ってしまうだろう。たとえ変に思われようと当面はおとなしくしている以外に手はない。
しばらく体育に参加しなくて済むいい口実を考えなくてはと思った。
その時である。
先に試合を終えた男子たちもコートの周りで声援を送っていた。熱心に応援しながら傍らの友人たちと口々になにごとか話している。
ふとその言葉が「見える」ことにひびきは気がついたのである。
いや、見えるというより「読める」といった方がいいかもしれない。
最初は目の錯覚かと思ったがそうではなかった。その口元に意識を向けただけで彼らがなにを話しているかわかってしまうのだ。周囲の歓声にまぎれて個々の話し声など聞き取れないはずなのに、口の動きで話している内容が伝わってくる。
あまりにも自然に読み取れるので最初ひびき自身も違和感を覚えなかったほどだ。気がついた時は驚くよりむしろ呆気にとられてしまった。
(なに、今の……)
とまどう心をさっとかすめたのは先日の校庭での記憶だった。
遠くにいる梨香たちの声がふいに聞こえたような気がしたあの時のことである。気のせいだと思って深く考えもしなかったが、そういえばあの時も直接声が聞こえたのではなく唇の動きで話の内容がわかってしまう感じだった。
しかもずいぶん距離が離れていたのに彼女たちが目の前に立っているように見えた。
あの時のあれは錯覚ではなかったのだろうか。
混乱するひびきがそう思ったとたん、まるで彼女の内心の声が聞こえていたかのように「それ」は起こった。
今日は梨香も普段の不仲を忘れたようになぎさたちと同じチームで走り回っていたのだが、その顔がいきなり目の前に大写しになったのである。
ひびきが普通に見ている光景に拡大された映像が二重写しのように重なって見えている。
(うそっ! なによこれ、どうなってるの?)
自分の目がどうかしてしまったのかと思った。
試合は終盤でますますヒートアップしていたが、愕然と立ち尽くすひびきにはそれどころではない。もしかしてあの変な現象の副作用? そんないやな想像が頭の隅をよぎってぞくりとした。
あのせいでなにか体に変調を来してしまったのだとしたら。
「そ、そんなのって!」
やだっ、としゃがみ込んで両手で顔を覆ってしまう。するとそれまで見えていた「拡大画像」がふっと視界から消えた。おそるおそる目を開けてみるとなぎさたちの熱戦がごく普通に見えてほっとする。
だが反射的に視線が梨香に向いたとたん、再び彼女の顔が目の前に拡大された。思わず「なんで!」と拒むと即座に正常な視界が戻ってくる。
あっと思った。なにか心に閃くものがあったのだ。
ぱちぱちとまばたきしながらひびきは「まさか、まさか」と胸の中でくり返していた。
視線をコートの反対側にいる別の生徒の顔に向けると今度は意識して「大きく」とつぶやいてみる。
次の瞬間、その男子生徒の顔が拡大されて目の前に浮かんでいた。
隣の男子と楽しげにしゃべっているが、にぎやかな声援にかき消されてここまでは聞こえない。なのにひびきの目には彼らの言葉がまるで半透明のテロップのようにオーバーラップして見えた——見えたと思った。
(うしっ、これで同点だ、あとひと息!)
(いける、逆転できるぞ)
(ああ、今日はうちがもらいっ)
やはり思ったとおりだ。この不思議な視力はひびきの意志したとおりに現れたり消えたりしていた。わずかに意識を集中した時だけ彼らの姿は拡大され、唇の動きが読めるのである。
直感的にこれはあの浮かぶ力のように危険なものではないと思った。それでも魔法みたいで便利、などと喜ぶ気にはなれなかった。
ひびきにとっては自分がどんどんわけのわからないものに変わっていく不安の方がはるかに大きかったからだ。
※※※
お昼はまた校庭でランチにしたものの、あれこれと考え込んでいたひびきはなにを話したかろくに覚えていない。
「ちょっとひびき、あんたもしかしてほんとにどっかおかしくない? てっきり体育はサボりだと思ってたけど」
「え、そんなことは……」
だが、ひびきのことならお尻のほくろの位置まで知り尽くしている(と本人は豪語する)なぎさには親友の変調ぶりは一目瞭然のようだった。
「そういや朝からちょっとヘンだったね、具合悪いの?」
「ごめん、そんなことないよ。でもちょっとぼーっとしてるっていうか」
「うーん、今週はどたばたしてたからね、ちゃんと眠れてる?」
ひびきの顔をのぞき込むようにして尋ねるなぎさの表情にはいくらか本気で心配している色がある。そういったあたり、この少女は実に敏感で繊細なのだ。ひびきをもてあそんでいい時とそうでない時をきっちり見分ける目を持っている。
「うん、それは大丈夫。もう週末だしね」
「ならいい。じゃあ今日は一緒に帰ろ」
そんなやりとりがあったのをぼんやり覚えているだけだ。授業の方は午前中にもまして身が入らない。考えることが多すぎて居眠りこそしないものの、心は別のところに飛んでいた。
今、自分の身にはなにが起こっているのだろう。
望みもしない力で体は勝手に浮かび上がりそうになる。それだけでもたいへんなのに今度は目の方までおかしな見え方をするようになってしまった。
もちろん、こんな力ありがたくもなんともない。なのに……。
窓際の梨香の少し不機嫌そうな横顔。そのさらに向こう、校庭の隅に小さな人影がふたつ見えた。
ほんのわずか意識を集中しただけでその姿がぐっと引き寄せられ、表情や服装の細かな部分まではっきりとわかる。一人は三年生を受け持っている中年の英語教師、もう一人は今年異動してきた若い数学教師だった。
今のひびきには歩きながら話している彼らの会話の内容まで「見えて」しまう。
(先輩、今夜はどっかで一杯どうです)
(おう、久しぶりにくり出すか。そっちはレポートとかいいのか? 今朝教頭がなんか言ってたみたいだが)
(あれは来週までに出しゃいいんです。どうせ形だけですからね、あんなのいくら出したってムダなのに)
(ま、そこが大人の事情ってやつさ。お前さんにもいずれわかる)
(そうですかねー、あんまりわかりたくないような気も)
二人は笑って「先輩」と呼ばれた英語教師が肩をすくめてみせた。立ち聞きして楽しい話でもないのでひびきは目の前の退屈な授業に視線を戻した。
唇の動きを読む「読唇術」という技術が実際に存在することは知っていた。だがもちろんひびきにはそんな高度な技術や知識はない。それなのにごく自然に読めてしまうのはなんとも不思議な感覚だった。
どうしてそんなことが急にできるようになったのかは何度考えても謎だ。
ただ事態は思っていたよりずっとめんどうなことになりつつある。すでに自分の手には負えない状況だ。相談したとしてなぎさはこんな突拍子もない話を受け入れてくれるだろうか。
わからないことが多すぎて頭の痛い週末になりそうだった。
※※※
「やっぱりヘンだよ、絶対ヘン」
なぎさはいささか不審げな顔だった。放課後、帰り支度を始めたひびきの隣にやってくるといきなりそう切り出した。
「ほんとに具合悪いとかじゃないの? 熱はない?」
「ありがと、でも大丈夫だから。ちょっと考えごとしてただけ」
なぎさはまだ少し疑わしそうな目をしていたが、週末だしこの子もゆっくり過ごせば復調するだろう、とでも考えているようだった。おそらく授業中からひびきの様子が微妙におかしいことに気がついていたのだ。
「それならいいけど、ま、今日は夜更かししないでおとなしく寝るんだね。なんかくたびれてるみたいだから」
そうは言ったものの、なぎさはひびきの足下や表情をさりげなく見守っているようだった。この相棒はパワフルなキャラクターでありながらそうしたこまやかな気づかいもできる少女なのだ。
「うん、そうする。なぎさやさしいね」
ひびきがとびきりの笑顔で見つめるとさすがのなぎさも照れたように付け加えた。
「まああんたはあたしの一番のオモチャだからね、メンテナンスはユーザーの務めってもんよ」
「そっか、なぎさはあたしのユーザーか」
ひどい言いぐさだがなぜか心安まるものを感じた。あはは、と笑うなぎさの顔を見ていると少し肩の力が抜けた気がして楽になった。
相手がひびきの時だけなのかもしれないが、なぎさはいざとなるととことん面倒見がいい。いっそこのまま打ち明けてしまおうかと考えると「それもいいかも」と心の中でささやく声がした。どうせいずれは相談するつもりでいたのだ。
並んで校門を出るころにはもうなにをどう話そうかと考えていた。
順序立てて説明するのは苦手だが、自分かなぎさの部屋で二人きりなら「実演」してみせることもできる。懐の深いこの親友なら常識外れの怪現象もこわがらずに受け入れてくれるかもしれない。
今は素直にそう甘えたい気持ちだった。
商店街のアーケードを抜けたところで思いきって言ってみた。
「ねえ、なぎさ、ちょっと時間あるかな。うち寄ってかない? 話があるんだけど」
するとなぎさはさも喜ばしいという顔でにんまりと笑ってみせた。
「ふふ、感心感心、やっとその気になったか」
「え?」
「なんか一人で考え込んでるカンジだったからね。確かにあんたはすまして座ってるととてつもない美少女だけどもの思いにふけるってキャラは似合わないよ」
「うう、なんか微妙な言い回しだ、それ」
やっぱりなぎさは気にしてくれてたんだと思うと決心がついた。見かけによらずデリカシーのあるこの悪友はひびきの方から切り出すまではあえて無理強いしないでいてくれたのだ。
「ま、悩みごとならこのなぎさお姉さんにまかせておきなさい、アタシは頼りになるぞ」
「そのつもりだけど……驚かないでよね、とんでもない話だから」
いたずらっぽい目でそう言ってみるとなぎさはすこぶるご機嫌だった。目の前のきれいな少女が自分をあてにしてくれていることがうれしいのだ。がばっとひびきの右腕をとってそのまま二人して歩き出す。
踏切を渡ると道はにぎわいを増した。この一帯は商業地区、文教地区、住宅街がごちゃまぜで駅前の繁華街にも近い。歩道の代わりにラインが引かれているだけのさして広くもない道を車やバイク、自転車や歩行者がひっきりなしに行き来している。
むろん、今のひびきはことさら注意を払いながら歩いていた。なぎさと楽しくやり合いながらも車の往来には気をつけていたが、それでも一寸先が見えないのが人間である。
アクシデントは常に唐突にやってくるものなのだ。
お菓子でも買って帰ろうということになってひびきたちは少し先に見えているベーカリーに向かっていた。
店までもう五十メートルというところで、二人は前方から走ってくる軽自動車が少し近いところをすれ違いそうだと感じた。
道路の端に寄ってやり過ごそうとした時、後ろから勢いよく走ってきた自転車が二人を追い抜いたかと思うと軽自動車の前に飛び出した。車の横をすり抜けられると判断したのだろう。
ところが軽のドライバーはきわどい離合に自信がなかったのかハンドルを道路中央側へと切った。そこで対向車線をはみ出し気味に走ってきたバイクと対面する形になり、あわててハンドルを切り直した。
これがまずかった。
結果としてその軽自動車は道路の端に立つひびきとなぎさをめがけて斜めに突っ込んでくることになったのだ。
急ブレーキの嫌な音を呆気にとられて聞いていた二人にはよける暇さえなかった。
※※※
ガラスの割れる派手な音が響いて営業中の写真館のウインドウが粉々に砕け散った。
短い間クラクションが鳴り響き、付近の人々が騒然となる。
突っ込んだ軽自動車はボンネットがだいぶ変形していたものの、たいしてスピードが出ていなかったせいか激突というほどの損傷はなかったようだ。青ざめた顔のドライバーも無傷で降りてきたが、目の前の惨状と大勢の人々の視線に絶句していた。
店の中からあわてて飛び出してきたのは店主とおぼしき初老の男性だったが、こちらも唖然とした顔だった。どうやら客はいなかったようだが店先の被害は甚大である。
そのすぐ脇では道端に座り込んだなぎさがやはり呆然としていた。
実にきわどいタイミングだった。車はなぎさのすぐ横をかすめるように通り過ぎ、彼女自身も入ったことのある写真館の玄関に鼻先を突っ込んでいた。
さすがのなぎさもフリーズして一時的に呆けていた。
危なかった、と思うだけでそれ以上ものが考えられない。今までこんなふうにひやりとした経験がなかったわけではないが、今のはとびきり危なかった。もう少しで直撃だったと思うと足下に力が入らない。
「おい君、大丈夫か!」
呆然としたままの軽のドライバーに代わって野次馬の中の誰かが声をかけてくれてもすぐには答えられない。頭がまだ正常に働き出していないのだ。
その声にのろのろと振り向いたなぎさはふと自分の手が空なのに気がついた。最初それのどこが気になるのかわからなかったが、次の瞬間、ぱちんとはじける勢いで正気に戻った。
蒼白な顔で親友の名を呼んだ。
「ひびきっ!」
さっきまで腕を組むようにして自分の左手でつかまえていた少女の姿がなかった。
愕然としながら左右に目を走らせる。今になってひびきがとっさに自分を突き飛ばしてくれたことに気がついた。おかげで軽自動車はなぎさが立っていたまさにその場所を通過したにもかかわらず彼女はこうして難を逃れることができたのだ。
ひびきの姿が見えないことに動転したなぎさは焦って周囲を見回した。
「ひびきっ、どこなのっ!」
どうしよう、もし車に引っかけられたとしたら……。
考えたくもなかった。それでも写真館の店先に突っ込んだ軽の向こう側へと走り込む。一瞬最悪の想像が心をよぎったが、そこにもひびきの姿はなかった。
(いない、じゃあ……)
おそるおそる車の下や写真館の砕けたウインドウの奥をのぞいてみてもやはり親友の姿はない。散乱したガラスの破片こそ派手だったが人が倒れているような形跡はまったくなかった。
なぎさは困惑した。きょろきょろと周囲を見回してもひびきの姿がどこにも見えないのだ。そんなはずはないのに彼女の無二の親友は忽然と姿を消していた。
「ひびき……」
なにがどうなったのかわからない。
なぎさはこの少女らしくもなくしばらくその場に立ち尽くしたままだった。
※※※
おかしなことになった。
いきなり親友の姿を見失ったなぎさはもちろん、事故処理に駆けつけた二人の警察官も被害者らしき人物が消えたと言われて首をひねっていた。
一緒に歩いていたという少女の訴えは無視できないが、現場にはそれらしい痕跡がまるで見当たらないのだ。むろん血痕などどこにもない。人身事故を疑わせるものはなにひとつ残っていなかった。
肝心の軽自動車のドライバーの証言もあやふやだった。思わぬ事故に動転していたのだろう、突っ込む先に制服の女子生徒の姿を見たことは覚えているものの、それが一人だったか二人だったかと問われると首を振るばかりである。
野次馬の中にいた何人かの目撃者もその点をはっきり証言することができなかった。女の子が二人いたようでもあるし一人だったような気もする、というあいまいさだ。
事故の知らせに仕事場からあわてて飛んできた恵美も困惑していた。
「ほんとです、あたしたち二人で腕組んで歩いてたんですよ、車が突っ込んできた時ひびきがとっさにあたしを突き飛ばしてくれて、それであたしは無事だったんです。でも気がついたらあの子どこにもいなくて……もうなにがなんだか」
小学生のころから知っている気丈な少女が見たこともないほど落ち込んでいた。娘にとってこの子がそうであるように、この子にとってもひびきは姉妹同然のかけがえのない存在なのだ。
「なぎさちゃん、落ち着いて。まだひびきが事故に遭ったとは限らないでしょ」
「でも……」
なぎさはまだ青ざめていたが、事故処理に当たる警官たちはこれが人身事故ではないと判断したようだ。それらしい形跡はなにもないと恵美たちに告げ、お嬢さんはこわくなって思わずこの場を立ち去ってしまったのかもしれない——そう言ってなだめようとした。
恵美も不安を抱えつつそうであってほしいと思っていた。
警官たちの言い分は妥当な意見のようでいて実は苦しい言い訳である。中学生がそのような幼い反応をするとは考えにくいからだ。なぎさもあからさまに「そんなことあるわけないでしょ」という顔をしていた。
だが、恵美にはそうとも言い切れない心当たりがひとつあった。
ひびきの場合、それはあり得ることかもしれない——なぎさをなだめながら結局引き下がることにしたのはその思いがあったからだ。
恵美は警官たちに万一の連絡先を伝えて事故現場を後にした。
「いいんですか、おばさん。あれじゃ……」
「少なくともあそこでけが人が出ていないことだけは確かだと思うわ。あの人たちもそういうことにかけては専門家だし」
「じゃやっぱりひびきはどっかそのへんをほっつき歩いてるって言うんですか? あたしにはちょっと言い訳じみて聞こえましたけど」
警官たちの言葉はいまだになぎさには不満なようだった。恵美にもその気持ちは痛いほどよくわかったが、このままではらちがあかないことも事実だ。
事故からすでに一時間あまり、何度か娘の携帯電話にかけてみても応答はなかった。
警官たちがいまひとつ真剣に取りあってくれない以上、今は自分たちで娘の行方にめどをつけなければならない。
「なぎさちゃんはあの子の父親が車の事故で亡くなったことは知ってるわよね」
いささか唐突だったがなぎさはそれだけでなにか察するものがあったらしい。はっとして恵美の顔を見つめると小さくうなずいた。
「あたしと知りあってすぐのころでしたよね、でもあのことはなるべく聞かないようにしてたから詳しいことはなにも」
「事故の時、車にはあの子も……ひびきも一緒に乗ってたの。近くのお店にちょっと買い物に出ただけだったんだけど、あの子は父親が大好きだったから助手席に乗り込んでついていったのね。そうしたら」
「……」
「幸いあの子は無傷で助かったけどしばらくはうなされたり急に泣き出したりしてたいへんだったわ」
言葉にするとたちまちあの苦い日々がよみがえってくる。
あの痛手から自分も娘も、そして幼かった息子もよく立ち直ったものだと思う。
「じゃあ……」
当時のひびきの落ち込みぶりを知っている少女も深刻な顔になっていた。
「あの時の記憶があの子にとってどのくらい重い傷になっているか、正直わたしにもよくわからないの。今はあのとおり明るい子だしね。でも交通事故というものに対して普通の人よりナーバスに反応しても不思議じゃないと思うわ。わたしのことはいつの間にかお母さんと呼ぶようになったのに父親のことは今でもパパだから……」
そのひびきがきわどい事故の当事者になったとすると、あるいは警官たちが言っていたようなこともあるかもしれない。どうやら車との接触は避けられたようだが、思いのほか精神的なショックが大きかったのだとしたら。
思わずその場から離れようとしたとしても不思議ではないと思った。
ではどうする?
恵美は急いで考えをめぐらすと傍らの少女にうなずいてみせた。
「わたしは一度家に戻るわ、あの子もしかすると先に帰って呆然と座り込んでるって可能性もあるしね、心当たりにも連絡してみなきゃ」
「あ、じゃあたしはこのあたりを歩き回ってみます。そのへんで途方に暮れてるかもしれないし、友だちの家とかも片っ端から電話してみます」
なぎさはきっぱりと言った。ようやくいつもの活動的な自分を取り戻したようだ。その目に強い意志の光が灯り、よみがえった気迫が伝わってくる。恵美の職場で最も頼りになるのがこういう目をしたスタッフだ。
愛娘の親友を心強く思いながら恵美はタクシーを拾うために手を挙げた。
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