第2話 夢オチな発端
皿の上のトーストが二センチは飛び上がったように見えた。
錯覚ではない。加えて家中に響く大きな物音のおまけ付きだ。
一家の主を気取って難しい顔で新聞を広げていた少年——
「今朝のはまた一段と派手ねえ」
「今さら驚きゃしないけど、いったいどうやったらあの低いベッドからあれだけ地響き立てて落っこちることができるんだろうね。明らかに物理法則に反してるよ」
このひねたコメントには恵美も苦笑するしかない。これが小学五年生の男の子の言いぐさだと思うといささか頭が痛いのは確かだ。
「もう姉ちゃんに学習能力なんてものが期待できないのははっきりしてるんだからおとなしく布団敷いて寝ればいいんだ」
誠はいかにも嘆かわしいという口ぶりで宣告した。
「個室にベッドは女の子にとって譲れない一線だそうよ」
「ちぇっ、どういう理屈なんだか。まったく近ごろの若い女ときたら」
小学生にそんな老けたセリフを吐かれても困るんだけどね、とこちらも引きつった笑顔で恵美はもう一組の食器を用意した。そろそろ話題の主がぼやきながら登場するころだ。
「だいたいさ、高いところは苦手だっていうからベッドだっていちばん足の短いやつを入れたのに、あれ下手したらお隣まで聞こえてるよ? 器用にもほどがあるって」
誠は心底不思議でならないという顔で大げさに肩をすくめた。それが妙にさまになっているので恵美も吹き出しそうになる。
そこで断固異議ありと言いたげな娘の声が聞こえなければ笑い出していたかもしれない。
「……器用で悪かったわね」
誠少年の親愛なる姉、天野ひびきはいささか、いやかなり不満げな顔でダイニングの入り口に立っていた。こわい顔でこまっしゃくれた少年をにらんでいたが弟の方は平然としたものだ。
「おはよう姉ちゃん、今朝のは震度四はあったよ」
大きく息を吸い込んで反撃しようとしたひびきにストップをかけたのは恵美だった。娘が鼻の頭を押さえているのに気がついたからだ。
「ひびきちゃん、あなた大丈夫? まさかけがしてない?」
「……ちょっと鼻をぶつけたけど大丈夫」
大丈夫と言いつつもいまひとつテンションの低そうな口ぶりである。本人も毎朝の醜態を気にしていないわけではないらしい。
今朝のように少し痛い目に遭うとさすがに笑えないと思っているのだろう。
すかさず誠の容赦ない論評が飛んだ。
「姉ちゃんはベッドから落ちるたびにちょっとずつ鼻が低くなっていくんだ。せっかくの美少女も中学を出るころには鼻ぺちゃの愛嬌のある顔になってるね」
「誠! あんたねえ、その口たいがいにしないと大きくなってから苦労するわよ」
ひびきの形のいい眉がきりきりとつり上がる。長い睫毛が震える瞬間の瞳がはっとするほど美しい。
「大丈夫、僕は人間関係には細心の注意を払ってるからね、家の外じゃ不用意な言動には気をつけてる」
「ふん、お姉さんの繊細なハートも気づかってやれないような冷血な弟になに言われても笑っちゃうだけよ」
「繊細な人間はもっと寝相がいいもんだと思うけどなあ」
「なんですってえ!」
これが天野家の毎朝の日課だ。ほっておくと果てしなく続くので適当なところで介入するのも母親の役目である。
「はいはい、そのへんにしときなさい。ひびきちゃん、ちょっと時計を見た方がいいかもよ」
恵美のひと言でひびきの目が丸くなった。遅まきながらテレビの中の時刻表示がだいぶ進んでいることに気がついたのだ。寝ぼけてドタバタ焦っているうちに遅くなってしまったらしい。
「たいへん!」
そこから朝のルーティンワークを三倍速でこなしたひびきは、にくたらしい弟が「きひひ」と笑うのを横目でにらみつけながら玄関を飛び出していった。
「黙っておとなしく座ってりゃ本当にたいした美少女なんだけどなあ」
十歳の少年にしかつめらしく論評されては笑うしかない。
「誠、あなた本当にそんな老けたおじさんみたいなこと言ってると女の子にもてないわよ」
「いいんだ、当分はあの頼りない姉ちゃんのめんどうを見てあげなきゃいけないから」
この弟が小学生のくせに落ち着き払って新聞など広げているというのに、中学生の姉の方は毎朝ああして大騒ぎだ。育て方を間違えた覚えはないが、これではどっちが年上なんだか、と恵美も嘆息する思いだった。
それとも憎まれ口をたたきながらこの子はシスコンであの姉にくっついていたいのだろうか。ひびきは母親の目から見ても格別にきれいな子だ。幼い時から身近にあの姉を見ていたのでは無理もないかもしれない。
恵美は小さく首を振ってふてぶてしい弟にもそろそろ登校の時間だと告げた。
※※※
朝の日課を目一杯急いでこなしたおかげでどうやら遅刻は免れそうだった。
「あー、もう誠のやつ」
ほんとに近ごろ口が悪くなっちゃって、もうお誕生日のプレゼントあげるのよそうかな、などとこぼしながらひびきは学校への道を急いだ。
彼女は東京近郊の衛星都市のひとつ、
小五の口のへらない弟と出版社に勤める母との三人暮らしで、五年前に事故で他界した父親の不在にもようやく慣れた。
早めに帰宅する弟と、仕事柄いつ帰宅するかわからない母やもちろん自分のためにあれこれ家事をこなさなければならないが、今はそうしたあわただしい毎日も今は楽しい。
夏休みまであと少し。十四歳の誕生日を翌月に控え、まずは平穏な日々、 天野ひびきの運命の朝はこうして静かに幕を開けた。
※※※
「あいかわらずきわどいご出勤ねー」
教室に駆け込んできたひびきを笑って迎えてくれたのは悪友の紺乃なぎさだ。小学校からの腐れ縁だがひびきにとってはいちばん気のおけない友人である。
一緒にいた女子たちも自分の席にへたり込んだひびきを囲んで盛り上がる。
「よくまあ毎朝毎朝ぎりぎりで」
「綱渡りの連続でも遅刻しないところは感心かも」
「でもさ、それって毎朝五分だけ早起きすりゃ済むことじゃん」
「むだむだ、この子にそれができるくらいならあたしも苦労しないよ」
この最後のセリフはなぎさである。女の子たちがどっと笑い転げて教室がいっぺんににぎやかになる。
なぎさはぱっちりした大きな目とショートカットがなかなかかわいらしい子だ。
積極的で頭もよく、やることも万事そつがない。つまり自然に場を仕切るタイプで、成績も中の上あたりをうろうろしているひびきと違って学年トップを争う秀才である。
だが、女の子には珍しい果断な性格のせいか露悪的といっていいほどはっきりものを言う。要するにおそろしく口が悪いのである。もしかすると弟はなぎさの影響をもろに受けているのかも、とひびきはひそかに疑っていた。
そのなぎさがおや、という目で顔を寄せてきた。
「ありゃりゃ、あんたどうしたの? 鼻の頭が赤いよ」
「あ、ちょっとね」
長いつきあいなのでそれだけで通じる。なぎさはやれやれという顔で苦笑した。
「なんだ、また落っこちたの」
「言わないでよー、朝っぱらからさんざんからかわれてきたばっかなんだから」
「ふふん、誠のやつ最近口が回るようになったからねー、あんたみたいにとろい子じゃとても勝ち目ないね」
なぎさの告げる真実はいつも耳に痛い。ひびきは少しばかりうらめしそうににらんだがそんなことでこたえる相手ではない。
「誰がとろいって?」
「そんなことよりちょっとは気をつけなさいよ。あたしこれでもあんたの美貌だけは評価してるんだからさ、下手にキズなんかつけないでよね」
そう言うとなぎさは人目もはばからずぎゅうっとひびきを抱きしめた。女の子たちの歓声が上がる。二人が危ない仲だというのはクラスではもっぱらからかいのタネで、なぎさもひびきの所有権は自分にあるときっぱり宣言していた。ひびきにとっては笑えない冗談だ。
「よしてよ、もう朝から」
「ほほう、夜ならいいのかな」
また少女たちがわいた。皆これがないと一日が始まったような気がしないらしい。
「はいはい、今朝もベッドから落ちましたよ、文句あるの」
「おっ、居直ったな。でもほんとに気をつけてよね、あんたはコレだけが取り柄なんだから」
コレ、と言ってなぎさはひびきの頬をやさしくなでた。かなり危ないしぐさだったがこんなのはまだ序の口で、二人きりでいるとなぎさは遠慮なくセクハラ行為に及ぶ。
ひびきは自分のオモチャだからノープロブレムと勝手なことをほざくとんでもない悪友だ。
女子たちの間ではなぎさがいつひびきを押し倒すかで賭けをしているという。
ひびきはそれだけ人目を惹く存在だったのだ。
わざわざ制服のスカートを巻き上げる必要もないほど長い足や、高価な人形のように整った顔立ちは全校女子生徒の羨望の的であり、全校男子生徒にとっては日々の生き甲斐であった。その名は他校の生徒にまで知られているほどだ。
最近少し髪を切ったのでポニーテールにするとやや短めだったが、それはそれでたいへんキュートだと周囲には好評だ。
たまになぎさに引っぱられて東京の繁華街などを歩くとみるみるうちにスカウトの名刺が積み上がる。なぎさはひびきの胸やお尻をなで回しながら「うーん、フェロモンでも出てるのかしらね」と真面目な顔でつぶやいたものである。
特徴的なのは光の強い瞳の美しさで、見つめられると女の子でも胸の中をくすぐられているような気分になる。アタシもこの目にやられちゃったんだよねーとなぎさもその威力を認めていた。
当然、気を抜くと街でも学校でもわらわらと男たちが寄ってくるが、これはなぎさが片っ端から蹴散らしていた。その強固な理論武装(屁理屈ともいう)とマシンガンのような悪口雑言の嵐は彼らの欲望をあっさり打ち砕いてしまうのだ。
そんな二人の様子をまた周囲の女子たちがからかう。ハイテンションで盛り上がっていたが、そこへ唐突に不機嫌な声が割り込んできた。
「うるさいわねー朝っぱらから。ちょっとは静かにしてよ」
一同がはっとして目をやると窓際の席に座った少女が冷ややかにこちらを見ていた。
彼女——
ひびきを取り囲んでいた女子たちはなにか言いかけたが、そこで予鈴が鳴ったのでちらと顔を見合わせて自分の席に散っていった。
「で、また変な夢でも見たの?」
ひりつくような梨香の視線を気にするふうでもなくなぎさは聞いてきた。彼女はひびきがけっこういろいろな夢を見るタイプだということを知っているのだ。
夢と言われてひびきは今朝の不始末を思い出した。そう、確かに自分は夢を見た。その結果がいつにもましてぶざまな「転落事故」につながったのだ。
はあー、と机に突っ伏す親友になぎさはおやおやという顔をしていた。
※※※
「ふーん、相変わらず変な夢ばっかり見る子だねえ」
サンドイッチをぱくつきながらなぎさは短くコメントした。
昼食は教室でというのが一応の決まりだが、校庭の木陰の方が断然気持ちいいので生徒たちには無視されている。にぎやかなランチタイムの話題はひびきの今朝の夢の話になった。
「気楽に言ってくれるわね、あたしにはユーウツ以外のなにもんでもないってのに」
今朝の夢見はあまり芳しいものではなかった。思い出すと凹んでしまう。それでも最初は心地よい目覚めの朝に思えたのだが、問題はその後だった。
あの時——。
目覚まし時計のかわいらしい電子音がぼんやりと聞こえ、ふわふわと漂っている感じがとても気持ちよかった。
無意識に左手が伸びてベッドサイドをさぐる。
夢うつつのままアラームを五分先にセットし直してもう一度睡魔に身をゆだねるのが彼女の習慣だ。左手の動きとはうらはらに意識は再び眠りの中に誘い込まれようとしていた。
だが、いつもならすぐに手に触れる感触がどうしたわけか今朝は見つからなかった。
あれれ、と思う気持ちが拡散しかけていた意識を刺激する。
まだ目覚めたくなかったのにぱたぱたと覚醒のプロセスが進んで意識が浮上する。閉じていた瞼がぱちりと開いてひびきは二度寝の快感を逃したことを知った。
瞳に光が瞬いてその日最初の光景を映し出す。
そこでおやと思った。
変なものを見ている違和感でとまどったのである。そこにあるのは見慣れた自分の部屋に間違いない。にもかかわらずどうもおかしい。なにかが変だ。
(あれえ、あたし……まだ寝ぼけてる?)
自分が寝ているはずのベッドが目の前にあった。夏物の薄い掛け布団ははねのけられてベッドの脇に落ちている。すぐ横の小さなテーブルの上では今朝に限って止め手を失った目覚まし時計がアラームを鳴らし続けていた。
窓際の机やぬいぐるみを飾った小さな棚、入学祝いに買ってもらったミニコンポやクローゼットの扉、そしてなぎさがプレゼントしてくれたカレンダーなど部屋の四周が正面に一望できる。
そう、それが変なのだ。まるで部屋全体を上から見下ろしているように見える。
そう思ってふと横を見ると天井から下がっているはずの照明のシェードが顔のすぐ脇に立っていた。なぜか下から一本のコードで支えられて大きな花のように見える。
目を閉じてもう一度ゆっくり開く。やっぱり同じだ。つまりこれは……。
(そうか、あたし天井から下をながめてるんだ)
なあんだと思う気持ちとまだ夢の続きだったんだと安心する気持ち、そしてまてよ、と心がなにごとかささやいてくる感じがひとつになって微妙に混乱した。
(ええと、なにが気になるんだっけ?)
天井から、というのがキーワードだということはわかっていた。天井から……確かこれは自分にとってはとてもまずいことだったような気がする……天井から?
次の瞬間、心臓が跳ね上がった。
(天井からってことはあたしは高いところにいるんだ!)
一瞬で眠気が吹っ飛んだ。
天野ひびきは筋金入りの高所恐怖症だったのだ。
※※※
「で、パニクったと思ったら今度こそ本当に目が覚めてベッドから転がり落ちていたと」
なぎさの無情なコメントにひびきはがっくりとうなだれた。話してみるとわれながら情けなくて言い返せない。ブザマにもほどがある。
「なあ、それってあれじゃないの? ほら幽体離脱とかいうやつ」
これはミサこと中野美咲のセリフだ。陸上部で短距離をやっているだけあって体格もよく、サバサバした性格のオトコマエな娘である。ただしスプラッタ映画大好きという女の子にしておくのがもったいないような趣味のせいでなかなかいい男がつかまらないと嘆いていた。
「それはちょっと違うと思うよ、今朝見た夢の中じゃベッドは空っぽだったから。幽体離脱って寝ている自分の姿が見えるってやつでしょ」
「そっかー、じゃひびきは丸ごと浮いてたわけだ。それはそれで珍しいな」
まったく、となぎさが腕を組んでうんうんとうなずいた。
「ほんと、たいがい非常識なやつだと思ってたけど夢まで普通じゃないよ」
「大きなお世話、こっちは朝からこわい思いをしてたいへんだったんだから」
「こわいって、たかが天井でしょ。二メートルちょっとじゃん」
ひびきの高所恐怖症はクラスでも有名だった。
屋上から下をのぞくのはもちろん、掃除で机の上に乗って窓ガラスの高いところを拭くだけでも顔が引きつるありさまである。きれいな伸身宙返りができるほど運動神経がいいのに平均台に乗っただけで固まってしまう。
遊園地もこわい乗り物だらけで遠慮したいし、手すりに触っていないと家の階段さえ安心できない。本当は平屋の家に住みたいくらいなのだ。
もちろん飛行機などには死んでも乗る気はない。
それじゃ新婚旅行に行けないだろうとからかわれても平気だ。のんびり船旅で連れていってくれる人と結婚すればいいのだから。
そういう徹底した高所恐怖症の自分がよりによってあんな夢を見るなんて!
なんてツイてないんだろう、とひびきは大声で嘆きたい気分だった。
「つまり夢の中でもあんたの高所恐怖症は健在だったってことね」
なぎさがまた無慈悲に断定する。
「……まあね、すごくリアルな夢だったから。実感としては本当に天井から落っこちた感じ。あーもうカッコわるー」
まわりの女子たちは面白半分、同情半分という顔だった。なぎさもひびきの肩を抱いて一応は慰めの言葉をかけてくる。
「ま、ちょっと鼻の頭が赤くなったくらいで済んでよかったじゃない。いつかみたいにお尻にアザができるよりなんぼかましよ」
「それって全然慰めになってない」
「あはは、まあなんだ、高いといってもせいぜい飛び上がれば手が届く程度なんだからさ、パニックにさえならなきゃなんとかなるんじゃない」
「簡単に言うけどこっちは目が覚めたと思ったとたんにアレで焦ったんだから」
「だからさ、どうせ夢なんでしょ? 次に同じ夢を見た時はこのなぎさお姉さんの声を思い出しなよ。そんでもってまず一回深呼吸してゆっくり足から降りるの」
足から降りる?
この悪友は頭の回転が速すぎるので時々言ってることについていけなくなる。
「ごめんなぎさ、それどういう意味?」
「つまりね、とりあえず足でも動かしてみたらってこと。別に金縛りに遭ってるわけじゃないんでしょ。落ちると思うから落ちるのよ。着地するんだって考えてみたら?」
「着地? ものは言いようねえ」
「そ、夢なんだからあんたの気持ちがストレートに出てるってことでしょ。だったら『ヤバっ』と思ってあわてるのがいちばんまずいわけよ」
なるほど、そんな考え方もあるのかと少し感心した。
「わかった。もし次に同じ夢を見たらなるべく思い出してみる」
よしよしいい子ね、となぎさがひびきの肩を抱いて頬ずりすると女子たちも次々にひびきを抱きしめてふざけ合った。友情というより愛玩動物の扱いである。
そうしているとふと目の隅になにかが引っかかった。
ん? と思ってまばたきすると校庭の端の方でこちらを見ている神水梨香の姿に気がついた。だいぶ離れているはずなのになぜかその視線までがはっきりわかる。妙な感じだった。
それどころか「梨香?」と思ったとたん、その姿が引き寄せられて目の前に本人がいるような錯覚を覚えた。まるで望遠レンズでズームしたようだ。その傍らには堺恭子——今は隣のクラスにいる梨香の友人——が立って二人でなにか話している。
もちろん聞こえるはずもない。彼女たちは校庭の反対側に立っているのだから。
ところが、ひびきの意識が二人の顔に向いたとたん、彼女たちの会話の内容が伝わってきたのである。
(ふん、また犬みたいにつるんでうっとうしい)
(ほーんと、めざわり)
(ちょっとばかり顔がいいくらいでちやほやされていい気になって。みっともないわね)
(うん、なんであんなのがいいのかさっぱりわかんない。お父さんもいないくせに、先生だってあの子のこと嫌いよ)
そこで二人は顔を見合わせて小さく笑った。皮肉な表情が少し歪んでいた。
(そのうち思い知らせてやらなくちゃね)
梨香がつぶやくと追従するように恭子もうなずいた。無意識に二人の会話を追っていたひびきはそこではっとなった。
今のは……。
ほんのつかの間だが本当にあの二人が目の前で話しているようだった。もちろんそんなことはあり得ない。声が聞こえたわけでもないからだ。奇妙な錯覚だった。
彼女たちとは一年の時からそりが合わない。
ちゃんと理由はあってそれが心の底であの二人を意識させているのだろうと思った。だから姿を見ただけでこんな後ろ向きな想像をしてしまうのだと。
すでに今の変な感覚は消え去って校庭の向こうの二人の姿も小さな人影に戻っている。やっぱり錯覚だろうと思ったが、なぎさは相棒の小さな変調を見逃さなかった。その視線を追ってにやりと笑う。
「ふふん、気になる?」
ひびきは正直に肩をすくめた。
「ああいう子はしつこいよ。いつも不機嫌でその理由に自分じゃ気がつかないからいらいらをぶつける相手が必要なの。あんたはそれを取り上げちゃったからね」
ふいに話が飛んできょとんとしていた女子たちもなぎさの視線を追ってささか気まずそうな顔になった。彼女たちもひびきと梨香の間のいきさつをよく知っているのだ。
「やれやれだね、どーせまた悪口言ってんだろな」
これはミサだ。不出来な妹を嘆くような口ぶりは彼女が小学生時代の梨香と同じクラスだったせいもある。なぎさのセリフはもっと容赦がない。
「逆恨みもいいところなんだけどね、それをきちんと言って聞かせる人がまわりにいないんでしょ。コドモなのよ、コドモ」
去年の秋ごろのことである。
ひびきとなぎさは当時別のクラスだった梨香たちが一人の女子生徒を小突き回している現場に出くわした。いじめか喧嘩か、それともちょっとしたいさかい程度のことだったのかもしれないが、あまりよくない雰囲気だったのは確かだ。
やめといたら? カッコ悪いよ——ひびきとしては通りすがりの軽い一言のつもりだった。
こんなものはありふれた学校生活の一場面でしかないし、いちいち介入するほどのことでもない。周囲の生徒たちもめいめい勝手なことをしていた。
だがひびきのその一言はいたく梨香たちのご機嫌をそこねてしまったらしい。
梨香の目がよけいなお世話でしょ、とつり上がった。そのままであれば彼女らの敵意は矛先を変えてひびきの方に向いていたかもしれない。
ところがそこでふいに周囲の空気が変わった。それまで無関心だった外野の目が一斉にその場に集中したのである。幸か不幸か、ひびきはすでに噂の一年生として全校男子注目の的だったからだ。
梨香たちにとって面白くない展開だったことは想像がつく。無言で立ち去るその目が雄弁に語っていたからだ。
こんなことで根にもたれたのではうんざりだが、思わぬ撤退を余儀なくされた梨香はそれ以来ずっとひびきを目の敵にしていた。人前で恥をかかされたと思っているらしい。それこそ逆恨みだ。
といっても直接的ないじめや嫌がらせに遭ったわけではない。
なにしろひびきのそばにはなぎさという恐ろしく手強い相手がくっついている。その圧倒的な覇気を前にしてはさすがに分が悪いと感じるのだろう。代わりにことあるごとに反目し、ひびきについての陰湿な陰口や噂をばらまくことで憂さを晴らしているようだった。
残念ながらこの春同じクラスになっても関係修復のきざしはない。うっとうしいが正面切ってぶつかるほどでもない、というのが今のところひびきたちのスタンスだった。
「ま、ガキ相手にムキになってもしかたないよ、なんかしでかしたらそん時はあたしがとっちめてやるさ」
ミサがきっぱりと宣言してこの話は打ち切りになった。
せっかくのランチをしらける話で終わらせたくない、ということでそこからまたなぎさがひびきの恥ずかしい秘密を二、三暴露しておおいに盛り上がった。ひびきは憤然として抗議したが、少女たちははじけまくって結局昼休みが終わるまで笑い転げて過ごすことになった。
予鈴が鳴ってあわてて駆け出した時にはさっきの奇妙な感覚のことはもうひびきの心から消え薄れていた。
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