42話 先延ばしにしたい
<七下 秋>
水平線の向こうでオレンジ色に焼かれている空をぼんやりと見上げながら、莉玖と手を繋いでいた。既に夏に差し掛かろうとしている時期だからか、海水浴場にはまばらに人の姿が見える。
パラソルの下、レジャーシートもなしに砂浜の上で、僕たちは何時間も座りながらただただ海を眺めていた。
いや、莉玖は違う。莉玖が見ているのは海じゃなくて、指にはめられている指輪だ。
「ふふふふっ」
「そんなに嬉しいの?」
「当たり前です。兄さんからのプレゼントですから」
ありきたりで、デザインもいたってシンプルな指輪。
だというのに、莉玖はすごく幸せそうにその指輪を見つめていた。何時間も前にアクセサリーショップで買った時からずっと、莉玖の顔からは笑みが消えなかった。
こんなに喜んでもらえるとはさすがに思わなかったから、僕は半分呆れながらも微笑ましくその姿を見ていた。
「莉玖」
「はい、兄さん」
「本当によかったの?何もしないで、ただこうしてぼうっといるのが」
「いいですよ?少なくとも、私は満足しました。生きて来た中で一番輝かしい日でしたから」
「………………今日なにしてたっけ、僕たち」
「家を抜け出して、区役所に寄って、アクセサリーショップに行って、昼ご飯を食べて、その後はずっとこうしていましたね」
「律儀に答えてくれてありがとう。でも、さすがに水族館とかは行っても良かったじゃない?」
「…………………」
莉玖は掲げた手を下ろした後に、僕をジッと見据えてくる。
綺麗で、吸い込まれそうなほど強烈な赤い瞳。その赤は、段々としんみりとした感情を湛え始めた。
「……兄さん」
「うん」
「私は、今日のような時間を少しでも先延ばしにしたいです」
「…………………」
「……指輪を買う時に、言ったじゃないですか。安物でも全然いいって。思いが込められている指輪だから、なんでも構わないって。でも、兄さんがあえて1万あたりの物を買ってくれましたから」
……………ああ、そうか。
莉玖が何を言いたかったのか、ようやく分かる気がした。
「……私、知りませんでした。人が生きるためには、こんなにもお金が必要なんですね」
「そうだね」
水族館に行かずに、パラソルだけを借りてただただこうしていた理由。それはたぶん、僕の財布の事情を配慮した故の行動だったのだろう。少しでも長く、二人きりで一緒にいたいから。
……家に、帰りたくないから。
今はまだ大丈夫だ。明日も、たぶん大丈夫だ。二日をしのげるお金くらいは持っている。
でも、明後日や明々後日になったら本格的にお金に困ってしまう。その時はたぶん、家に帰るための電車代さえ残らない可能性が高い。
莉玖は、そのことを踏まえた上で水族館を諦めたのだろう。
「ごめんね、莉玖」
「なんで謝るんですか?」
「いや、なんか……情けなくてね。せっかく格好つけて莉玖を攫っておいて、こんな思いをさせてしまうなんて」
「……私の好きな人を、悪く言わないでください」
「自己否定すらも許されないんだ?」
「当たり前です。さっきも言ったじゃないですか。私、生きてきた中で今日が一番幸せです」
「……そっか、よかった」
仮初めの幸せでも、莉玖が満足してくれるならそれでいい………仮初め、仮初めか。
…………今日という日を、未来に繋げることができたら。
それができたら、どれだけ素敵なのだろう。今、莉玖の太ももの上に乗せられている婚姻届を区役所に提出することができたら。指に嵌められているこの指輪を、結婚指輪と名付けることができたら、どれだけ幸せなのだろう。
つくづく、弱い自分が嫌になってくる。最愛の人に、こんな拙い幸せしか与えられないことが耐えられなかった。
「……兄さん?」
「うん?」
「……私、言いましたよね?私は幸せだって。私の好きな人を、悪く言わないでって」
「……………………莉玖ってエスパー?」
「兄さん限定のエスパーですね。本当に……どこまで優しいんですか、あなたは」
そう言いながら莉玖は僕の頬に手を添えて、優しくキスをしてきた。
今日で何度も交わしたというのに、莉玖の唇はちっとも味が薄まらない。キスされた途端に、世界が停止して魔法にかけられたような錯覚に陥る。不思議だなと思った。
人が他人をここまで愛せるだなんて、全く知らなかった。
「……ふふふっ。私の言いつけを守れなかった兄さんには、お仕置きです」
「もしかして、このキスが?」
「そうです。不満はありませんよね?」
「ご褒美の間違いじゃなくて……?ああ、分かった。分かったから……んむっ」
「あむっ、ちゅっ、ちゅるっ……ふぅ、はぁ……生意気なことを言っても、お仕置きですよ?」
「……ヤバいな。変な性癖に目覚めるかも」
「その時は、精一杯兄さんの要望に応えてあげますので」
「どうしてこんなにエッチになったのかな~~この妹は」
「誰のせいですか、誰の」
……………さて、日も傾いてきたし、そろそろ起きるか。
「ホテル行くか、莉玖」
「はい、兄さん」
どちらからともなく立ち上がって、僕がパラソルを閉じて歩く。その間、莉玖は持って来た日傘と結婚届が入っているクリアファイルを大事そうに抱えていた。
互いの靴を手に持ったまま、パラソルを返すために海の家に向かっている途中で、僕はふとあることを思い出して莉玖に振り返る。
「莉玖、そういえば父さんたちからはまだ連絡ないよね?」
「あ、はい。二人とも帰りは遅いですから……夜になったら、スマホの電源を落とした方がいいですね」
「………………………そうだね」
再婚した相手の息子。
そんな気まずい関係であるにも関わらず、葵さんはいつも僕に優しく接してくれた。僕は今、そんな葵さんを裏切って、僕のために頑張ってきた父さんに泥を塗っている。
許されないかもしれない。
父さんたちが間違っているとは思わない。間違っているのは僕たちだ。
「……連絡、しておいた方がいいんでしょうか」
パラソルを返して、歩道に上がって靴を履いたところで莉玖はそんなことをぽつりと言ってくる。
僕は俯いて何度も考えあぐねた挙句に、返事をした。
「元気にしてるから、心配いりません……とか?」
「全く連絡しないのとそこまで違わない感じがしますが……」
「そうだね、うん………」
…………………はあ。まあ、ここまで来て家に帰るつもりは毛頭ないんだけどな……。
何度もため息を零して、晴れない悩みだけを抱えていたその時。
ふと、莉玖のスマホから耳慣れた振動音が鳴り出した。
「あっ、美紀からです」
「えっ?」
ブーブーと振動するスマホを持ったまま、莉玖は僕を見上げてくる。出てもいいですか、と聞きたいのだろう。
返事として何度か頷くと、莉玖はスマホを操作して自分の耳に当てた。
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