第3話 あたしはもっと重くなりたい

 不運にもまた同じ夢を見るかどうかはわからない。


 それでもひびきは寝る前に少しだけ本気で部屋の中を見回した。今朝の二の舞はさすがにありがたくないからだ。誠に笑われるのもごめんだ。。


 最初から落ちる前提でベッドに寝るくらいなら潔く布団で寝ろと言われてもこれだけは譲れない。個室にベッドは女の子のマストアイテムなのだ。


「寝よ寝よ」


 気になることはあっても寝付きのいいひびきは横になるとすぐに眠れる。


 その夜もぐっすりと眠り、ろくに夢も見ないうちに目覚まし時計のアラームが聞こえてきた。半覚醒の状態でも体がすっかりリラックスしているのがわかって気持ちいい。


 いつもの習慣で左手が目覚まし時計に伸びる。


 あれ、と思った。


 すぐにおなじみの感触にぶつかるはずだった左手がなぜかさまよっている。どういうわけかなにも手に触れてこないのだ。変だな、と思ったことで意識が急速に浮上して目が覚めた。


 美しい瞳に目覚めの光が点る。


 そのとたん、ひびきは息を呑んだ。開いたばかりの目が一段と大きく見開かれる。


 また浮いていた。


 実にリアルな夢である。部屋の隅々まで昨夜確認した時のままはっきりと見渡せる。ベッド脇にはまた夏布団が落ちているし、すぐ横の小さなテーブルの上では愛用の目覚まし時計が鳴り続けていた。止める手がないので少しずつその間隔が短くなりつつある。


 一気に鼓動がはやくなり、眼下とのおよそ二メートル半の高度差にひやりとする。夢とわかっていてもこの感じはひびきにとっておなじみのものだ。


 ど、どうしようと思った瞬間、なぎさたちとの会話がよみがえった。


 パニックになるからまずいの、落ち着いて深呼吸して……確かそんな話をしたんだっけ。


 目を閉じて大きく深呼吸してみた。もう一度ゆっくりと目を開ける。やっぱり同じだ。何度まばたきしても見える光景に変化はない。よく夢を見るタイプのひびきにしてもこれだけリアルな夢には覚えがなかった。


 それでも夢だと自覚できただけでだいぶ違う。なんとかしなければ、と考えるだけの余裕があるからだ。今のところ落下する様子はないものの、このまま目が覚めるまでじっとしているのは嫌だった。


 ええと、あの時なぎさはなんて言ってたっけ。


 そうだ、足! 足から着地するつもりでイメージすること。


 ごくりと唾を呑み込んで水平になっている両足をゆっくりと動かしてみた。


 やった! 問題なく普通に動かせる!


 こわい夢の中でもがいたことは何度もあるが、その時とは違って特に抵抗はない。足から床にと頭で考えたとおりにスムーズに姿勢が変化し、普通に直立している状態へと変わった。これなら気分的にもずいぶんましだ。


 ひびきの両足は今ちょうど机の上くらいの高さにある。このままそっと降りれば……そう思ったとたん、すいっと高度が下がっていつもの床の感触が足の裏に伝わった。自分の体重もしっかり感じることができる。


(すごーい、着地成功だわ!)


 なぎさのアドバイスがまさかこれほど有効だとは思わなかった。


 今日学校に行ったら真っ先にお礼を言わなくちゃ。目が覚めたらこのことだけは忘れないようにしっかり覚えておこう。そう思った。


 ひびきはうれしさのあまりつい軽く飛び跳ねた。


     ※※※


 その瞬間、カップの中のミルクの表面には確かに丸い波紋が広がった。


 今朝もまた天野家ではおなじみの派手な物音、いや地響きが二階から聞こえて誠と恵美は顔を見合わせた。


「だろ? 姉ちゃんには学習能力なんてないんだよ」


「今朝のも派手だったわねえ、また鼻でもぶつけてなきゃいいけど」


「ほんとにいったいどんな落ち方したらあの低いベッドでこんな派手な音がするんだろ。天野家の七不思議のひとつだよ」


「あんなに運動神経いい子なのに」


「寝ぼけてたんじゃ運動神経もくそもないって」


 誠の辛辣なコメントに笑うに笑えないものを感じて恵美も眉間を押さえた。


 ひびきは決してがさつな性格ではないが、どういうわけかドタバタがついてまわる。そういうめぐり合わせと言ってしまうのは無責任な気もするが、どうもこれはもって生まれたものらしい。


 その話題の主は昨日にもまして不機嫌な顔で現れた。頭を押さえて顔をしかめている。見るとどうやらお尻までさすっているようだ。


「まあー、あなた大丈夫? 頭ぶつけたの?」


「……こぶができた」


 うひっと誠が吹き出す。どうりで今朝はまた派手な音がしたという顔だ。


「笑いごとじゃないわよ誠! ひびきちゃん、こっちいらっしゃい」


 恵美が触ってみると髪の毛の中に小さいながらもはっきりと膨らみがあった。誠の言いぐさではないがあの低いベッドでどうして、とさすがにあきれそうになる。


「もしかしてお尻もぶつけちゃったの?」


「うう、めんぼくない……」


 がまんし切れずにとうとう誠が笑い出した。確かにこのありさまで笑うなというのはかなり無理がある。ひびきのうらめしそうな目も今朝は迫力が足りない。


「しょうがないわねえ、大丈夫? ひどく痛むようならお医者さんに診てもらった方がいいわよ。学校休む?」


「いい、学校行く」


「無理しなくてもいいのよ?」


「平気、ちょっとびっくりしたけどそんなにひどくぶつけたわけじゃないから。今日はちゃんと足から落ちたし」


 誠は「どうすれば足から落ちて頭とお尻をぶつけるなんて器用なことができるんだろう」と言いたげな顔だったが、さすがにそこまで突っ込むのはまずいと判断したようだ。それ以上美しい姉の惨状を笑うのは控えた。若年ながら処世術に長けた少年である。


「本当にいいのね? 気分が悪くなったりしたらすぐ保健室に行きなさいよ」


「……うん、わかった」


 そうは言ったものの、ひびきはいつになく口数の少ないまま朝食を済ませてそのまま「行ってきます」と登校していった。見送った恵美も誠もいささか心配顔だ。


「姉ちゃんほんとに大丈夫かな。まさか打ち所が悪くて……」


「よしなさいよ、縁起でもない」


 その恵美もどこかすっきりしない顔だった。二人ともよくわかっているのだ。天野家の平和な活力はひびきの生き生きとした喜怒哀楽にかかっているのだということを。


     ※※※


 その日、天野ひびきはいつもより十五分も早く登校した。毎朝遅刻ギリギリで駆け込んでくる彼女にしてはきわめて珍しいことだ。

 おまけにいつもはまぶしいほどの笑顔が気持ちいい子なのに今朝は自分の席に倒れ込むように突っ伏して「はふー」と嘆息している。


 なにごとだとさっそくなぎさたちが寄ってきたが、ひびきは「おはよう」と力なくつぶやいただけだ。これは尋常ではない。


「どしたん、なんか元気ないね」


 うつむいたひびきの声は聞き取れないほど小さかった。


「……ちたの」


「え、なに?」


「またベッドから落ちたの……」


 あらあら、となぎさたちは了解しかけたが、それにしてはひびきの様子が普段と違う。いつもなら本人も一緒になってふざけ合うところなのに、今朝のひびきはひどく落ち込んでいた。


「またどこかぶつけたの? もしかしてけがでもした?」


「頭にこぶができたわ……お尻もちょっとぶつけた」


 それはまたいつにもまして派手な戦果だ。確かに昨日の今日では自分でも情けないと凹んでいるのだろう。一同はそう納得し、なぎさが慰める口調でささやいた。


「そりゃたいへんだったね、痛むの?」


「少し、でももうほとんど平気。なぎさにはお礼を言わなきゃ」


 そう言いながらひびきは頭に手をやって顔をしかめた。この少女にはあまり似合わない表情だ。


「ん、お礼って?」


「今朝ね、またあの夢を見たの」


「あの夢? ああ、もしかして天井に浮いてたってやつ」


「うん、それで落ち着いて足から降りるようにって思ったら本当にすうっと足から着地できたの。なぎさの言葉を思い出したおかげよ、ありがと」


「なあんだ、それなら問題ないじゃない。じゃどうしてまた落っこちるはめになったのさ」


 そこでひびきはまたひとつふうーっと大きなため息をもらした。


「それがねー夢の方はそこで終わりじゃなかったの。最初は『やった!』って思ったのよ。そうしたら……」


 あーあ、と冴えない顔でひびきが語ったのは奇妙な夢の顛末だった。


 そう、着地したところまではよかったのだ。だが——。


 確かに着地は意外なほど簡単だった。適切なアドバイスをくれたなぎさには心から感謝したい気分だった。あとはこのへんてこな夢が終わってちゃんと目が覚めるのを待つだけだ。やっかいな問題がきれいに片づいて思わず足下まで軽くなる。


 やったね、と軽く跳びはねたのはごく自然な成り行きだったが——。


 がつんと衝撃があって目から火花が飛んだ。


 え、と思った瞬間今度はどすんとお尻から床に落っこちてもう一度瞼の裏が真っ白になった。痛みとショックで声も出ない。今のなに? どうしたの、と混乱して目が回った。


 呆然と座り込んでいる自分に気がつくまでしばらくかかった。まともにものを考えられるようになったのはさらにその後だ。


 いったいなにが起きたのだろう。


 まず頭をぶつけた。これは確かだ。触ると小さな膨らみが手に触れて思わず「いたっ」と悲鳴がもれた。同時にお尻もじんじんとしびれている。椅子に座りそこねて尻餅をついた時のような痛みだ。


 ベッドの端につかまり、ひとまず身を起こしてみた。


 ぶつけたお尻が痛くて涙が出そうだった。さすりながらあたりを見回すといつもの自分の部屋に間違いない。ベッドの脇にはさっき夢の中で見たとおり薄い掛け布団が落ちているし、テーブルの上の目覚まし時計はいまだにピピッと鳴り続けていた。


 どこにもおかしなところはない。むしろさっきの夢の中の様子そのままで、かえってそれが奇妙だった。


 自分がいつ夢から覚めたのかその境目がよくわからないのだ。弟のセリフではないが、いったいどうやったらこの低いベッドで頭を天井にぶつけるような落ち方ができるのだろう。


 そこで「え?」と思った。天井? 天井に頭をぶつけた?


 その発想があまりにも意外だったので愕然とした。もしそうだとすると単純にベッドから落ちたわけではないということになる。


 振り仰いだ天井にはむろんなんの痕跡もなかった。


 はあ、とため息がもれてそのままベッドの端に座り込んでしまう。鳴り続けるアラームにのろのろと手を伸ばしながら、自分がひどく気落ちしていることをぼんやりと感じていた……。


「——つまりさ、あたしってもしかしたら寝ぼけて机の上から飛び降りたりしてるんじゃないかって思ったらなんかがっくりしちゃって」


 なぎさたちはひびきの落胆ぶりにそろって沈黙していた。 寝ぼけるにもほどがあるとちゃかすのは簡単だが、本人にしてみれば深刻だろう。


 この少女の顔が曇るのはありがたくない。天野ひびきの笑顔はなぎさたちの貴重な共有財産なのだから。


 なぎさはうなずいてそっとひびきの背中に手を回した。小学校以来の大事なオモチャ、いや親友を慰めるのは当然自分の責務だとわかっているのだ。


「ぶつけたところはほんとに大丈夫? 保健室に行かなくて平気?」


「うん、もうだいぶいい。こうして話したら少し気分もよくなったし」


「そっか、それならちょっと安心。お昼はお姉さんがおごっちゃるから一緒に食べようね」


 なぎさがめったに見せないやさしい笑顔でささやくと、ひびきは妹のようにこくんとうなずいた。


     ※※※


 結局なぎさたちのおかげでひびきも午後にはだいぶ持ち直すことができた。


 持つべきものは友人であり、なぎさによれば「それはあんたの人徳だよ」ということになるらしい。そう言われれば悪い気はしない。朝は悄然として歩いた道を軽い足どりで帰宅することになった。


 娘の落ち込みが気になっていたのか、その夜恵美はいつもよりかなり早めに帰宅したが、ひびきの顔色にほっと胸をなで下ろした様子だった。


 だが、おやすみを言って自室に戻ったひびきは少しだけいぶかしげな目をしていた。もう気分的には立ち直っていたのだが、ひとつだけ気になることがあったのだ。


 いくら考えても今朝自分がいつ夢から覚めたのか、その瞬間がわからない。


 昨日と違い今朝は自分でもかなりはっきりと状況を認識していた。今でも朝の騒動の一部始終を明瞭に思い出すことができる。


 それなのに一連の流れのどこで夢が途切れて目覚めたのか、その境目がはっきりしないのだ。


 むしろ「そんなものはなかった」というのがひびきの実感だった。


 強いて言うなら天井付近で目が覚めたと思ったあの時——あの時こそが現実に切り替わった瞬間ではないのか?


(そんなことって……)


 まさかとは思うのだが、あの後の自分は夢を見ているような頼りない感じではなかった。


 なぎさの言葉を思い出してかなり冷静に行動していたと思う。どこかにあいまいな部分があるかと考えてみたがやはりそれはない。


 天井近くで浮いている自分を発見してから意識が途切れたことは一度もなかったはずだ。確かに頭とお尻をぶつけた時はショックで混乱したが、それでも失神するほどではなかった。


 するとやっぱり……。


 そこまで考えてぶるっと頭を振る。それはない、絶対にあり得ない。


 自分がふわふわと浮かんでいた今朝の、いや昨日からのアレが現実のことだったなんて!


 では、それなら朝の事件をどう説明する? ひびきの実感としてはあれが夢ではなく現実の出来事だと思う方がよほど納得できるのだ。理屈ではなく直観である。


 そんなばかな、とは思うのだがそうとしか思えない。そもそも一連のドタバタをあれだけはっきり覚えているのに、机に乗って飛び降りたなどというシーンはまったく記憶にないのだ。


 いくら考えても結論は同じだった。


 真面目な顔でこんなことを口にしたらあのなぎさでさえ引いてしまうだろう。だから学校では誰にも言えなかった。


 ならば試してみようと思った。ばかばかしいことは承知で自分の気の済むようにしてみようと。


     ※※※


 遠くから聞こえてくるいつものアラーム。


 その単調な電子音に導かれて無意識に伸ばした手はなぜか宙をさまよっている。そこにあるはずのものに届かないのだ。


 あれえと思った瞬間、ふっと意識が凝集して目が覚めた。そして——。


 一昨日、昨日、そして今朝。ひびきは三度みたび目をみはることになった。


 やった! という気分とやっぱり! という気分が入り混じってなんとも複雑な心境だ。むしろ自分の予想どおりの結果になったことへの興奮の方が大きかった。


 ひびきはまた浮いていた。


 ただし、これまでのように天井近くに水平に浮かんでいるわけではない。


 右手を下にしてちょうど片手で空中に逆立ちしているような格好だ。その右手はぴんと張ったリボンでベッドの足の一本につながっていた。


 ふわふわと浮かび上がった体を右手のリボンでベッドにつなぎ止めている形である。


 連日の「転落事故」が現実だとするならこのやり方で事実がはっきりするはずだと考えたひびきは、ばかなことをしていると思いながらも試さずにはいられなかったのだ。


 今、その予想は見事に的中した。ひびきの体は彼女が予想したとおりの体勢で宙に浮いている。それを自覚している自分の意識は鮮明であり、とてもこれが夢とは思えない。


 そして二度も痛い目に遭っているひびきは慎重だった。これが現実なら落ちた時のダメージも現実なのだ。


 両手で慎重にリボンをたぐってベッドの近くまで体を運んだ。そこで左手を伸ばしてヘッドボードをつかみ、ぐいっと引き寄せて床上数十センチのところまで高度を下げる。足から足からと念じながら体勢を変えてふわりと床に着地した。


 ちょうどベッドの脇で四つん這いになった格好である。手足にぐっと体重がかかってごく当たり前の重さを実感した。自分の体重をこんなにもうれしく感じたのは初めてだ。


 ふうーっと大きく息がもれた。


 だが、ここで気を抜けないことは前回の失敗でわかっている。昨日は着地に成功した喜びで思わず飛び跳ねてしまった。実際にはかかとがちょっと持ち上がる程度だったのに、ひびきの体は勢いよく浮かび上がって天井に頭をぶつけることになったのだ。


 すなわちどんなはずみで浮かび上がるかわからないということだ。


 ひびきは右手のリボンをほどいてゆっくりと立ち上がり、もう一度大きく深呼吸をしてから慎重に着替え始めた。


     ※※※


 ひびきが二日続きで早々と登校し、前日と同じように机に突っ伏したのでなぎさたちはまた心配顔になった。


「ひびき、あんたまさか……今日も落っこちたの?」


 相棒の様子が昨日とそっくりなのでなぎさの声も慎重だ。だが机に伏せたままなぎさを見上げたひびきは昨日のように沈んだ表情ではなく、笑顔を作るだけの余裕はあるようだった。


「大丈夫、くたびれただけ」


「くたびれた?」


「ちょっとね。今朝も同じ夢を見たんだけどなぎさのアドバイスのおかげで無事に着地できたよ、ベッドからも落ちなかったし」


 取り巻いた少女たちは一様にほっとした顔になった。


「なあんだ、心配しちゃったじゃないか。でもそれなら今朝はほんとに大丈夫なんだね?」


「うん、おかげさまでね」


「よかった。でも三日も続けて同じ夢見るなんてあんたもそうとうしつこい性格してるねー」


 あはあはと笑うひびきは確かに少し疲れているようだったが、昨日と違って落ち込んでいるようには見えない。それならまあいいかと一同は安心した。


 結局ひびきはその日一日をおだやかに過ごし、いつもどおり「さよなら」と手を振って級友たちと別れた。部活で忙しい生徒たちを横目に見ながら校門を出る。


 とたんに「はあー」と大きなため息がもれた。


 もうくたくただった。朝から一瞬も気の抜けない時間が続いていたのだ。


 なにしろどういう条件で体が浮かび上がるのかまるでわからない。軽く膝を伸ばしただけで天井にぶつかるはめになったのはつい昨日のことである。


 考えてみるとあれは天井があったからあの程度で済んだのだ。もし今ここで同じことが起きたらと思うとその先は考えたくなかった。


 まさに悪夢である。


 絶対にそんなことにならないよう気をつけなければいけない。


 道で、校庭で、教室で、万一にでも飛び上がったりしないようひびきは全力で注意を払っていたのだ。その結果、神経がすり減ってたった一日でこのありさまである。


「まいったー、これじゃ身がもたないよ」


 気持ちを静めるために寄り道した近くの公園で、ブランコに腰掛けたままひびきはこれからどうするかと考えていた。


 あり得ないことが自分の身に起きている。どうしてそんなことになったのかと考えても心当たりはない。ではどうする?


 まずこのことを誰かに相談すべきか否か。この判断は難しい。


 話しても誰も信じてはくれないだろうし、といって人前で浮かんでみせるのもまずい気がする。下手すると珍獣扱いでさらに下手すると医者や学者たちによってたかって解剖されるようなこわい展開になるかもしれない。


 打ち明けるにしてもよほど信用できる相手に絞る必要がある。


 母の恵美は信頼性では随一だが、こういった話についてこられるかどうかは疑問だ。健全な常識人にはなかなか受け入れがたいだろう。


 弟? 論外。学校の先生は? 残念ながらそれほど信頼できる人はいない。となるとやはり悪友の紺乃なぎさが第一候補だが……。


 それにしてもいったいなにをどう話したらきちんと受け入れてもらえるだろう。


 なにしろひびき自身もこの事態についてまるでわかっていないのだ。なにか尋ねられてもうまく説明できない。それどころかこのままでは朝から晩までびくびくしてストレスでぺしゃんこになってしまう。今日一日の経験でそれがよくわかった。


 となると考えがまとまるまでしばらくは一人でいろいろ試してみるほかはなさそうだった。ただしあまりのんびりはできない。


 そう一応の結論を出してひびきは立ち上がった——ゆっくりと。


     ※※※


 その夜、早めに自室に戻ったひびきはまたベッドの端に座り込んで考えた。


 目覚めるたびに体が浮かんでいるというのがまず困る。


 落ち着いて対処すればちゃんと着地できるからにはこの現象は自分の意志でなんとかできる可能性がある。ただし今はまだその方法がわからない。絶対的に経験と観察が足りないのだ。ならば今夜は……。


 ひびきは押入れからありったけの毛布やタオルケットを取り出すとそれらを重ねて部屋の中央に敷きつめた。冬物の掛け布団も引っ張り出してその上に広げる。たいしたクッションにはならないが多少なりとも衝撃を吸収してくれるはずだ。


 あれが自分になにか変な力がついたせいだとすると、その法則性みたいなものを急いで知る必要がある。まずそれを確かめなければと思った。


 その力を使いこなすためではない。使わないで済ませるためである。


 今はまだ天井程度で済んでいるが、これが屋根になり木になりビルになり、そして考えたくもないが空の上までなんてことになったら自分は恐怖のあまり死んでしまうかもしれない。


「冗談じゃないわ」


 あの空を飛べたら、などとたわけた願望を口にする連中は絶対に頭がどうかしているに違いない。


 そんなことにならないためにも今知っておくべきことがあった。


 ひびきは大きく深呼吸をくり返してから敷きつめた臨時のクッションの上に座り込んだ。


 あぐらをかいてもう一度深呼吸し、自分がゆっくりと浮かび上がるところを慎重に想像してみた。足から着地、とイメージしたあの時の要領だ。あの感じは……。


 次の瞬間、ひびきは呆気にとられた。


「そんな!」


 あまりにもあっさりとお尻が布団から離れるのを感じたからだ。精神集中もなにもない。拍子抜けするほどあっけなかった。


 今ひびきの体は布団の上二十センチほどの高さに浮いていた。


 そのままの姿勢でそっと手を伸ばしてお尻の下に入れてみるとそこには当然なにもない。間違いなく浮いている。


「うっそお……」


 まさかこんなに簡単に実現するとは。こんなことでいいのだろうかとさえ思った。


 少し体勢を低くして下に敷いた布団に手を触れてみる。手が布団の表面をすべるにつれて浮いている自分の体が微妙に上下するのがわかった。浮かぶ力と体重がちょうど釣り合ってわずかな刺激でふわふわと漂う感じだ。


 ふと耳のあたりがくすぐられる気がして手を当ててみると髪がゆらゆらと動いていた。乱れて逆さまに持ち上がってしまうほどではないが、風になびくというのとも少し違う。


 慎重に姿勢を変えてみたが体のどこにもいっさい負荷がかかっていない。水に潜った時と少し似ている。ただし体を締めつける水圧がないし、当然呼吸も普通にできる。これはかなり快適だった。


 それじゃあこのまま着地、と考えるとすうっと体が沈んでふかふかの布団の上に復活した体重がかかるのを感じた。実にあっさりしたものだ。緊張が解けて大きく息を吐くとひびきはそのまま横になった。


 今のをどう受け止めるべきか考えた。


 簡単でよかった? それとも簡単すぎて危ない?


 どちらとも言えるしそれだけでもないような気がする。自分の意志で自由にコントロールできるのならひとまず安心だが、あまりにも簡単にスイッチが入るのはやっぱりまずいと感じる。確かにふわふわ浮いてる時は気持ちよかったが……。


 そう思いながらなにげなく横を向いたひびきは思わず「きゃっ」と声を上げてしまった。


 いつの間にか寝転んだ姿勢のまま体が浮かんでいたのである。それもさっきよりだいぶ高い。机の天板が顔より下にある。


 そこで「やだっ」とあわてたのがまずかった。


 手足をばたつかせた瞬間、ひびきの体はほぼ一メートルほどの高さから布団の上に落下した。さっきのような着地ではなく明らかに「落下」だ。


「!」


 幸い天井ほどの高さがなかったことと臨時のクッションのおかげでそれほど大きな物音はしなかったが、ひびきはかなり動揺した。一気に鼓動が速くなり背中をさっと冷たいものが走っていった。


 いつの間に、と焦って考える。


 思い当たるのは直前に「浮いてる時はらくちんで気持ちいい」などと考えていたことくらいだ。


 するとまさかあれで? あれだけで?


 あんななにげない心の動きが引き金になるとは予想外だった。浮かぶことに対する肯定的なイメージだけで簡単にスイッチが入ってしまうとなるとこれは問題である。


 毎朝のあの現象も目覚める直前の心地よさを「ふわふわ漂ってるみたいで気持ちいい」と自分が感じているせいかもしれない。


 そしてさっきのささやかな墜落。


 あれはおおいに教訓にしなくてはと思った。あわてたとたんに落っこちたということは心を平静にしている間は大丈夫だがパニックになるとコントロールを失うということだ。なぎさのアドバイスはここでも生きていた。


 ひびきは布団の上に座り直してもう一度考え始めた。


 これは思っていたよりずっとまずい事態かもしれない。

 こんなにも簡単にスイッチが入ってしまうとなると日常の気分次第でどんなことになるかわかったものではないからだ。


 ではいつも「飛び上がりたくない」と思っていればいいのだろうか?


 わからない。


 試しにもう一度座ったままで「ちょっとだけ……」とイメージするとひびきの体はなんの抵抗もなく布団の上三十センチほどの高さに浮かび上がった。実に簡単だ。


 このまま動けるのかな、と部屋の反対側の壁に目をやっただけであぐらをかいたままの体がすいっと空中をすべって移動した。


(うっわー、不思議!)


 正直、面白いと思った。思ったとたん、ダメダメ、絶対にダメ、と自分を厳しく制する内心の声が聞こえてくる。


(これを面白いとか楽しいなんて思ったらたいへんなことになるから!)


 だが超低空とはいえ部屋の中をすいすいふわふわと飛び回るのは気持ちいい。


 ゆっくり飛びながら立ち上がったり寝転んだりしても落下することはなかった。たかだか数十センチという安全な高さのせいで「あー、こういうのもいいかも」などとついつい遊んでしまう始末だ。


 さっきまでは絶対に楽しいなんて考えないようにしなくちゃと思っていた。


 なのに自分があまりにも無造作に、そしてなめらかにこの不思議な力を使いこなしていることでその決心もだいぶ怪しくなっている。


 だからダメだってば! と心の底にささやきかける声はだいぶ遠くなっていた。

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