時間直売所

想空


『 こちらは、時間直売所。時間、お売りします。お友達との大切な時間、恋人と仲直りをするための時間、要りませんか?』



 私がその怪しい看板を見つけたのは、今から一週間ほど前のこと。


 その日は積み重なった残業に追われ、数時間画面とにらめっこをした後だったため、もうクタクタになりながら一人で帰り道を歩いていた。

きっと疲れすぎて前も見えていなかったのだろう、気づけば私は、知らない商店街に迷い込んでいた。


 道を間違えたことに気づきハッとして辺りを見渡すも、商店街の大通りが視界の限りずっと長く続いているだけ。慌ててスマートフォンで現在地を調べようと、電源を入れようとする。電源ボタンのカチッという音だけが静かに鳴り、何も表示されない真っ暗な画面には疲れきった顔をした自分が映っていた。はあ、と思わず深いため息が零れる。


 どうやって迷い込んだかも分からない場所で迷子、帰り方も全く分からない、おまけにスマートフォンも何故か使えない。こんな絶望的な状況が他にあるだろうか。


 とりあえず私は、進める方向に進みながら考えることにした。今まで歩みを進めていたであろう方へ歩き出す。もう前も後ろも同じような景色で、どちらから来たかなんて分からなくなってしまった。

 歩きながら周囲を観察していると、こんなに大きな商店街なのにも関わらず、そこにある店たちが大分廃れていることに気がついた。シャッター街、という奴なのだろうか。いや、ただ夜だから閉まっているだけなのか。


 それからしばらく歩いても、景色は全く変わらなかった。いや、たまに多少の変化はあった。所々シャッターの上に張り紙がしてあったり、無駄に上手なスプレーの落書きがしてあったり。そんな様子を見るにやはりここは、人の訪れなくなったシャッター商店街なのだろう。


 もう諦めて反対方向に進んだ方がいいのだろうか、そう思って歩くスピードを落とした時、遠くにほんのりと黄色い灯りが見えた。私は一瞬、疲れすぎて都合の良い幻覚が見えたのかとも思ったが、まぶたをぎゅっと瞑って思いきり開いてを繰り返して、それが現実のものであると分かった。

 真っ暗な絶望の中にほんのりと明るい希望を見つけた私は、先程までとは打って変わって早歩きでその灯りに向かって歩き出した。灯りに到達するまでも周りのシャッター街に変化はなく、ただその一角だけが暖かい光を放っていた。



 その灯りの正体は、シャッター商店街で恐らく唯一シャッターの下りていない、何かの店の外灯だった。それは一見すると年季の入ったレトロな喫茶店のような、しかし店の前にある四つ足の看板や外壁の塗装は真新しく、ちぐはぐで不思議な雰囲気を纏っていた。

 とりあえず、看板の文字を読んでみる。


『 こちらは、時間直売所。時間、お売りします』


 ……時間?時計ではなくて?いやいや時計だとしても、直売所とは?そもそも何故こんな場所に?


 頼みの綱の看板を読んでも結局何も得られなかった私は、この怪しい店に入るか否かを考えながら、店の前をうろうろしていた。しかし、もはやまともに思考する気力は残っていない。

 私の脳内には、ちょうど野菜の直売をするように時計が並べられている様子と、その奥に見える時計のなった畑が浮かんでいた。いくら何でもさすがに疲れすぎている。まあこれも仕方がない、"時間直売所"と聞いてイメージできるのはそんな光景くらいだったのだ。


 しばらく右往左往した後、私は意を決してその黒い扉を開けた。どうせ他に行くところもないのだ、とりあえず入ってみてから考えようじゃないか。


 そんな安易な考えで入店した私は、入って一歩目で足を止めた。

 カランカラン、と鳴るドアベルの軽快な音とは裏腹に、店内は薄暗く、正面にあるバーカウンターのようなものだけがライトで照らされていた。


 私が歩みを進めるのを躊躇った理由はそれだけではない。店の中にはそこそこ広い空間が広がっていた。にも関わらず、そこには例のカウンターと椅子が一脚しか置かれていない。てっきりテーブルと椅子が何セットも並んだ店内であると想像していたため、何だか寂しい印象を受けた。


 更にカウンターの向こう側には、黒いベストと蝶ネクタイを身につけたバリスタのような人間が一人立っていた。

 そのバリスタと思わしき人間は、いわゆる普通の喫茶店にいる店員、という見た目をしていた。普通と違うところと言えば、その顔が白く不気味な仮面で覆われていて見えないということ。そのために私は、その人が男性なのか女性なのかも、どのくらいの年齢なのかも全く検討が付かなかった。


 それにしても、この感じでは何か便利なものが売っている訳では無さそうだし、あの人に道を聞こうと思っても何だか不気味さが勝つし、やはり変な店に入るべきでは無かったのだ。


 そう思い後ろを振り返ると、先程まで正面にあったカウンターとバリスタの姿がまたもや正面に見えた。つまりは、振り返っても、振り返る前と同じ景色だったのだ。

 驚いてもう一度前を向く。カウンターとバリスタが見える。入ってきた扉が見えることを期待をして後ろを振り向く。全く同じように、カウンターとバリスタが見える。私は何度も正面に向き直っては振り返ってを繰り返したが、目的の扉が現れることは無かった。


 途中でふと冷静になり、私は、もうこの意味の分からない状況に全て身を任せることにした。多分これは、あまりの疲労によって見えているリアルな夢なのだ。きっとそろそろ目が覚めるはず。


 そうして思考することを諦めた私は、カウンターの前にぽつんと置かれた、小洒落た少し高い椅子に腰掛けた。目の前のバリスタは微動だにしない。仮面の隙間から顔が見えそうなものだが、どの角度から見ても何も見えない。全くどうなっているのだろう。



「いらっしゃいませ、こんばんは」


 私がバリスタの顔を不思議そうに覗き込んでいると、それは急に動き出し、律儀に挨拶をしてきた。

 突然のことに驚いた私は椅子からずり落ちそうになる。ガタッ、という音が響いた後、それはまた喋り出した。


「おや、驚かせてしまいましたね。これは失礼いたしました、せっかくのお客様ですのに」


 声から察するに恐らく男性であろう。年齢は二十代、いや三十から四十代か、何なら八十代くらいな気もするが……分からない。その声色は優しく落ち着いていたが、聞いていると何だかフワフワした心地になる、不思議なものだった。


「さて、お客様。本日は何をお求めで?」


 男にそう問われ、私は何と答えたらいいか困惑する。何を求めているか?そんなものこちらが知りたい。とりあえず、思った事をそのまま聞いてみるのが手っ取り早いだろう。


「ここは何のお店なんですか?」


「おや、初めてのご利用でしたか。これはこれは、また大変失礼いたしました。では、きちんとご説明申し上げますね」


 彼はわざとらしく、これは驚いた、なんてような仕草をしてから、私の方に向き直って説明を始めた。

 ジジッ、と真上にある薄暗い電灯が小さく音を立てる。


「こちらは、"時間直売所"です。私どもは、お客様がご希望される"時間"をお売りしています。値段は一律五百円、ご購入されるのがどんな"時間"であっても、ワンコインでご利用頂けます」


 自信満々で説明する彼を目の前に、私は、心底呆れたという顔をしていたと思う。何しろ、その説明とやらを聞いても私には全く理解ができないのだから。


「まあ、初めての方は皆さんそのような反応をされます。そして口で説明しただけでは信じていただけないことはこちらも承知しております。ですので、初めて"時間"をご購入される時には代金は頂きません。初回無料、というやつです。実際に利用していただければご理解いただけるかと思いますので、よろしければぜひ」


 ペラペラと喋る彼の様子を見て、これはきっと新手の詐欺か何かだ、今すぐ帰った方がいい、そう頭では分かっていた。

 しかし、まだこれは夢だと思い込みたい身体が、つい余計なことを口走ってしまった。


「利用するにはどうしたら良いんですか」


「簡単です。こんな"時間"が欲しい、とそう言って頂ければ、すぐさまご用意いたします」


 もう完全に現実逃避したい好奇心が勝ってしまった私は、どんな時間が欲しいかを真面目に考え始めた。そしてしばらく悩んだ末、私は一つの結論にたどり着いた。


「じゃあ、友達と一緒にカフェに行ったり買い物をしたりしてゆっくり出来る時間が欲しいです」


 私が今日こんなに疲れ切っている原因は会社から押し付けられた残業なのだが、そのせいでゆっくりと過ごす休日はしばらく訪れていなかった。

 私の親友は、私の体調を気遣いつつも気分転換にどこか遊びに行こう、とよく誘ってくれていた。時間が無いなら近場のカフェでランチするだけでもいいから、という簡単な誘いさえ、私は仕事を理由に断ってしまっていた。


 だから、もしそんな本来得られないはずの時間が無料で貰えるのなら、なんて思ってしまった。


「かしこまりました。ご友人とゆっくり出来る"時間"、ですね。直ちにご用意いたしますので、少々お待ちを」


 そう言い残すと、彼はさっさとバックヤードのような場所に引っ込んで行った。まあ待てと言われたから待ってみるものの、私だって本当に時間なんてものが用意されるわけが無いことは分かっていた。

 でもまあ何しろ出口が無いのだ、どうしようもない。私は今日何度目か分からない、諦めるという判断をした。



「お待たせいたしました。こちらがご希望の"時間"になります」


 こちら、と言われて彼の手に持っているものに視線を移す。手のひらサイズの金属の円盤のような何か……恐らく懐中時計であろうものが、その手に乗せられていた。なんだ、結局時計なんじゃないか。


「 懐中時計、ですか?」


「ええまあ、見た目はそうかもしれませんね。こちら、この蓋を開くとその"時間"が始まる、という仕組みになっておりますので、取扱には十分ご注意ください」


 彼からそれを受け取って、念のため蓋には触れないようにしつつ、それをまじまじと眺めてみる。特に何の変哲もない懐中時計、といった印象だった。こんな物でまさか本当に時間が得られる……訳はないのだ。これが夢でない限り、そんなことは当たり前に起こらないはずなのだ。


「あまり信用されていないようですね。お気持ちはよく分かりますが、一度ご利用いただければ分かります。疑われるようでしたら今、この場で使っていただいても大丈夫ですよ」


「いつでも使えるんですか?」


「ええ。その蓋を開けばいつでもご利用可能です」


「……じゃあ今、使います」


 ここまで来たらもう好奇心のままに、この状況を楽しんでやろう。もしも詐欺だったら、そこのバリスタの仮面を引っ剥がして一発殴ってやろう。


 そんな雑な思考回路で私は、懐中時計の蓋を、カチッと音を立てて開けた。

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