「おーい、美紀みきってば、ねえ聞いてる?」



 聞き慣れた声にぱっと顔を上げる。そこには怪訝そうな表情をした親友がいた。

 ここはカフェ、だろうか。向かいの席に座る親友と、食べかけのランチに、窓の外を行き交う人の波。日曜日かな。


「ごめん、ちょっと考え事してた」


「もう、やっと誘いに乗ってくれたと思ったらずっとぼーっとしてるんだから。分かる?あたしはね、心配してるのよ?」


 久しぶりに聞く彼女の声に、つい涙が出そうになった。ぐっと堪えて適当な相槌を返す。いま適当に返したでしょ、そうかも、なんていう中身のない会話をする。

 自分が頼んだであろうパスタをフォークで口に運ぶ。美味しい。そういえば、最近忙しいことを言い訳にしてしばらく自炊していなかったな。インスタントでない麺の美味しさが身に染みる訳だ。


「買い物行ったあとさ、そこの通りでクレープ食べない?あ、それとも映画観る?前に観たいって言ってたやつ、確かまだやってるよ」


 心做しか彼女が嬉しそうで、私といてそんなに楽しいのかとこちらまで嬉しくなってくる。

 その後私達は適当に買い物を済ませ、やけに甘ったるいクレープを食べて、夕方に映画を観て、一日の日程を終えた。


「はー、楽しかった!久しぶりに思いっきり食べて思いっきり遊んだわぁ」


「うん、私も。なんか久しぶりにこんなに笑った気がする」


「うん、美紀は笑ってるのが一番似合うんだから!仕事熱心も良いけど、たまには何も考えずに遊ぶ日も作らなきゃ。また誘うからね」


 彼女は私の考えを尊重し、応援してくれる。彼女に会った後はいつも元気づけられて帰っているという事に、今更気づいた。もっと早くこの誘いに乗っておけばよかったのかもしれないな。


 じゃあね、と手を振る彼女をしばらく見つめる。楽しかった、と思わず独り言が声に出てしまった。

 私も家に帰ろうと、スッキリとした表情のまま後ろを振り返る。






「いかがでしたか?」



 落ち着いた男性の声。

 目の前にいるのが先程のバリスタで、自分がカウンターの椅子に座っているということを理解するのに少し時間がかかった。


 そういえば、私は時間を買った、いや今回は貰った、のだった。私はさっきまで確かに、親友と楽しい休日を過ごしていた。それは夢ではなく、紛れもなく現実のものだった。

 つまりここでは本当に時間を買うことが出来るというのか。どうしてそんなことが出来るのか全く分からないが、人間は自分の目で見たものが一番信じられるのだ、先程の体験でよく分かった。


「正直、すごく楽しかったです」


「それは良かった!満足していただけたようで何よりです。ああ、そちらはお持ち帰りいただいて構いませんよ。でも残念ながら普通の時計としては機能しませんので、記念に飾る方とか、そのまま廃棄なさる方が多いですね」


 そちら、というのは私の手のひらにある懐中時計。見た目はやはり普通の時計のようだが、私が音を立てて開けたはずのその蓋はどこかへ消えていた。

 バリスタの彼によると、時間を使い終えると蓋は役目を終えて消える、という理論らしい。何となく捨てるのは勿体ない気がして、それは上着のポケットに突っ込んでおいた。


「凄いですね。まさか本当に時間が買えるなんて、思ってませんでした」


「ええ、そうでしょう。ここは、限られた人のための特別なお店ですのでね。よろしければ他にも何かご購入して行かれますか?」


「いえ……その前にいくつか聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」


 凄い、と思ったのは本心だ。しかし如何せん理屈が全く分からない。これは私の知らない科学技術の産物なのか、はたまた幻覚なのか、魔法なのか。


「私が今回貰った時間っていうのは、現実のものなんですか?」


「はい、もちろんです。イメージで言いますと、現実の時間プラスアルファの時間、というのが先程体験していただいたものになります。ご購入された"時間"の中で起きた出来事は現実にも反映されますし、というか、それが現実に"なる"んです」


「はあ、なるほど。じゃあもう一つ。時間"直売所"というのは?これのどこが直売なんですか?」


「おっ、良いところにお気づきで!実はここで売っている"時間"は、全てどなたかから買い取ったものなんです。ここで買い取ったものをそのままお売りしているので"直売所"。まあ少々こじつけな気もしますが」


 そこはご愛嬌を、と小さく笑う彼によると、ここでは時間を売ることも出来るらしい。時間を買うのは分かるが、自分の大事な時間を売りたい人なんているのだろうか。


「皆さんから買い取らせていただく"時間"は、主に過去の嫌な思い出などですね。記憶から無くしたい、そもそも無かったことにしたい、という方がご利用になります」


「へえ、嫌な思い出か……。それは売ったらお金になるんですか?」


「もちろんでございます。どんな"時間"でも一律五百円で買い取らせていただいています」


 自分の記憶から無くしたい思い出、要するに要らないものを売ったらお金になる、なんて。時間が中古品になり得るとは思わなかった。


 私もここでひとつ嫌な記憶を売ってしまおうか。というのも、私には無くしたいほどの嫌な思い出、と言われて心当たりがあるのだ。

 五年ほど前、就職も人間関係も全てが上手くいかず、部屋に引きこもっては毎晩ひとりで泣いていた頃。その時私は、本気で死のうか迷っていた。最寄り駅まで歩いていって、ホームの黄色い線の外側に立ってみては、内側まで下がれというアナウンスに逆らえずに帰宅して、を繰り返す毎日だった。


 そんな時代の記憶、出来ることなら消したいとずっと思ってきたものだ。


「私の時間、売ります。今から五年前の、死にたくなるほど辛かったあの時間、売らせてください。あの時のこと、もう思い出したくないんです」


「……かしこまりました。では失礼ですが一瞬、目を閉じていただけますか。お客様の"時間"を頂戴いたしますので」


 彼にお代の五百円玉を握らされた後、私は言われるままに瞼を閉じた。



 本当に一瞬、不思議な浮遊感に襲われた後、目を開けていいとの言葉が聞こえたのでその通りにした。


「あれ、今私に何かしました?それと、この五百円玉は?」


「私は何もしていませんよ。そちらのお金はお客様のものです」


「そう、ですか。……ええと、何の話をしていたんでしたっけ」


「よろしければ他にもご購入されますか、というお話をしていました。どうされますか?」


 そんな話をしていたか。ああ、またいつもの疲労でぼーっとする癖が出てしまったみたいだ。


「そうですね……じゃあ、もうひとつ買いたい時間があるんですけど」


「はい、何なりと。」


「彼氏と、二人で話せる時間が欲しいです」



 私には、約二年間付き合っている彼がいる。今まで二人の関係はまさに順風満帆といったものだったのだが、実は一週間ほど前にちょっとした事から口論になり、それ以来口を利いていない。

 つまりは、私は仲直りするための時間を買おうとしているのだ。


 思えば最近仕事が忙しいのも、偶然では無かったのかもしれない。やらなくていい仕事をわざわざ引き受けたり、後輩の世話を焼きすぎたりしたのは、面倒事から目を逸らしたいという本心の現れだったのだろう。そのおかげで私は大量の仕事に追われ本当に時間が無くなってしまったため、未だ絶賛喧嘩中という訳なのだ。


「かしこまりました。彼氏さんとお話する"時間"ですね。少々お待ちください」


 彼が持ってきた懐中時計は、先程見たものとほとんど全く同じ見た目だった。先程よりも少し年季が入って古びているような気もするが。

 私は財布から五百円玉を取り出し、カウンターに置いた。一応彼がそれを受け取ったのを見てから、私は迷わず懐中時計の蓋を開けた。

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