44話  ただれた愛

<七下 秋>



「いらっしゃいませ~2名様ですか?」

「店かよ……とにかく、ありがとうな。池田」

「いえいえ、お気になさらず。ちょうど私も暇してたので」

「………ごめんね、美紀」

「ふふふっ。あ、お風呂沸かしておいたから莉玖が先に入ったら?着替えは私の借りてあげる」

「あっ……うん、ありがとう」



家に入ってきたとたんに、池田は元気よく喋りながら莉玖の背中を押して風呂場に向かわせる。僕は、苦笑しながらその姿を見守った。


お金がなくなった僕たちに、残された選択肢はそこまで多くなかった。


家に帰るか、それとも池田の提案に乗って池田の家にしばらく寝泊りをするか。二つの選択肢の中、僕たちは当たり前のように池田の家に行くことを決めていた。


両親には申し訳ない気持ちしかないけど、少しでもこの時間を先延ばしにしたかったから。



「先輩、やつれていますね~」

「まあ、家出少年だからこんなもんじゃない?」

「本当によくもその気になったんですね。先輩に家出なんて全然向いてなさそうなのに」

「あはっ、そうかもな……」

「……ほら、立ち話もなんですし、早くリビング行きましょうよ」



池田の言う通りリビングに入ってから、ぽんとソファーに座る。次の瞬間には、反射的にため息が出ていた。


分かっている。本来なら、今すぐにでも両親がいる家へ帰るべきだ。でも、莉玖といる時間が欲しければ欲しいほど、家に向かおうとする足が動かない。



「大丈夫ですか?先輩」

「……いや、大丈夫じゃないかも」

「そう見えます。莉玖も何だかんだ言って気が重そうですし」



麦茶を出してから、池田は仕方ないと言わんばかりに笑ってくる。黙々と麦茶で喉を潤して、ぼうっと前を見た。


僕はたぶん、本当の意味を知らなかったと思う。


周りのすべてを諦めて莉玖を選ぶという行為に付随する色々な痛みを、僕は全部分かっていなかった。


離婚した父さんがどんな思いで僕を育ててくれたのか、葵さんがどんな目で莉玖を見ていたのか、僕はこの目で全部見てきたというのに。



「……後悔、してるんですか?先輩」



相変わらず核心を突いてくる池田の質問にしばし迷ってから、僕は首を振る。



「……いや、それはちょっと違うな」

「へぇ、意外ですね」

「もし後悔したとしたら、莉玖に合わせる顔がないでしょ。僕が責任を取って連れ出したことだし」

「先輩って、相変わらず真面目ですね」

「どうもありがとう……な」



莉玖と一緒に家を出たあの時、どうすればよかったのか。


それを知らないくらいには、大人になっていなかった。僕も、莉玖も中途半端な子供で、正しい道を知っていてもなお、その道を突き進むことができなかった。



「……まあ、とにかく明日には帰ることにする。これ以上迷惑かけられないし」

「帰るって、家にですか?」

「ああ、さすがにこれ以上は無理だろ」

「………えっと、ちょっと早くないですか?せめて二日くらいはいましょうよ」

「いや、明後日テストでしょ?莉玖の停学も終わるし、テスト当日にサボったりしたらそれこそ大事になるって」

「……でも」

「……あのさ、池田」

「はい?」

「なんでそこまで僕たちのこと心配してくれるの?さっきの話、池田ならどっちかというと喜ぶ話じゃん?」

「あ~~立場的にはそうですね」

「……で、なんで?」

「そんなの、決まってるじゃないですか」



池田は両手を後ろに回して、そのままぎこちない笑みを浮かべて見せた。



「なんか、憧れちゃいますから」

「…………………は?」



何言ってんだ、こいつ?



「あ、そんな顔しないでくださいよ~普通に傷つきますけど?」

「いやいや……憧れるって、一体どこに」

「あんなにもお互いのことを思い合っているカップル、そうそういないですから」

「……そうなの?」

「そうですよ~まあ、お試しで付き合ってみるのが悪いというわけではないんですけど。ただ、先輩と莉玖は本当に……運命というか、純粋だというか、そんなものが感じられるんです。ほら、先輩が莉玖を振った時に私、ずっと莉玖のそばにいたじゃないですか」

「……そうだったな」

「その時、莉玖けっこう荒れてたんですけど、そんな中でも先輩のこと思ってたんですよ。復讐はしたいのに好きすぎて、先輩のこと傷つけることを怖がって。なんか、かわいいウサギみたいでした」

「…………よかったな、池田。莉玖が今お風呂入ってて」

「あはっ、そうですね~~」



……純粋か。


その言葉は、僕たちの愛にあまりにも似合ってないように聞こえる。周りの人を傷つけて衝動に流されて駆け落ちまでしてしまう恋を、純粋と名付けていいだろうか。


僕たちは義理の兄弟で、付き合う前からもう体を重ねたことすらあるのに。


ただれて、普通ではなくなった愛だ。唯一純粋だと言えるのがあるなら、それは僕の信念に近い願いだけだ。


僕にとって一番大切なのは、莉玖の幸せ。その言葉だけに縋って、僕はここまで来ている。


項垂れると、間もなくして家の中にチャイムの音が鳴り響いた。僕と池田はお互い目を真ん丸にして、目を合わせる。



「えっ、お父さん出張中じゃなかったの?」

「いえいえ、今も出張中ですよ。来週の火曜日までなのに……は~い」



……………いや、待って。何かがおかしい。


もし、池田のお父さんがここに来たというのなら、わざわざチャイムを鳴らせる必要がない。鍵を回して中に入ってきてしまえばいいだけだ。


そのことを悟った瞬間、背筋に悪漢みたいな強い感覚が走る。


経験上、僕の悪い予感は外れたことがない。池田は首を傾げながら玄関に向かい、僕は自然と立ち上がってその後を追う。


その時、お風呂場から出てきた莉玖も目を見開いて玄関のドアを見ていた。



「は~~い」



そして、次に現れた人を見て、僕たちは言葉通り驚愕せざるを得なかった。



「こんばんは、美紀ちゃん」

「…………えっ、あ、葵おばさん!?!?」



………………ああ。


とうとう、来るべき時が来たか。


僕はただ、乾ききった唇を湿らせるしかなかった。

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