45話  信頼

<七下 莉玖>



その顔を見た途端に。


ようやく落ち着きを取り戻した心が、また激しく軋んだ。母さんはドアの向こうで目を細めながら私たちを見ている。


私は、パニックに陥っていた。


どうしてここが分かったのかという言葉が頭の中でぐるぐる回って、目の前を覆い隠す。その言葉に飲み込まれる前に、母さんは美紀に短く言って家の中に入ってきた。



「ちょっと失礼するわね、美紀ちゃん」

「えっ、おばさん……あ、ちょっ!」



母さんの足が向かう先は、横で並んで立っている私たちの方。反射的に私は兄さんを隠すように前に出て、両腕をぐっと広げる。


お願い、母さん。兄さんにはなんの罪もないの。私が全部悪いんだから。


そう言おうとした、まさにその時に―――



「……よかった」

「え………………………ぁ」



骨が折れそうなほどぎゅっと抱きしめられて。


間抜けた声を出してから、私はようやく気付く。母さんの声には、涙が滲んでいた。



「よかった……………本当に、よかった……莉玖、莉玖………」

「………あ、あ…………」

「どれだけ心配したと思ってるの!?本当に……本当に……!」

「ご……ご、ごめん、なさい。ごめんなさい、ごめんなさい……」

「よかった……本当によかった……」

「ごめんなさい………ごめんなさい、ごめん。ごめんね……悪い娘て、ごめんなさい………」



兄さんを守るために広げた両手を、母さんの背中に回す。


三日間たまっていた不安がすべて溶けて、涙になって、母に対する罪悪感になった。母さん、私のために自分の人生を削ってくれた母さん。こんな私にいつも愛してると言ってくれた、私の母さん………。



「会いたかった……会いたかったよ。ごめんなさい、本当にごめんなさい………」



幼い頃に、母にそうしてもらったように。


私はママの懐に顔を埋めて、その温もりにすべてを委ねた。






「ごめんなさいね、美紀ちゃん。急にお邪魔してしまって」

「いえいえ、家族水入らずの時間ですから!私は自分の部屋でいますので、ごゆっくり!」

「うん、ありがとう」



リビングの中、私と兄さんの前に座っている母さんは微笑みかけながら美紀の背中を見守っていた。


でも、美紀が消えた途端にその温もりは刃となって、私たちを深く突き刺してくる。



「さて、そろそろ話を始めましょうか」

「……その、葵さん」

「うん?」



兄さんはぐっと目を凝らしたまま、重たい口調で言った。



「どうやってここだと分かったのか……お聞きしてもよろしいでしょうか」

「そうね……今日が、あなたたちのお金がそろそろ無くなっちゃう頃だと思ったからよ」

「…………………………」

「本当に大変だったからね?学校に連絡しても登校してないと言うし、探す宛はないし。今日を越したら警察に連絡するつもりだったの。最後にここへ来て本当によかったわ」

「…………申し訳ございません」



兄さんはまた深々と頭を下げて、手を震わせる。


母さんはふうとため息をついて、なぜか苦笑を浮かべた。



「秋君のこと、信じていたのにね」

「…………………」

「まさか、莉玖と一緒に駆け落ちなんて想像もしてなかったわ。莉玖は少し危ういところがあるから注意してたけど、まさか秋君がこんなことをするとは思わなかった」

「……葵さん、僕は―――」

「言わなくても大丈夫。どうせ、今も納得していないんでしょ?」

「……………葵さん」



言葉に詰まった兄さんの顔には困惑しか残っていなかった。まるで手に取るように私たちの答えを知っていた母さんは、腕を組んでゆっくりと話し出す。



「私はね、今も秋君のことをかなり信頼しているの。賢いし優しいし、いつも私にとって頼りになる存在だった。もし、あなたが莉玖の兄でなかったら、私は喜んで二人の関係を認めたはずよ」

「……母さん、それって――――」

「でも、ごめんなさい。私は二人の交際には反対だわ。血も繋がっていない義理の兄弟だとしても、二人は家族なの。いや、私と健一さんを含めたこの4人で、家族なのよ」



家族、という言葉に大きな重みを置きながら母さんは言い続ける。そして、私は家族という単語と母さんの悲しげな表情を見て、ある場面を思い出した。


私がまた学校に通うにも前のこと。産みの父親と喧嘩をして、リビングのソファーで泣いていた母さんの姿を忘れるはずがない。



「……私も、あなたたちのように恋に盲目的だった時期があった。その恋が叶えられた時にはどんなに嬉しかったことか。でもね?最後には結局、失敗してしまったのよ。恋はこんなにも一時的なものだと気づいた時にはもう、私は離婚届にハンコを押していた」

「……………母さん」

「秋君、あなたは莉玖と別れないと言ったわね?その気持ち、私にはよく分かるわ。この人となら別れる気がしない。この人となら幸せな未来しか思い浮かべない。大体そういう気持ちなのよね?でも、人間の関係なんてもろくて、本当に小さなズレでめちゃくちゃになってしまうの。あなたたちは、本当に私みたいにならないと言い切れるの?」

「………」

「……分かってると思うけど、二人がもし別れたりしたら大変なことになるわよ?家の空気が気まずくなるのはもちろん、あなたたちにとっても家は窮屈な場所になってしまう。そうしたら、私や健一さんも再婚したことを後悔するかもしれない」

「っ―――お母さん!!」

「ごめんなさい。でも、これはあまりにも分が悪すぎる賭けだわ。私はこの交際を認められない」



目の前が暗くなる。


お母さんの言葉は、何もかもが正論だった。すべての言葉に、お母さんが私たちのことをよく思っていたという事実がにじみ出ている。そうじゃないと、容易く兄さんの思惑を察せられるはずがない。


一般論として、母さんは正しいことを言っている。私たちが我がままを言っているだけだ。


でも、だからといって。



「……お母さん」

「どうしたの?」

「私たちの関係は、お母さんが思っているように不安定な関係じゃないよ」



いつまでも、兄さんの背中に隠れるわけにはいかない。


私はこぶしをぎゅっと握って、目に精いっぱいの力を入れて母を見つめる。ここで敗れてしまったら、何もかもがおしまいだ。



「……莉玖、私の説明をちゃんと聞いてなかったの?」

「ううん、違う。お母さんが言っていることは、正しいよ。ずっと正しいと思ってたから、反論もできずに兄さんと逃げたんだから。でも、訂正しておきたいの。私たちは、一瞬燃えて消えるような関係じゃない」

「…………莉玖、あなたは恋に惑わされているだけだわ」

「惑わされている?そんなはずないじゃない!相手が、相手が兄さんなのに!!」

「……え?」

「お母さんも知ってるでしょ?兄さんがどんな人なのか、ひとつ屋根の下で一緒に暮らしてきたんだから……!」

「莉玖、落ち着いて」

「…………っ」



兄さんの声を聞いて私は、声が大きくならないように注意しながら深呼吸を重ねる。


大丈夫、大丈夫。ただ思いの丈を伝えるだけだ。知り尽くしている事実を並べるだけ。


……恋に惑わされているって、そんなはずがない。惑わすという言葉と兄さんの存在は、あまりにも似合わないじゃないか。


兄さんが私に見せてくれたのは、いつだって本物だったのに。



「お母さん。私は兄さんを愛している気持ちと同じくらい、兄さんのことを信頼しているの。なんでそうなるのかわかる?」

「………なんで?」

「兄さんはたった一度も、私をぞんざいに扱ったことがないからだよ。言葉の端にも、ささやかな行動にも感じられるの。この人は私のこと精いっぱい尊重しようとして、配慮しようとしていると」

「……………」

「お母さんにどれだけ否定されようとも、これだけは言い切れる。これは、私の錯覚なんかじゃないよ。兄さんはそういう信頼に値する人間で、ひと時の感情で人を惑わすような存在じゃない」



私は、言い張れない。


私たちの関係が永遠に続くとは言い切れない。お母さんの言う通り、小さなズレで喧嘩になって別れてしまうことだってあり得るはずだ。実際、私たちはそうやって一度は別れてしまったから。


でも、私には分かる。私さえ努力を怠わなければ、私さえ、しっかりしていれば。


私たちの関係が崩れることなんて、絶対にないはずだ。


私は、深く首を下げてお母さんに最初で最後の願い事を口にする。



「本当に、本当にごめんなさい、お母さん。でも、お願い……私は、兄さんと離れたくないの」

「……莉玖」

「…………」

「……どうしてここまで我がままになったの?」

「えっ……」

「あなたはこんな子じゃなかった。あなたは昔から物分かりがよくて、落ち着いていて、こんな意地なんか全然張らない子だったの。ここまで図々しいお願いをしてくる子でもなかった。そんなに秋君のことが好きなの?」



顔を上げて見た母さんの顔には、悲しさと共に仕方ないと言わんばかりの苦笑が滲んでいた。


私は生唾を飲み込んでから、再び答える。



「うん、そんなに好き」

「……どうして好きになったの?」

「こんな見た目をしている私を、何も聞かずにただただ受け入れてくれたから」



私の答えによって場が静まり返る。


母さんは驚いた顔をしていて、次に項垂れてから、言った。



「……どうやら、私の言葉はちっとも効いてなさそうね」

「……………葵さん」

「いいよ。二人に反対なのは相変わらずだけど、娘がここまで言うんだから。だから、とりあえず家に帰って、健一さんとも話してみましょうか」



兄さんが重々しく頷いたのを見た後に、母さんはふうと深いため息をついた。

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