41話 15歳
<七下 莉玖>
まさか、本当にここまで来るなんて。
スマホのマップアプリを使ってたどり着いた区役所をぼんやりと見上げながら、私は深く息を吸う。
私と手を繋いでいる兄さんは、何がそんなに楽しいんだかニヤニヤと笑っていた。私は少しだけ頬を膨らませる。
「何がそんなにおかしいんですか?」
「うん?ああ……本当に来ちゃったなと思って」
「攫われた後にこんなところに来るなんて、思いもしませんでした」
「僕もだよ?でも、いいんじゃない?どうせいずれは来るところだし」
「またそういうことをサラッと……本当に女たらしですから、兄さんは」
「あらぬ風評被害はやめて?とにかく、入ろうか」
「はい、そうですね」
少し古びいた建物の中に入ってやや迷った後、私たちはついに書類がまとまっているデスクに着くことができた。
場所が場所だからか、平日の午前でも中は人で混んでいる。年配のお爺さん、お婆さんから子供連れの母親まで。そして、その人たちは全員私の真っ赤な瞳を見つめながら怪訝そうな顔をしていた。
無機質な電子音と人々の話し声が入り混じっている空間。そんな空間の中でも、兄さんは私の手を強く握ってくれていた。
「さてさて、住民票、印鑑証明書、戸籍………あ、あった」
そして、兄さんは書類一枚を取って私に見せてくる。何故か誇らしげに見える兄さんの表情からは、少しだけあどけなさを感じられた。
「婚姻届」
「……………ふふっ」
「えっ、どうしたの?」
「いえ、書きましょうか。兄さん」
「うん」
ちょうど椅子もひとつ空いていたので、兄さんはその椅子に座りながら常備されているボールペンを動かして行った。
氏名の欄に書かれている、七下秋と七下莉玖という名前。これを見た普通の人たちはどういう風に思うのだろう……どう思われたって、別に関係ないけど。
届出日と氏名から初めて、生年月日と住所。本籍地……はよく分からないから後で調べることにして、ついに現れた父母の氏名と続柄。
その段階で、兄さんの手はぴたりと止まった。
「……………」
「……………」
兄さんも私も、何も言えなかった。そもそもこの単語を見て何かを言うこと自体ができるだろうか。
両親の幸せを邪魔して、裏切って、駆け落ちした挙句に勢い余って婚姻届なんて。親不孝の極みだ。それでも、私たちは進むしかなくて。
空欄をある程度埋めて立ち上がった頃にはもう、短距離走でもやったみたいに体力がへとへとになっていた。
でも、なるようになれだ。ここまで来て引き返すなんていや。そう思って、番号札を取ろうとしたところで……。
「君たち、婚姻届を提出しようとしてんのかな?」
「え」
隣で立っていた年配のお爺さんに突然聞かれて、私たちは二人とも肩をビクンとして振り返った。お爺さんは、何故か微笑ましい顔で私たちを見ている。
5秒ほど固まっていた兄さんの唇が、ようやく動き出した。
「あ……はい、そうですが」
「ほほう、若いのはいいのう。ずいぶん若く見えるけど、学生さんかい?」
「あ………………はい」
「ほほう、年齢は?」
「えっと………」
さすがに年齢を教えるには抵抗があるのか、兄さんは一瞬口ごもっていたけど。
やがて、変わらない苦笑を浮かべながら兄さんは堂々と言い放つ。
「16歳です。この子は、今年で15歳で」
「えっ」
「……ど、どうかしましたか?」
「いやいや、ただ……そうだな。15歳でも婚姻はできるのか?」
「はい?」
「わしが知っている限り、最低でも16歳にならなきゃ婚姻はできないと聞いたがな」
「………………………………………」
「………………………………………」
………………………えっ、そうなの?
目を真ん丸にして顔を見合わせると、兄さんがようやく何かを察したように手を合わせた。
「そっか、年齢調べてなかった」
「…………………………」
そのあっけらかんとした言葉を聞いた、私は。
「………ぷふっ、ぷふふふっ」
「……ぱはっ」
「ううん??」
何故か急に込み上がって来る笑いに、耐えられるはずもなく。
周りの人から不審な視線を浴びながらも、私は片手口を覆いながら笑ってしまっていた。
「ぷふっ、あはっ、あはは……もう、兄さんったら……あはっ」
「ぷはっ、いや、あはっ………ああ、そうだった。調べてなかったんだ、あはっ………」
「……君たち、大丈夫なのかね?」
なんでだろう。せっかく書いた書類が全部台無しになるというのに、結婚もできないのに、なんでこんなに笑えるんだろう。
知らない。でも、幸せだ。ただただ、うっかりしたら大声で笑い出すほど幸せだった。
ポカンとしているお爺さんには悪いけど、私たちはその後もたっぷりと笑いこけていた。さすがに声は抑えていたけど、近くにいる人たちは若干引いたようにこちらを見ている。
ようやく笑いが収まると、兄さんはペコっと首を下げてお辞儀をした。
「ありがとうございます、教えてくださって」
「あ……いや、えっと……」
「あ、大丈夫ですから。本当にありがとうございます。では!」
そして、どちらからともなく私たちは手を握り合って区役所の中から出て行く。最後まで煙たがるような視線が降っていたけど、私たち二人とも気にしていなかった。
そして、外に出た途端に私たちはまた笑い合いながら、兄さんの手に取っている書類を見つめる。
「どうしようかな、これは」
「本当に兄さんったら……年齢のことも調べずにここまで来るなんて」
「莉玖も気付かなかったでしょ?でも、そうだな……」
兄さんは何故か、書類に書かれている文面を愛くるしい顔で見つめていた。その文字一つ一つを大事にしているんだと、こっちまで分かるくらいに幸せそうな顔で。
やがて、兄さんは溜めた息を吐いて私を見つめてくる。
「これは、二人のお宝として大事に取っておこうね」
「はい、そうですね」
「大丈夫かな。書類持ったまま抜け出しても」
「まあ、声をかけられることはなかったんですし……後でコピーするので、兄さんも持っていてくださいね」
「分かった。まあ、結婚はできなくても指輪くらいは準備しても悪くないよね」
「……………そこまで私と結婚したいんですか?」
「うん、莉玖と結婚したいよ」
……………………ああ。
この人は、本当にずるい。
「……私も死ぬまで、兄さんと一緒にいたいです」
「うん」
「絶対に、離れないでくださいね。兄さんのこと、愛してますから」
「その愛の証拠として、指輪でも買いに行こうか」
「……ふふっ、そうですね。指輪買いに行きましょう。指輪を買った後には海を見て、晩御飯を食べて、そのままホテルに行くんです」
「水族館どこに行ったの?というより、駆け落ちも一泊二日で終わりか……」
「ふふっ、どこか田舎の街にでも行ったらどうですか?一緒に畑を耕したりして」
「悪くないかも。指輪買ってから行く?」
「……そうですね、ふふっ」
未来には雲が浮かんでいる。
どんよりとした雲と湿気のある空気が、未来の時間をメリメリと押しつぶそうとしている。今私たちがしているこの駆け落ちは、果たして未来に繋がるだろうか。
……分からない。でも、一生大事にしていく宝が三つもできた。結婚届と、これから買いに行く指輪と、今日という日の思い出。
これだけ抱えていると、なんとか生き抜けられそうだ。
兄さんは書類を畳みもせずに懐に抑えてから、私の手を取ってアクセサリーショップへ向かう。
その間、私はその愛おしい人をずっと見上げていた。
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