気がつくと私は、彼とよく来ていた公園のベンチに座っていた。

 彼は近くにいるのだろうか、と辺りを見渡していると、手元のスマホにメッセージが届く。


『ごめん、少し遅れる』


 彼からだった。状況を見るに私達はここで待ち合わせをしているらしかったので、大人しくベンチに座って彼を待つ。



「美紀」


 五分ほど経った頃、もはや懐かしいとまで感じる、彼の声がした。

 はあはあと息を切らしている所を見ると、きっと急いで来てくれたんだろう。彼は何かを言いかけていたが、それよりも先に私が口を開いた。


「ごめんなさい!私、自分が悪いって分かってたのに、意地張って無視したりして……。私が悪かったの、ごめんなさい」


 ……言えた。

 ここ一週間ずっと言えないで悩んでいたことが、今はすらすらと出てきた。まだ仲直りした訳では無いのに、私は深く安堵していた。


「いや、俺の方こそごめん」


 彼は何やら複雑な表情をして、同じく謝罪の言葉を口にした。やはりあんなに口論した後に顔を合わせるのは気まずいのだろうか。しかし良かった、とりあえず話すことが出来たし、これで彼とはやり直せるのだ。


「あのさ、美紀」


 決心したような顔をして、彼が突然私の名前を呼ぶ。なあに?なんて、浮かれた声で返事をしたのが今となっては悔やまれる。


「俺、今回喧嘩して分かったんだ。やっぱり俺と美紀じゃ合わないって。だから……もう、別れてほしい」


 彼に言われたことを理解する前に、視界が涙で歪んだ。


 ……お互い反省して謝って、一週間ぶりに仲直り、じゃないの?別れる、って?

 それって、私が一週間もつまらない意地を張って口を聞かなかったから?それとも今までもずっと別れたかったということ?


「ごめん、俺の気持ちはもう変わらないから。……今までありがとう。じゃあ」


 申し訳なさそうな顔をして去っていく彼を私は引き止めることも出来ず、ただただその場で涙を流していた。

 重力にしたがって落ちる涙を見つめながら、数分前までの浮かれた自分を思い出す。もう恥ずかしさと情けなさと、拭いきれない悲しみで押し潰されそうだった。


 何秒間、何分間そうしていたかは分からない。しばらくして、前方から歩いてくる親子の話し声で、私はハッとして現実に引き戻された。そういえばここは人の多い公園、私は公共の場で何をやっていたのか。

 幸せそうに話す親子にこんなぐちゃぐちゃの泣き顔を見られないようにと、私はさっと人のいない方へ振り返った。







「いかがでしたか?」



 手に握り締めた蓋のない懐中時計と、仮面をつけたバリスタの男、ジジッと音を立てる電灯。私はまた、いつの間にか店内に引き戻されていた。


 先程までのことを思い出し、沈んだ気分になると共に慌てて目の辺りを抑える。きっと私は酷い顔をしている。いくら仮面で相手の顔が見えないからと言って、他人に泣き顔は見られたくない。

 そう思っていたが、頬を伝う液体は確認できず、目も腫らしていないようだった。


「どうやら上手くいかなかったようですね。まあまあ、人生そんな時もありますよね」


 上手くいかなかった……。そうだ、ここで買った時間は現実に反映される。ということは、今私は五百円で余計な時間を買って、仲直りしたかったはずの彼との関係を無きものにしたという事になる。


「こんな時間、買わなきゃよかった……!彼とやり直せると思って、わざわざお金を払って買ったのに。どうして……!?」


「どうして、と言われましても……。私はただ、お客様のご希望の"時間"を提供したまでです。購入した"時間"を使えば必ず良い結果が待っているなんて、一言も申し上げた覚えはございません」


「そんな無責任な……。わ、私、この時間返品します!お金は返して貰わなくてもいいです、だからさっきの時間を無かったことにして下さい。お願い、元に戻して!」


「申し訳ありません、当店では商品の返品は受け付けておりませんので」


 ……そんな。こんなの、やはり詐欺じゃないか。買った時間を使ってみないとどうなるか分からない、なんて。

 全く誰がワンコイン払って不幸になりたいなんて言うのだろう。私は、彼と仲直りしたかっただけなのに。ただそれだけだったのに。


「ねえ、どうにかしてくださいよ!私はどうしたらいいの、今の時間をもう一回売ればいいの?そうなんですか!?」


「おっと、そろそろ閉店時間ですね。お客様、本日はご利用ありがとうございました。またのご来店を、お待ちしております」



 私の叫び声なんか聞こえていない、という風に彼はそう言った。その言葉が途切れると同時に、カランカラン、と店に入った時と同じ音が響く。

 その仮面によって終始表情の伺えないバリスタに向かって伸ばした私の手は、虚しく空を切った。




 目の前には、会社から家までのいつも通っている帰り道。ぽつんと建った街灯の灯りが、ジジッ、と音を立てる。


 確かにそこにあったはずの寂れた商店街と"時間直売所"は、もうどこにも見つからなかった。

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