喫茶リリーヌの百合恋模様

○○○

第1話 「冬華は静かに猛っていた」

高架橋の柱に背を預け、タバコの煙をゆっくりと吐き出す。

頭上を走り抜ける電車の地響きに鼓膜を揺らされながら、立ち昇っていく煙が冷えた風に攫われていくのをぼんやりと眺めていた。


ふかしタバコはダサい、なんてよく耳にするけれど、こちとらこの煙を吹き出すビジュアルの格好良さに浸るためにタバコを愛用してるんだ。

でもなければ、こんなニコチンの塊を好んで飲み入れるものか。

その恍惚感こそ既にニコチンの魅了に取り憑かれた証だとも一瞬考えはしたものの、そんな思索ごと灰色の煙と共に灰色の空へと解き放った。


十一月も終わりにさしかかった街並みは、すっかり冬の凍てつく空気に覆われており、名は体を現すとするならば、アタシはその冬空の下で一際輝く一輪の花とも言えるのかもしれない。

即座に自分の馬鹿げた考えに呆れ笑いが込み上げる。

味気ないブラウンのパーカーのフードをセミロングの前髪へと目深にかぶせ、ボトムスにはどす黒いジーパンが、傷んだランニングシューズの半ばまで垂れ下がっていた。


冬華とうか”なんて煌びやかな名前を皮肉に感じるほどの有様だ。

しかし、なんてことは無い。アタシはこんなアタシを気に入っている。

色気の付け入る隙もないこのファッションも、化粧っ気の欠片もないこの素肌も、飾りっ気のひとつもないこの指先も、タバコをふかして悦に入るこの性格も。


あいつらとは違う。その一点の理由のみで、アタシは今のアタシをそれなりに気に入っているのだ。




『アイツ最近調子乗ってね?』


友達だと思っていた女どもが吐いたその台詞を偶然耳にした時から、アタシの生活は一変した。

メイクにかけていた時間のすべてがスマホを眺めるか漫画を読むかの時間に成り代わり、誰かと話したり遊んだりしていた時間のすべてが音楽鑑賞と無為な散策の時間へと変わり果てた。


学園にも長く顔を出していない。

今更あの教室の空気の中に舞い戻る気も無いし、あのレベルの学園を卒業したところで何らかの利益を得られるとも思えないので、このままフェードアウトしていくことになるだろうという確信もあった。


ぽっかり空いた日中の暇な時間をどうにか埋めるべく、賑やかな晩秋の街に飛び込んだのがちょうど一月ほど前。

特に行き先も約束も無いまま飛び出したものの、あてもなく街路を彷徨うのは思いのほか楽しかった。

帰宅と共にランドセルを玄関のど真ん中へと放り投げ、近所の林や廃屋を気の合う男子達と練り歩いたあの頃の感覚と酷似していると思う。

さすがに今の歳になって林や廃屋に押し入っていく勇気はなかったけれども。


というわけで、一月の間、あくせく働く外周りのサラリーマンや暢気に談笑するマダム達を横目に街中をくまなく渡り歩いたものの、それも三週間ほど続いた頃には飽きを覚えてくる。

(なお、それまで愛用していたスカートコーデは歩き回るのに不向きであることに途中で気付き、某大手アパレルショップで安く買い揃えた“自称”パンツスタイルに乗り換えた)


そうやって、あくせく働く外周りのサラリーマン達の横を無駄に汗水垂らしながら歩きつめた先に、素朴な佇まいの喫茶店があった。

ちらりと覗き込んだ店内には、着込んだ若々しいウェイタースーツとは対照的な、還暦近そうな白髪の爺さんが一人。

同い年くらいの女性、同い年くらいの男性、諸般の理由によりその両方への微妙な抵抗感を覚えていたアタシは、釣られるようにその喫茶店の中へと歩みを進めていた。


その爺さんは、その年相応に馴れ馴れしく、注文を出す前後に関わらずにべらべら喋りかけてきて正直ウザいのだけれど、その空気感が不思議と心地良いのか何なのか分からないが、気が付けばそれから一週間、ほぼ毎日足繁く通いつめていた。

コーヒーや紅茶の味の善し悪しはアタシにはよく分からなかったが。




高架下の排気ガスとタバコの煙に包まれた空間を這い出て、今日も件の喫茶店へとやってきた。

喫茶リリーヌ。焦げ茶色の看板を赤く彩って描かれたその文字は、周囲の雑居ビルの威容に呑み込まれそうなほど控えめな印象を受ける。

そんな素朴な佇まいが今のアタシの心情にちょっぴりマッチしてる気がするのだ。


アンティークチックな木製のドアを押し開いていくと、入店を知らせるベルが頭のちょっと上で静かに鳴り響く。

今どきBGMのひとつもかけられていない、十人も押し寄せればぎゅうぎゅう詰めになってしまいそうな手狭な室内だが、その主張しない質素な雰囲気に存外惹かれているのかもしれない。


「やぁ、いらっしゃい。また来てくれたのかい。いつもありがとうねぇ」


「ん」


昨日のそれと寸分違わないような爺さんの台詞に出迎えられながら、こちらもいつもと変わらず返事ともつかないような声を発し、カウンター奥の爺さんから最も距離の離れた四人がけのテーブル席へと腰を掛ける。


「紅茶」


傍らに備え付けられたメニュー表に目も通さずに、ぼそっとそう告げる。

コーヒーの種類も紅茶の種類も分からない毎度のアタシのぶっきらぼうな注文にも嫌な顔ひとつ見せずに笑って頷くこの爺さんは、実は自分でもそこのところよく分かっていないんじゃないかという疑惑を抱かざるを得ないが、しかしながら、出てくるコーヒーも紅茶もちゃんと美味しかった。美味しいってことしか分かんないけど。


「今日も見てのとおりの閑古鳥でね。君にはいつも助けられてるよ」


少し離れたカウンターの奥からそう笑いかけてくる爺さんの表情に、会ったことすら無い祖父の面影を重ねそうになるが、いやいや、惑わされるな。アタシはこの室内のゆるやかな雰囲気に惹かれて店を訪れてるんだ。こんな萎びた店長のご機嫌をとるために金を落としに来てるんじゃない。


その意思を表すために、意味もなく窓の外に顔を向けるも、そんなアタシの態度を気に留めるでもなく静かに紅茶の用意を続ける爺さん。

ほどよく干渉的で、ほどよく不干渉なその様が、今のアタシにはちょうどいいのかもしれないと、そんな柄にも無いことを思って、少しだけ頬を緩ませてしまうのだった。


「そうだ、鳴子。昨日話してたお客さんが来てるよ。お前も挨拶なさい」


明らかにアタシとは正反対の方向に投げかけられたその言葉に、緩みかけていた頬が一気にぎゅっと引き締まった。

は???え???


「はぁい、今行く~」


頬と身体を縮こまらせて動揺するアタシをよそに、スリッパがたてる足音が店の奥から近づいてくる。

え?誰かいる?聞いてねぇよ。そんなの聞いてねぇ。


「あ、ホントだ。お客さん入ってる~。めっずらしぃ~」


爺さんとは毛色の違った華美なその声色は、明らかに同年代の女性のものを思わせて、脳の片隅に眠らせていたトラウマをちくりと刺された感触がした。


「いつも来てくれる永山さんだ。さぁ、挨拶なさい」


そんなアタシの心情も他人事のように、アタシの名前を口にする爺さんに悪気が無いのは分かる。

それでも、見ず知らずの同年代の女と顔を合わせるわけにもいかず、傾きかけた視線を無理矢理窓の外へと貼り付ける。


「えぇっと、ながやま、さん?」


明らかにアタシに向けられた声ではあったが、それでも頑なに窓の外を睨んでいれば、その意図を汲んで諦めてくれるだろうと思い、面白味の欠片も介在しない寂れた街の風景を眺めていた。


「ながやまさ~ん」


そんなアタシの切実な心情とは裏腹に、声の発生源はテーブルの向かい側へとシフトする。

え?え???


いつものアタシながらガンのひとつやふたつも飛ばしていたのかもしれないが、あまりの馴れ馴れしいその態度に唖然としてしまい、ぽかんとした顔をソイツに向けてしまう。

てか、ウェイトレス姿。店員かよ。


「こっち向いてくれた~。よっろしくね~、ながやまさ~ん」


そのだらしなく間延びした声にはっとして、すぐさま顔を伏せる。

今のアタシ、クソダセェ気がするぞ。


「んも~、ちゃんと顔見せてくださいよぉ~」


そんなアタシのささやかな抵抗も虚しく、あろうことかこの女は身を乗り出してフードの中のこちらの顔を覗き込んできた。

え?え?ハァ???


「んお?」


そんな間の抜けた声と共に視線を合わせてくる女。

だから見るなって。この拒絶してる空気を...


「えぇぇぇぇ!?女の子じゃあぁん!?」


突然、目前で弾けた大声に再び唖然としてしまい、思わずその驚愕に満ちた顔を見つめてしまう。


「そんなカッコしてるから男の人かと思ったよ!?びっくり~」


こっちがびっくりだよ。こんな至近距離で躊躇無く叫ぶ生物が動物園以外に存在することに。猿かよ。


「てゆっか、んぅ~?」


そんなアタシの抗議と苛立ちの視線もどこ吹く風で、更にその顔を寄せてくる猿女。

薄いブラウンに染み上げられたロングの髪の先が顎先を掠めていく。

いや、近い近い近すぎるだろこのアホ。


「しかも、めっちゃ可愛いじゃ~ん♪」


息のかかるような距離でかけられたその台詞に思わずドキリとして、目の前に迫った瞳のその奥を睨みつけてしまう。


「んぅ~?」


その琥珀色に輝く瞳に吸い寄せられてしまうような気がして、妖艶な微笑を浮かべるその表情をしばし見つめてしまう。


「どしたん~?わたしも可愛い~?」


「へ!?えっ、あっ!?」


待て待て、吸い寄せられて――じゃねぇよ!何をぽけっとしてんだ、アタシ!?


「ねぇ~、ながやまさんは下の名前なぁに~?」


「な!?あ、ぁ、か、関係ねぇだろ!?おめぇにはよッ!」


「えぇ~、ヒミツかぁ。いいや、また今度聴こう~っと♪」


なんなんだよ、コイツ。このアタシが調子狂わされっぱなしだぞ、クソッ。


「てゆか~、こんな可愛いのにそんなカッコしてるのもったいないよ~。今度一緒に服買いにいこ~?おばちゃんが見繕ってあげんよぉ~」


茶化すように笑みをこぼすその面影はむしろ年下に見えるほどにあどけないのだが、何でそんなヤツに翻弄されてんだよ、アタシは。

そう思えば、未だバクバクと鼓動を鳴らす心臓も幾分か落ち着いたように感じ、それなら文句の一言でもつけてやろうと口を開こうとする。


「あ!そろそろ紅茶出来てるだろうから持ってくンね~、ちょいお待ち~♪」


喉まで出かかった文句の声は、しかし空気を震わせることもなく、みっともなく口を開けたままのアタシを残してカウンターの方へ引き上げていく猿女。

な、ななななな、なんなんだよ、コイツ!




「ね~ぇ、そろそろ名前おしえてよぉ~」


運んできた紅茶と共に図々しくもテーブルの向かい側に座り込んだ女店員は、相も変わらずキィキィと騒ぎ立てていた。


「だから、オメェには関係ねぇだろ、教えねぇよ」


なに寛いでだよ、コイツ。そのウェイトレス服は飾りかよ。客の前でどっしり腰を下ろす店員も店員だが、それを見てのほほんと笑ってるあそこのジジイも大概だぞ。

これ以上話すことは無いという頑なな意思を示すため、再び窓の外に視線を彷徨わせながら紅茶を啜る。


「ね~ぇ、その紅茶おいし~い?」


これ以上話すことは無い。はじめは殺風景に見えた昼下がりの街並みも、改めて凝視してみれば風流に見えないことも無いじゃないか――という感傷に浸った風を装い、猿女のこれ以上の介入を拒絶する。


「ね~ぇ、その紅茶おいし~でしょ~?」


あぁ、風景綺麗だなぁ。店員は最悪だが風景は最高。この店が口コミサイトに登録されているのなら、是非ともそう書き記しておいてやろう。

いや、けど、紅茶は確かに美味しい。それも追記してやらんでもない。


「わたしがた~くさん愛情込めて温めながら持ってきたんだぞ~、おいし~でしょ~?」


「ぶっ、かはっ、ごほっ」


「あぁ!?ちょっと~ひっど~い、吐き出すなよ~わたしの愛情をぉ~」


マジでなんなんコイツ!?

客からかって遊んで楽しいのかよ!?

楽しいんだろうなぁ、そのニヤニヤ笑いを見るにさぁ!

クソッ!


「いやぁ~、ながやまさんは可愛いなあ。こんな可愛い友達欲しかったんよ~」


そんな狂言を繰り出しながら、テーブルにこぼれた紅茶を紙ナプキンで拭き取っていく。

なんかもう色々納得いかねぇ。


「オメェさ、空気とか読めねぇわけ?」


思いっきりドスを利かせた声でそう告げ、暢気に紙ナプキンを畳んでいるその顔を睨み上げる。

空気が読めないなら力業で読ませるしかない。そんな喧嘩腰を惜しげも無く視線に乗せてガンつけたつもりだ。


「あぁ、空気!もぅニガテニガテ、超ニガテ~、ぜ~んぜん読め~ん」


そんな悪意の視線をあっけらかんと躱すようにけらけら笑われて、またもや唖然としてしまう。

本当になんなんだよ、コイツ。


「てゆ~かぁ、空気とか別に読めんくてもよくない~?自分は自分、他人は他人ってカンジじゃ~ん?」


あ、それは分かる。教室の床でたむろすように群がっていたかつての同胞達の顔が思い浮かび、そういえば自分もそんな場の空気に抗いたがっていた節があることに気付かされた。


「てかぁ~、ながやまさんも同類っしょ~?そんなカッコとかしてさ~」


あいつらとは違う。その想いが今のアタシを創りあげてるとするならば、『自分は自分、他人は他人』、その言葉が綺麗に胸の中に溶け落ちた気がした。


「なかまなかま~♪ともだちともだち~♪」


「いや、だからって友達じゃねぇから」


「もーぅ、つれないなあ!」


同類っていうのは、合ってるのかもしれないけれど。


「つーか、そうじゃねぇよ。オメェ店員だろ?客がまったり寛いでんのにぺちゃくちゃ話しかけてジャマすんじゃねーよ、ってハナシだよ!」


「んぇ~?わたし店員じゃないよ~?ながやまちゃん何ゆってンの~?」


店員じゃねぇのかよ!?てか、ながやまちゃんやめろ。


「じゃあその服装は何なんだよ」


「これは~、シュミよ~。だって、この服かわいいっしょ~」


はた迷惑な趣味だな。紛らわしいことこの上ない。


「ねぇ、かわいいっしょ?わたし、かわいいっしょ~?」


いや、まぁ、可愛いと言えばかわい――


「か、可愛くねぇし!」


「なにその反応~、オタっぽ~い!」


こ、コイツぅぅぅ!


「つまり、アタシはゆっくり茶ァ飲んでたいんだよ。ジャマすんなよ、アタシの憩いの時間をよ」


「ところで、ながやまちゃんさ~、なんでそんな喋り方な~ん?」


だんだんと理解してきた。自分に都合の悪い話は聞こえないフリするタイプだ、コイツ。あと、ながやまちゃんやめろって。


「喋り方に関しちゃオメェも他人のこと言えたクチじゃねぇだろ。露骨にあざとい話し方しやがってさ」


「えぇ~?だってかわいくな~い?このしゃべりかた~」


「同性からいちばん嫌われるヤツだからな、ソレ。ぶってるってやつ」


「んぅ~?言うてさ~、可愛くいることをガマンすることなくない~?自分がソレでシアワセなら十分じゃぁん?」


ん?あぁ、それは確かに分かる気がする。相手にどういう印象を与えるか、どう思われるかなんて二の次。鏡の前の自分を自分なりに好きになれるのなら、他者からの評価なんて介在する余地がないって思想は、アタシも無意識に抱えてたように思う。

つまりだ。


「だったら、アタシがどういう喋り方しようがアタシの勝手だろ。オメェにとやかく言われる筋合いねぇよ」


「え?あ、ホントだ~。こりゃ一本とられましたわ~♪」


「解ったら話しかけてくんな。アタシは一人でいたいんだよ」


そうしてカップに口をつけながら、アンニュイに窓外を見つめる。

今の決め台詞とその後のポーズは我ながらちょっと格好良かった気がする。うん。


「って、いやいや~、そうじゃなくってぇ、そんな透き通った可愛い声してンのに~、ムリクリ乱暴な口調で喋ってんのがホントおかしくってさ~。マジでなんでそんな喋り方な~ん?」


「ぶっ、かはっ、ごほっ、おえぇ」


「あぁ~、今のおえ~は可愛くないかも~、きったな~い♪」


そろそろ理解してきた。アタシ、この猿女がニガテだ。




紅茶一杯分の勘定が記されたレシートをカウンターに持って行くと、白髪のジジイがレジスターの前でニヤついていた。


「孫がじゃれついてしまって、申し訳ないねぇ」


申し訳ないと思うのなら、カウンターの奥でいつまでも薄ら笑いを浮かべてないで止めろよあのぶりっこ女をよ。てか、孫なのかよ。あんな猿みたいな孫を店内で堂々と解き放ってんじぇねえよ。


「ん」


なんて抗議の声をあげる気力すらまとめて吸い上げられた気がして、いつものそっけない態度のままレシートを差し出す。


「また孫と遊びに来てくれると嬉しいな」


いや、アンタの孫と遊びに来たわけじゃねぇから。客だぞ、こっちは。ベビーシッターが御所望なら余所を当たってくれ。


そんな苦言が頭には浮かぶものの、しかし、口をついて出ることもなく、閉口したまま勘定を済ませて店を後にしようとする。

急げ。アイツに捕まる前に。


「あっれ~?ながやまちゃん帰っちゃうのぉ~?」


げ。戻って来やがった。恥ずかしげも無く『トイレいってくる~』なんて言ってバックヤードに引っ込むものだから、その間にさっさとお暇させてもらおうかと目論んでいたのだが、予想以上に迅速な帰還だった。


「あぁ~、だったら最後に下の名前おしえてよ~」


スリッパの音を忙しなくパタパタ立てながら、片手を扉のノブにまで引っ掛けていたアタシの元に寄ってくる。


「だから、教えねぇつってんだろ」


「えぇ~なんでさ~。もうわたし達ともだちじゃ~んさ」


友達じゃねえっつの。そう見せるような態度を1㍉すらとった覚えがないぞ。


「だったら~、わたしも名前教えるからさ~、ながやまっちもおしえてよ~」


「オメェの名前も別に知る必要ねぇよ」


「いいじゃんさ~、また明日も来てくれるんでしょ~?」


いや、もう来ないから。

そう吐き捨てるはずだった唇が、何故か堅く結ばれたままだった。

あどけなさの残る顔つきに少しだけ妖艶さを醸し出したその微笑と、妙に視線を惹きつけて放さない琥珀色の瞳。

ウザいウザいと散々思いながらも、というか何度も口にすら出しながらも、それでもなんとなく相手を続けてしまったのは、何故だか微妙にその視線から逃れられなかったからなのかもしれない。


「来てくれる~?」


腰を傾けて上目遣いでにじり寄ってくるニヤけ面に、何故だか否定の言葉を吐き出せなくなってしまった。

いやいやいやいや、なんでだよ。


「考えとく」


そんな妥協したみたいな答えを出してしまった自分を即座に恥じた。

なんなんだよ、これぇ。


「あ~ん、もーぅ、かっわいいなぁ♪」


「って、わわぁ!?」


遂にはその距離を完全に埋めて腕へと絡みついてくるエセウェイトレス。

その感触に、胸の中からほんわりとした気持ちが――いやいやいやいや、そんなことないから!断じてないから!気のせいだから!


「わたしっ、鳴子。大河内鳴子おおこうち なるこ。気軽に鳴って呼んでくれるとうれし~な♪」


「呼ばねぇから。絶対に呼ばねぇから」


「だいじょ~ぶよ、いずれ呼ばせてみせるからっ」


呼ばねぇ。死んでも呼ばねぇ。今堅く誓ったわ。


「そんでぇ~?」


「なんだよ」


「そんでそんでそんでぇ~?」


分かってるよ。分かってるんだよ。チッ、クソ。

青春臭いオトモダチ同士の茶番劇みたいな舞台に自分が上げられてることに違和感が拭えないけれども、ちょっとは楽しかったんだ。ちょっとだぞ?ちょっとだけだぞ?

だから、まぁ――


永山冬華ながやま とうか


ぶっきらぼうにそう言い残して、へばりついたその腕を振りほどく。

ドアノブを引き込むと同時に、退店を告げるベルの音が静かに耳元でさえずった。

まぁ、名前くらい教えてやっても何か損するわけでもないし。


「気軽にとーかちゃん♪って呼んでくれるとうれし~な~?」


「なっ!?バ、バカ、フザけんな!」


「わかってるよ~、ばいば~い、冬華~」


顔が暑い。何なんだよこの茶番。友達ってこんなのだっけ?経験少なすぎてわかんねーよ。

店内からドアを隔てた向こう側、昼下がりの街並みの冷たい冬風が火照った頬を撫でていくのが妙に心地良く、そして、胸の中にどことなく寂しい気持ちを残していった。


終始、振り回されて、戸惑わされて、かき乱されて、でも、心の奥底からは謎の幸福感が湧き出しているような気もした。錯覚だろうけど。


「またな、鳴子」


だから、そんな歯の浮くような言葉が店の外に広がる灰色の空へと吸い込まれていったのも、きっと錯覚のはずだ――








(※未成年の喫煙は法律で禁止されています。良い子は真似しないようにしましょう!)

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喫茶リリーヌの百合恋模様 ○○○ @marumitsu

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