四章

 どうやら眠ってしまっていたようだ。

 寝る――という予備動作さえ覚えていないほど唐突に寝てしまったらしい。口には飲み込めてない食べ物が残っていた。

 噛むと小気味の良い音を立てた。

「生野菜――?」

 ニンジンらしい。

 こんなものにまで手を出していたとは――タイセイは苦笑した。全く記憶が無かった。

「よう、お目覚めか」

 カルが横に座っていた。

 窓から差し込む朝日に、たてがみが鈍くきらめいた。

「おはよう、カル」

 勝手な名で呼ぶな――と、カルは面倒くさそうに言った。

「それよりも体調はどうじゃ?」

 タイセイは起き上がった。軋む関節と縮んだ筋肉をストレッチで解放する。

 クフノセと戦ってからまだ一日も経っていない。エイミに連れられ、門のところで治療を受けた時よりも回復していた。

 火傷はほとんど完治している。

 昨晩は無理をしてあれだけ動けていたのだ。この状態ならもっと戦える。

「〈あやかし〉を宿すと回復が早いのかな」

「――さあな。常識を逸した存在になるのじゃ。ありえないこともありえるじゃろう」

 タイセイは頷いた。

「いい調子。すぐにもいけるね」

「それは良かった――来るぞ」

 え――とタイセイはそれ以上聞き返せなかった。

 窓を突き破って大きな影が飛び込んできたのだ。

 身体が反応していた。影に向かって左の蹴りを振り回していた。

 同時にカルも動いていた。

 タイセイの蹴りとカルの右ストレートを受けた影は、その姿を晒すことなく入ってきた窓から出て行った。

「なんだ?」

「見ての通りの襲撃じゃ。乗り越えるぞ」

「襲撃――?」

 タイセイは走り出した。遅れてカルが付いてくる。台所からそのまま階段を上る。

「小僧――?」

「男の子と女の子が――」

 カルが妙な沈黙でついてくる。気にはなったが、タイセイは兄妹を探した。二つある部屋にその姿はなかった。

 階下で何者かが侵入した音が響いた。気配は複数ある。

 子供部屋らしい室内を前にタイセイは立ち尽くしていた。

「彼らは下か――」

「気付いておらんかったか? あやつらなら出て行ったぞ、夜のうちにな」

「なんで――?」

「まずここから出るぞ」

 カルが窓に向かって走った。ガラスを突き破って宙で回転、屋根の縁に掴まった。

 タイセイも同じく屋根の縁に飛びついて、足を振って下半身から上へ登った。

 同時に体勢を低くする。

 頭のあった位置を斬撃が通り過ぎた。

 身体を捻って蹴りを打ち込む。

 めきめき――と音を立てて影が屋根を転がった。

 両手が鎌の、カマキリのような〈あやかし〉であった。

 カルも別の〈あやかし〉を相手にしている。

 両手の突きを連続で打ち込んだ。

 シカの角のようなものが見えたが、倒れこむとそのまま下へと落ちていき、姿は見えなかった。

 上空に飛ぶ〈あやかし〉の姿が三つ見える。

 囲まれていた。

 明らかにタイセイを狙った襲撃である。

「どうして、ここが――?」

「分からぬのか?」

 カルが走り始めた。

 タイセイもそれに続いた。上空の三匹が下降してきたからだ。

「さっきから、どういうこと?」

 通り抜けざまに、起きかけていた〈カマキリ〉を蹴り飛ばし、屋根から落とす。

「あのガキどもは夜抜け出したんじゃぞ。そして私らが襲われた――ここから導き出される結論は一つじゃ。あいつらが情報を漏らしたからじゃ」

「捕まった――ってこと?」

 なら良いがな――とカルは大きく横へ跳んだ。タイセイも逆方向へ跳ぶ。

 その間を二匹の鳥系〈あやかし〉が通り過ぎる。

 カラスにも似た黒い姿で、鋭角的な翼が瓦を切り裂いた。

 滞空しているワシに似た〈あやかし〉が翼を振る。影が数本飛んでくる。

 タイセイは転がってかわした。

 羽根が瓦に突き刺さった。

 タイセイは両手に瓦を持った。

「戻ってくるぞ」

「肩に乗って」

 言いながらタイセイはUターンで戻ってくる〈カラス〉へ瓦を投げた。

 一匹にはカウンター気味に直撃する。もう一匹には時間差で投げたためにかわされた。

 否――かわさせたのだ。下側に投げ、上空へのコースをとらせた。

 タイセイはそいつに向かって走って近付いた。肩にはカルが乗っている。

 二人がいた辺りで、羽根が瓦に突き刺さる硬い音がした。

 瓦に気をとらせ、間合いを自分のものとしたのだ。

 タイセイは〈カラス〉に飛び乗った。

 〈カラス〉の上へ上がろうとする力を利用し、タイセイはさらに上空へ跳ね上がった。

 〈カラス〉は踏み台にされ、バランスを失い屋根へ激突した。

 それを確認することなくタイセイとカルは宙の〈ワシ〉を見た。

 〈ワシ〉は羽根の刃を打ち出した直後で、動きがとれない。

 しかし、こちらも方向はあっているが、距離が足りなかった。

「だめじゃ――これでは届かん」

「やってから言って!」

 タイセイは、カルを滞空する〈ワシ〉へ押すように放り投げた。

 確かにタイセイとカルの有効範囲外であったかもしれない。しかしカルが上空へ上がる力に、今度はタイセイが引き上げられた。それが届かない距離を埋めた。

 遠慮の無い拳が〈ワシ〉を叩き飛ばした。

 もんどりうつように遠ざかっていく〈ワシ〉を尻目に、タイセイは重力に引っ張られた。バランスを取り、なんとか足から着地した。

 重みで割れた割れた瓦が屋根を滑っていく。

 すと――とカルも着地した。Vの字が揺れる。

「無茶をする――」

 カルの言葉は耳に入らなかった。

 遠く、大通りを渡った向こう――公会堂の陰にあの兄妹の姿が見えた。

 捕まっている様子は無い。兄の方が何かを〈あやかし〉に訴えている。

 訴えられている巨大な体躯の〈あやかし〉はあざ笑うように指示すると、他の〈あやかし〉に二人は取り押さえられた。

「二人が危ない!」

「そうか? 自業自得ではないか」

「どういう意味さ」

 おぬしは鈍いの――と、カルは横へと並び、同じ方向を見ながら続けた。

「〈あやかし〉たちは私らの存在に果たして気付いておったであろうか――答えは否じゃ。おぬしが河原にいなければ、おぬしの存在には気付けても、私に気付ける道理はない」

「昨夜倒したやつらは――」

「語る口があるまい。――だが今のやつらは私に動じることなく襲ってきた。知っておるのじゃ。おぬしが〈背世者〉になっていることを――」

 カルがゆっくりと見上げた。

「では、誰から?」

「そんなこと――」

 本当に鈍いね、君――と、屋根を突き破ってきた影にタイセイは吹き飛ばされた。

 タイセイは瓦を鳴らして転がった。

 立ち上がったが、さらに背後の屋根を突き破って現れた尻尾に身体を絡め取られた。

 カルもタイセイに気を取られたせいで、二匹の〈トカゲ〉に挟まれていた。剣のような爪が突きつけられている。昨晩戦った〈あやかし〉と似ている。

 タイセイを吹き飛ばした〈あやかし〉が腕を組みながらニヤニヤしている。見えているのは上半身のみであるが、屋根の下からタイセイを捕らえているこの尻尾に繋がっているのは容易に想像ついた。カエルのような顔であるが、尻尾はヘビのようであった。

「君は犠牲にされたのだよ、あのガキ二人に」

「――どういうことさ」

「君の情報を提供する代わりに自分たちだけ助かろうとしたんだよ」

「さっきボクが見たのは――」

「そんな条件、こっちが呑む理由はないからな。君の情報はもらっておくし、あのガキも村の連中と一緒に強制連行――約束が違うと泣き叫んだ所だろ」

 〈カエル〉 が小馬鹿にしたような表情でタイセイを見た。

「君なら――〈あやかし〉を宿した〈背世者〉なら、犠牲にしても構わないと思ったんだろうね」

 音が洩れるような声で笑って続けた。

「同情するよ、君に――」

 タイセイの中で何かが弾けた。

 叫んだ――いや吼えた。

 身体を揺すった。

「騒いだ所でその尻尾からは――」

 〈カエル〉の顔色が喜色から憂色へ変わった。

 尻尾が千切れたのだ。

 否――引き千切ったのではない。刃物で切ったように綺麗な切れ口を見せて尻尾は瓦の上に落ちた。

 別な生き物のように尻尾がのた打ち回った。

「小僧、落ち着くのじゃ!」

 カルの声はタイセイに届かなかった。

 タイセイは無意識であったが、左腕を大きく横に振った。

 〈カエル〉が家屋内へ引っ込んだ。

 カルも伏せた。

 二匹の〈トカゲ〉だけが立っていた。

 ずる――と、その身体が上下二つに分かれた。水気の多い音を屋根上にまき散らかせた。

 タイセイはそれに何の感慨も持たずに、大通りへ向かって走りだした。

「どうする気じゃ」

 答えず、タイセイはそのまま宙へと飛び出した。

 飛びながら振り向き、左腕を斜めにその民家へ振り下ろした。

 石畳の上へ降り立つ。

 一呼吸遅れ、建物が左腕の描いた斜めの軌跡で上下にずれた。

 上部分が隣の建物を押し潰しながらずり落ちていく。

 轟音と共に埃が巻き上がった。

 中を晒す建物の中に、さっきの〈カエル〉の下半身が残っていた。一緒に斬られたのだ。

 その上半身は裏口を目指してまっすぐ走って行った。が、やっと自分の状況に気付いたかのように、渦巻く埃の中へ倒れこんだ。

 タイセイはその後を見届けることなく、身体を公会堂へ向けた。

「小僧――正面から行っても勝てんぞ。分かっておるのか」

 カルが立ち上がってタイセイの肩を押さえた。

 タイセイはそれを振り払って大通りへと飛び出た。

 もう何も考えたくなかった。

 ただ真っ直ぐ公会堂を目指すつもりだ。

 カルも走ってついてくる。

 稲光が頭上で走った。

「来るぞ、雷じゃ」

 タイセイには耳に入らなかった――否、入ってはいたが、頭の中で言葉が意味を成さなかった。

 石畳を駆ける音が雷音にかき消された。

 雷光が踊るように迫る。

 確実に二人は捉えられていた。引いても、進んでも、巻き込まれる位置である。

 視界が白く染まった。

 ――その時であった。タイセイの速度が上がった。

 ぐんと足を引っ張られるように石畳を滑っていた。

「またか」

 とカルはため息のように言うと、タイセイの右肩に飛び移った。

 雷の接近速度より速い。

 雷光が数本に分裂した。一本一本の光量は弱まったが、速度は増した。左右に交差するように揺れながら、タイセイを追ってくる。

 カバー範囲が広く、タイセイの移動速度では逃げ切れない。

 豪音の中、足下から水を切るような音が聞こえてきた。

 それが何かと考えている余裕は無かった。

 ただ、氷の上を滑っているような感覚は、もっと速く、そして小回りを利かせられることも伝えていた。

 ならば――と、タイセイは横に滑り、乱立する稲光の隙間に入っていった。

 自然界の雷ならいざ知らず、クフノセが作り出した術ならば、当たらなければダメージはない。

 白い世界で、タイセイは一瞬間に抜け道を見抜いた。

 ジグザグに軌跡を描いて雷をかわし、道の対岸へ文字通り滑り込んだ。

 速度は落ちない。それどころか増していた。視覚もまだ戻りきっていない。にもかかわらず、タイセイは止めようともせずに路地へと折れた。ギリギリのコーナリングであった。

 T字路だ。正面に郵便局が見える。

 コントロールが効かない。方向を変えることも止める術もなく、スピードだけはさらに増した。このままでは激突は避けられない。

 ったく――と、カルが実体化しながら飛び降りた。足を地に付ける。ブレーキをかけるつもりだ。

 だが、勢いは全く弱まらない。

 逆にカルが引きずられてしまった。バランスを崩して倒れそうになる。

 カル――と、タイセイがそれに気付いた時、足元で滑るような感覚が喪失した。

 走行が止まった。

 タイセイはその速度で身体を放り出されてしまった。背中から郵便局のドアへ一直線に飛ぶ。

 その時であった。

 むず――とした感触が背中を引っ張った。それが起こした風が、ふわりと空中間での速度を相殺する。――が、止まりきらずに身体はドアへ激突――のはずがまたしても、クッションのようなものが衝撃を奪っていた。タイセイはその姿勢のまドアに張り付いた。

 遅れて引きずられていたカルが飛んでくる。

 タイセイは両腕を持ち上げた。しかし受け止め切れなかった。カルにはあの相殺が効いていなかったのだ。勢いに乗ったカルは体重以上になっていた。タイセイはその重みを胸で味わった。

 それを待っていたかのように、風とクッションが消え、二人は地へと落ちた。

 タイセイは思いのほか息が切れていた。力も入らなかった。

 遠くでまだ鳴る雷音が、逆にタイセイの周りの静けさを強調している。

「小僧、落ち着くのじゃ――今、おぬしは三匹の〈あやかし〉を発動したのじゃぞ。そこにおぬしの意思は存在していない。激情のみじゃ。そんなものでコントロールできるものではない。平常心を保つのじゃ。それに――最後の一体は絶対に発動してはならん」

 カルが息切れ切れに言った。

 タイセイは何も答えない。身体を起こすと、公会堂へと歩き出した。

「聞かんか」

「助けるんだ」

「分かっておる――じゃが――」

「助けるんだ、この状況から」

 タイセイの独り言は、自分に言い聞かせているようであった。

「誰も悪くない。この状況が悪いんだ。追い詰められた人間は心まで歪ませる。だから他人を犠牲にできる。あの兄妹だって――」

「小僧――」

 タイセイは走り出した。カルも横を併走してくる。

「君に約束したようにボクは生きなければならない。だけど皆を救うためなら、ボクは非情にだってなってみせる」

「らしくないな――」

「ボクは何一つ変わってない。これがボクだ」

「確かに変わってはない。じゃがおぬしは自分自身を見失っておる。だから『らしくない』と言っておるのじゃ」

 タイセイは静かな町並みを走り抜ける。

 公会堂は言葉無く、いつもの場所でタイセイを待っていた。

 新しい公会堂は二年前に出来たばかりだ。旧公会堂は手狭になってしまったが、そこはバドウ村を開拓した人たちの拠点でもあるから、その志を後世へ伝えるため残すことにした。だから建て直しではなく、広場に新設という形を取ったのだ。広場は狭くなったが、誰も文句を言わなかった。

 そこにあるだけで祖先たちの血潮を感じる――と、誰かが言っていた。

 古いものを尊び、新しいものも受け入れる。バドウ村の特長であった。タイセイの好きな村であった。

 しかし、人がいてこその村である。誰も住まないのなら、存在意義はなくなる。

「たとえ建物が壊されたって、人がそこにいれば――生きてさえいれば、また村はよみがえる。何度だって――」

 タイセイは公会堂のドアをおもむろに開けた。

 陽日が空間を二分していた。

 奥の方に異形の集団がタイセイを待っていた。

「だから皆を無事に取り戻すんだ」

 タイセイは中へずい――と入り込んだ。

 カルも続く。後ろ足で立っている。前足の指をバキバキと鳴らす。

「何ぶつぶつ言ってんだ」

 と、異形の集団の先頭に立つ〈あやかし〉があざけるように言った。

 他の〈あやかし〉より頭二つも大きい体躯に見覚えがあった。さっき兄妹と話していた〈あやかし〉である。圧倒的な肉厚は昨日の〈水牛〉の比ではない。頭に角が見えるが、全体的な印象は〈クマ〉であった。

「全くバカだな、人間のガキってのは――良い情報を渡すから逃がしてくれ――だとよ」

「良い情報じゃったろ」

 カルが横で言った。

 すぐ横にいるはずのその声が、どこか遠い所からの木霊のように聞こえる。

 ぬかせ――〈クマ〉の声だ。しかし自信はない。

 自分の五感全てが人ごとのように感じた。目に映る全てが、他の人の目を借りて見ているみたいなのだ。

「もっとバカはお前だ。あんな音を立てて派手にやってくれば迎え撃ってくれと言っているも同じだ。ましてや、勝てると思っているのか、たった一人で――」

 この言葉は外から入ってくるのか、内から響くのか――。

「お前はあいつらを助けに来たのか? 遅かったな。もうここにはいない。既に駅に連行した。ま、行ったところで助けられんよ」

 タイセイはざわ――とした感覚を首筋に感じた。

「小僧、聞き流しておけ」

「助けたって感謝どころか恐れられるだけだ」

 黒い何かに覆われていく喪失感が全身を包む。

「弾き出されるんだよ、あの兄妹のような態度でな!」

 ぷつ――と、何かが切れた気がした。

「手のかかる小僧じゃ――」

 カルのその声を最後に、全てが消えた。

 眠りではない。泥のような空間に放り込まれたようである。安らぎとは無縁の世界だ。上も無く、下も無く、自分そのものさえ無い――。

 このままでは死ぬ――。

 それほどの重圧がありながら、タイセイの心を満たしているのは恐怖ではない。

 使命感だけが彼を保たせていたのだ。

 ボクが生きなければ誰も助からない――と。

「なんでお前はそうなんだ」

 また声がした。

 川原で聞いた声とは違うようだ。

 イメージ的に言うと、川原の方が澄んだ青なら、こちらは質量を持った暗藍色――といったところだろうか。

 声の響きが続く。

「他人のため他人のためって――」

「ひとを守ろうとする力は強いから――」

「詭弁だ――お前は他人に良く見られたいから、そう思おうとしているだけだ」

「そんなことは――」

「だからガキ二人の視線に負けるんだ」

「負けたつもりはない」

「違うね――それはお前の持論らしいが、間違ってるよ」

「どこが?」

「こればかりは心の戦いだ。折れたら戻ることはない。言葉で認めなくともお前の心は既にくじけている」

「なにを証拠に――」

「先の戦いでガキがいないことをお前は必死に正当化しようとしていた。捕まったから助けなければ――なんて思い込んで、挙句の果てに真相を知って動揺――大暴れ。充分証拠になるだろ」

「負けた証拠にはならない」

「いいや、なるね。お前は、あいつらが村の仲間と見てくれていないのを知っていた。お前を異質な者として扱う態度に、お前は既に打ちのめされ、負けていたのだ」

 タイセイは、その声の言葉が重みを持ってくるのを感じた。

「生きるためにお前を人柱にした、あいつらの方が強いと思うぜ。だってそれが人間の本性だろう。それをできるのが心の強さであり、人間の証明じゃねえか。だが――お前にはそれがない」

 その重みが何であるか――徐々にタイセイの心で結論が形作られてきた。それは泥の底から一気に浮上させてくれるような力があった。

「弱い力で守れるものなんて限られている。ならばお前に守れるもんなんて僅かしかない。それに気付け! 自分だけを生かすこと――それだけで良いじゃないか」

「そうか――」

「やっと気がついたか」

「ボクは弱かったんだね。だから負けたんだ」

「その通りだ」

「だからこそ強くならなければならないんだ」

 声が息を呑むように引いた。

「自分を守るために強くなる。ボクがボクであるために――それが最低条件。強くなれば守れる範囲は自ずと広がる」

「それは違うぞ――」

「大丈夫。もう迷ったり、くじけたりしない」

 泥のような感覚が喪失していくに従い、声はその存在を霧散させるように消えていった。

 それは覚醒を意味していた。

 静かだった聴覚が何かを捉え始めた。肌の触覚も、嗅覚も外界の情報を伝え始めていた。

 どれもタイセイにとって良いものを伝えていない。

 目が光を受け止めた。まぶしさに開いた目がまた閉じる。

「よう、お目覚めか」

 カルの声がした。

 三度目の目覚めの挨拶であった。前の二回と比べ、不快感が顕であった。

 タイセイは目を明かりに慣らすように、薄く開けながら起き上がった。

 まず鼻に伝えていた悪い情報の正体がわかった。

 ――血の臭いであった。

「これは――ボクがやったの?」

「正確にはおぬしの中の〈あやかし〉じゃ」

 公会堂は〈あやかし〉の死体で埋め尽くされていた。

 五体満足はひとりもいない。

 床一面どころではなく、壁や天井まで鮮血は飛び散っている。

 何をどうすればここまでなるものなのか――。

「私は発動させてはならんと言ったはずじゃ。」

「一体、何が――? それに〈あやかし〉はもっといたはず――」

「喰われおった」

「――誰に?」

 愚問であった。状況を見れば、タイセイの中にいる〈一体〉の仕業でしかない。

「ここにいるのは喰いきれなかった連中で、弄ぶように食い千切りおった――全てな」

 四、五十匹は軽くいたはずである。それが逃げる間も与えなかった――ということか。

 クフノセが言っていた強い〈あやかし〉とはそいつだというのか。しかし――。

「危険すぎる――」

「その通りじゃ。おぬしにはコントロールもできない。しかも〈あやかし〉だろうとなんだろうと全く見境がないやつじゃ。ここにもし村人がおったら――助けるはずの者まで食い殺しておったのじゃぞ」

 カルが姿勢を変えずに吐き捨てるように言った。

 決してひとじゃないから良かった――とも言っていない。カルだって相手の命を奪わないわけでもない。殺すことを正当化することはしない。ただ、楽しんで行って良いことではないのだ。

 カル=〈リオン〉=〈あやかし〉――という生物上の見方がこれを認められないのだ。

 どんな動物でも自然の一部である以上、その生態系を崩すことはしない。自らの楽しみのために他の命を縮めるような狩りはしない。

 そういう意味では、タイセイの中にいる〈一体〉は動物でないのだろう――だからカルは発動するなと言っていたのだ。

 タイセイは再びこの惨劇を目に焼き付けた。

 これは自分が弱かったから起こった結果なのだ。このままであれば、矛先は大事な人へ向いてしまう。

 だからもっと強くなろう――と。

 もう一つ、タイセイはあることに気がついた。

 風の冷たさと光の位置――それはもう朝のものではない。

「ボクはどのくらい眠ってたの――?」

 カルは答えに窮していた。相変わらず姿勢を変えることはしなかったが、その背には動揺が見てとれた。

「半日ほどじゃ――じゃが私は起こすつもりはなかった。このまま夕刻が過ぎれば良いと思っておった」

 カルの優しさなのかもしれない。

 夕刻を過ぎてしまえば、村の人たちは列車で連れて行かれてしまう。間に合わなければ戦う理由が無くなるのだから――。

「大丈夫、今から行けば充分間に合う」

「私は賛同できん――おぬしはこの過ちを繰り返す気か」

 タイセイは軋む身体を起こし、立ち上がった。

 小僧――と、カルがたしなめるような声で振り向いた。

「大丈夫、もう負けないから」

 カルが少しだけ目を見開いた。

「なにがあったのじゃ?」

「ボクの弱さに気付いただけ――」

「おぬしの弱さ?」

「今まで僕にあったはずのもの――暖かさ、信頼、友情――そんな全てを失ってしまうことへの脅え――かな」

「失う覚悟が出来た――ってことか」

 タイセイは首を横に振った。

 公会堂のドアへ向かう。倦怠感が残っているが、動けないほどではない。

 カルが付いてくる。

「失うもののない人に未来も進歩もないよ。それではこの先戦っていけない」

「この先――?」

 外はもっと肌寒かった。だが、そんな空気が緊張感を高めてくれた。

「ボクはクフノセを倒し、〈あやかし〉たちからみんなを解放すれば、前の日常が取り戻せるとずっと信じていた」

「違うのか?」

「少なくてもボクに戻ってくる日常は以前のものとは違う」

「私らを宿したせいじゃな」

「それはあくまできっかけであって、ボクの決心とは関係ないよ」

 公会堂を回りこむと視界が開ける。右手に大通りの石畳が伸び、正門へと向かっていた。左手は広場で、新館建設により狭まったとはいえ、村の憩いの場としては機能している。大きなイベントには近隣からも人がくるので裏門の野原を利用するが、内輪のイベントには充分であった。

 思い出の一つも浮かびそうだが、タイセイの意識は皆を助けることに向け直した。

 広場を横切る。足は旧公会堂へと向いていた。

「あの兄妹の態度、視線、対応、全てがあの二人独特のものだと思い込もうとした。ボクを知らないからできることなんだ――って」

「おぬしの知人だからとて有り得ん話しではない――ということか」

 ボクはそれが何より恐かった――と、タイセイは頷いた。

「その関係のままずっと村で暮らしていけるかが不安だった。失くした信頼を取り戻すまでの年月を耐えられるかどうか――」

「追いかけていけば、まずその視線に会うんじゃ。今度、暴走したら、あれでは済まんぞ!」

 タイセイは後ろのカルを振り向いた。

「どこへ逃げたって一緒なんだよ、カル」

「なに――?」

「それがボクの弱さの原因だったんだ。それから逃げようとしたから暴走したんだ」

 カルがVの字の飾りの下に皺を寄せた。ちょっと困ったときの表情のようだ。

 タイセイはそこに妙な人間臭さを感じた。

 カルがもっと好きになれそうであった。

 そんな気持ちを今は出さないように隠しながらタイセイは続けた。

「そこに気付けばもう一つの道が見える」

「逃げない道か?」

「結論から言えば、ボクはみんなを助け出したら村を出る」

「逃げるのか、やはり」

 ちょっと違うよ――とタイセイは首を横に振った。

「あの視線はどこへ行ったってつきまとうんだよ。ましてや新しい土地に行ったら、よそ者の上に〈背世者〉だ。もっとひどい目に遭うかもね」

 カルが目を逸らした。表情に苦痛が見える。

 責任を感じているのだ。

 タイセイはカルの目線の位置までしゃがみこんだ。

「カル、君のせいじゃないって――。何度だって言うよ」

「小僧――」

 Vの字がタイセイに視線を戻した。

「ボクはさっき君たちを受け入れるって言った。――それは『関わる全て』を受け入れるってことだ」

「全てを受け入れる――?」

「どんな感情も、ボクへの新しい評価として受けるべきなんだ」

「新しい評価――」

「そう――過去を取り戻すのではなく、未来を手に入れるんだ」

 タイセイは立ち上がった。

「そのためにボクは戦う」

「清算ではなく創生――ということか」

「それがみんなの未来もより良いものにする――そう思い至ったんだ」

 旧公会堂のドアは開け広げられていた。

 通常は閉まっている。村の開拓当時の思い出や、いざという時の物資が収納されているからだ。

「ボクはボク自身の道を切り拓くためにこの村を出る。そのためにはみんなを助け出し、会ってそのことを告げなければならない。――けじめなんだ」

「じゃあ、暴走しないと言い切れるのか」

「大丈夫」

 に――とカルに笑いかけると、タイセイは中へと入った。

 旧公会堂は必要以上に荒らされていた。〈あやかし〉たちが村人を探していただけではない。保存食を取り合って暴れたかのように、喰い散らかされていた。

「ひどいな――」

 入り口の辺りでカルが嫌悪感を隠さずに言った。

「でもおかげでこいつには気付かずにいてくれた」

 タイセイは奥の隠し扉を開けた。

 部屋――というよりは物置に近い。そこに三輪の乗り物が二台、置かれていた。

 大きめのゴム製車輪が前に一つ、後ろに二つ。中心部にイスが付いていて、前輪に連動したハンドルがTの字で付けられている。

「なんじゃ、それは――?」

「これは自走式三輪車――これで時間の遅れを取り戻す」

 タイセイは言いながら旧公会堂の外へと出した。

 シート横からぎざぎざのついた棒を取り出した。ハンドルの横のキーを回し、後ろへと回った。後ろ車輪の間にある大きな箱――それがエンジンだ。箱の差込口へ棒を奥まで突き入れ、力いっぱい引き抜いた。

 エンジンが低い雷のような音を立て、三輪車が震えた。

 カルが二、三歩遠退いた。

 右腕が引っ張られた。

「大丈夫、心配ないよ」

 油の燃える臭いが煙と共に鼻をついた。

 タイセイはシートに跨った。

「カル、恐がらずに僕の肩に――」

 誰が恐がっておるものか――と、カルは小走りにタイセイの肩に飛び乗った。

「私を変な名で呼ぶんじゃない」

「了解」

 タイセイは右のハンドルについているアクセルを前へひねった。

「カル、ちゃんと掴まってて!」

 三輪車は地面を鳴らして走り出した。勢いにハンドルを取られ、後輪が右に左に地面を滑った。

「おぬし、運転できるのか」

「できる人から聞いている」

「――それはできないのと一緒じゃろ」

 タイセイとカルを乗せた三輪車は、土埃と煙を従えながら正門を潜っていった。

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