第3話

 僕は彼女の傍まで歩み寄りながら、遠慮気味に話しかける。


「鈴鹿さん、あの……」

「舞白でいいよ」

「ああ……舞白さん、こんな所で何してるの?」


 彼女は微笑みながら答えた。


「散歩してたの。悠人君もそうなの?」

「僕は猫を追ってたらここに……」

「猫……さっきいた子のこと?飼い猫なの?」

「いや、野良猫だよ」


 僕は後ろをチラッと見て言った。猫は再びどこかへ消えたようだ。猫を追って来て、まさか転校生と出会うことになるとは思わなかった。彼女は制服を着ているので、学校帰りにそのままここに来たのだろう。

 僕はふと下に視線を落とした。舞白さんの傍の地面には石が規則的に並んでいた。三十センチほどの石を中心に、小さな石が円を描くように敷き詰められている。その視線に気づいたのか、彼女は口を開いた。


「これはね、ヒモロギっていうの」


 彼女の口から出た単語は僕の頭の国語辞典に載っていなかった。


「ヒモ……何?」

「神と、たけかんむりに離れるって書いて神籬ひもろぎ。神籬は神様をお迎えするための依り代なの」

「へぇ、詳しいね」


 僕がそう言うと、彼女は控えめな口調で答えた。


「あー……うちの家業がそういう系なの」

「神社の子なの?」

「うん」


 実家が神社ということは、彼女は巫女になるのだろうか。


「巫女さんってこと? 家業を手伝ったりするの?」

「たまに手伝うこともあるかな」

「へぇ、どんなことするの?」

「祭事の準備とか、掃除とか、厄払いとか……」


 彼女は少し言葉を詰まらせた。


「……口寄せとか」

「口寄せ?」

「死んだ人の魂を自分に憑依させて、言葉を代わりに伝えることだよ」


 そこまで説明されて思い出した。いつかテレビで見た一場面。白い服のおばあさんが死者の魂をその身に宿して遺族と対談していた。イタコという名前だったような気がする。舞白さんもそういうことをやっているのだろうか?


「それって――」

 

 舞白さんの方を見ると彼女は不安げな顔をしていた。彼女の視線は少し下を向いている。僕は咄嗟とっさに言葉を飲み込んだ。


「――凄いね。まだ中学生なのに」

「え?」


 彼女は疑問符ぎもんふを発した。僕は言葉を続ける。


「学校行きながら家の手伝いもしてるんでしょ?」

「休日だけだよ」

「休日こそ自分の好きなことしたいけど。じゃあ、夏休みはずっと忙しいの?」


 七月下旬に差し掛かりつつある今日、僕の学校ではもうすぐ夏休みが始まろうとしていた。夏休み中は海水浴や夏祭りなど学生にとって楽しいイベントが多々ある。しかし、彼女はそうもいかないらしい。


「去年はほとんど毎日手伝ってた」

「めちゃくちゃ大変だ……そう言えば、部活とか入るの?」

「今のところは考えてないかな。悠人君は写真部なの?」


 舞白さんは僕の首にかかっているカメラを見ながら言った。


「うん、入部するなら歓迎するよ。休日に集まることはほぼないし、基本的に個人活動だから自由にやれると思う」

「猫をストーカーしたり?」


 舞白さんは僕をからかうように言った。


「ストーカーってそんな……いや、確かにそうかも」

「冗談だよ」


 そう言って彼女は笑った。先ほどの不安げな様子は消え去っている。僕は安心感を覚えると同時に面白くなってしまって、つい笑ってしまった。


「ねえ、ちょっとカメラ触ってもいい?」

「ああ、全然いいよ」


 僕がそう言うと、舞白さんはカメラを手に取った。カメラ全体を観察しながら彼女は言う。


「大切に扱ってるんだね」

「まあ、大事なカメラだから」


 それに対し、彼女は微笑んで言う。


「きっと、そのうち神様が宿やどりに来るよ」

「神様、か……」


 彼女の話を聞いた僕は、頭の片隅にあった知識を思い出した。八百万やおよろずの神の話だ。山や川などの自然の他、人が使う道具にも神様が宿っているという。

 僕は足元の石に視線を向けた。先ほど聞いた神籬の話と合わせると、この石にも神様が宿っているのかもしれない。


「この石にも神様がいるのかな」


 僕がそう言うと、彼女は石にそっと触れながら言った。


「多分……ここにもう神様はいないと思う」

「そうなの?」

「うん、今の神様は神社に住んでるから」


 彼女はそう言って神社の方を見た。彼女の言い方には少し哀愁のようなものが含まれていた。

 彼方の雲はオレンジ色に染まり、林のシルエットが浮かび上がる。日が地平の先に隠れて辺りは急に暗くなり始めた。周囲にはカナカナというヒグラシの声がこだましている。僕は舞白と共にすずしい風が吹くよいの街を歩いていた。


「あ、猫だ」


 舞白さんが言った。彼女の視線の先を追うと、あの白猫が家の塀の上を歩いていた。二人が近付くと、猫は塀から降りて傍に寄って来た。


「さっき言ってた猫ってこの子?」


 彼女はしゃがんで猫のことを撫でながら尋ねた。


「うん。人懐っこい猫だよね」


 猫はだらんとお腹を見せて地面に寝転び、なされるがままに撫でられていた。心底リラックスしている様子で、目を細めて今にも眠ってしまいそうだった。


「可愛い……」


 そんな時だった。不意に猫は体を上げて硬直した。白い毛並みがサッと立ち上がったのが見える。そして、次の瞬間にはどこかへ走り去ってしまった。


「どうしたんだろう……ん?」


 僕が周りを見渡すと、道の先に何かいることに気が付いた。それは灰色の犬だった。首輪などは付いていない。


「野犬?」


 野良猫ならよく見るが、野犬は初めて見る。以前、人が野犬に襲われたというニュースを見たことがあったため、僕は恐怖心と警戒心を覚えた。横にいる舞白さんの方を見ると、彼女の顔は蒼白だった。動揺した様子で目の前の犬を見ている。


「大丈夫?」

「ねえ……あれ、何に見える?」


 彼女の声は震えていた。僕は犬の方を見た。今のところ犬はその場でじっと動かずこちらを見ている。ただ、このまま進めばこちらを攻撃してくるかもしれない。ここは一度距離を取った方がいいだろう。


「さあ、犬はあんまり詳しくないから種類は分からないな」


 僕はそっと彼女の腕に手を伸ばし、後ろに引っ張ろうとした。


「ゆっくり下がろう。できるだけ目は合わせないで」

「違うの……そうじゃないの……」


 彼女はその場で動かず、視線は犬に釘付けになっている。すると、犬がゆっくりとこちらに歩み始めた。僕は強めに彼女の腕を引く。


「危ないから早く離れよう」

「あれは犬じゃない……!」

「いいから早く――」


 僕はそこまで言うと言葉を失った。その犬の肉体には犬のような毛並みがあり、目には犬のような瞳があった。しかし、街灯に照らされ地面に写る犬の影は、肉が削がれて骨が剥き出しているかようにスカスカで、さながらレントゲン写真のようだ。それは大きくゆらぎ、膨れ、波うち、躍動やくどうしている。首筋に冷たい感覚が走り、僕は思わず身震いした。


「行こう!」


 僕は舞白さんの手を取って駆け出した。それとほぼ同時に、犬も走り出してこちらに接近してきた。

 数秒走ったところで、僕は後ろに視線を送った。目に映る世界は限りなくゆっくりと動いている。伸ばした僕の手、それを掴む舞白さんの手、ピンと伸びる腕、その先に見える彼女の顔、瞳……その背後に化け物が迫っていた。その体は黒いもやのようにかすみ、白いイヌ科の頭蓋骨ずがいこつだけが闇の中に浮かんでいる。その姿は犬のものではなく、生物のものでさえない。


 視界の端で舞白さんの足がもつれる様子が見えた。化け物は大きく飛び掛かり彼女に覆いかぶさらんとする。僕は力の限り彼女を引っ張り、もう一方の手で化け物を遮った。僕の手が化け物の頭に触れると氷に触れたような冷たさを覚えた。

 その時、僕は足元に浮遊感を覚えた。眼下を見てみると草木が生える急斜面が見えた。道の端が土手になっていることに気付かず足を踏み外したのだ。舞白さんの方を見ると、彼女も体勢を崩して斜面に落ちようとしている。

 落下する中で僕は化け物と目が合った。その乾いた眼窩がんかはがらんどうで何も写さない。それが僕が最後に見た光景だった。

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