40話  駆け落ち

<七下 莉玖>



どこへ向かおうか、とも言わずに私たちはとりあえず電車に乗った。


兄さんが今まで貯めてきたお小遣いと私の所持金を全部合わせて、約3万円。高校生の私にとっては大金であるそのお金だけを頼りにして、私たちは家から逃げ出す。



「……人、いないですね」

「そうだね」



斜め向かいに母と子供のペアが一組いるだけで、電車の中はとても静かで、沈んでいる。窓を通して燦燦と照らされる日差しとは真逆の落ち着きがこの場に漂っていた。


私は、兄さんの手を強く握る。兄さんは、私を安心させるためにもっと手に力を込めてくる。


兄さんと遠出したことなんて、前に海に行った時以来だ。やっぱり、緊張してしまう。



「…………兄さん」



その不安と緊張を温もりで覆うために、兄さんの肩に寄りかかった。色々な考えが、頭の中を巡っていた。


そもそも、なんで学校にいるはずの兄さんが今ここにいるのだろう。今はテスト期間なのに、テストをほったらかしにして本当にいいのかな。


お母さんにはどう説明したらいい?そもそも、どこへ向かえばいいんだっけ。どれくらい、兄さんとこのような駆け落ちができるんだろう……。


……ああ、大人になったら着々と答えを出せるのかな。分からないな、本当に。



「莉玖」

「はい」

「どこへ行きたいの?今なら、どこだって行けるよ」

「……兄さんの傍にいたいです」

「いや、向かう場所を聞いてるんだけど……」

「私のいるべき場所は兄さんの隣ですので。どこへ向かおうがは構わないんですよ?」



自分で答えながらもまともな答えになってないような気がする。でも、兄さんはそんな我儘を受け入れて、優しく私の頭を撫でてくれた。


撫でられる度に、こうして兄さんといる時間を重ねていく度に私は、心からこの人のことが好きだと感じる。こんなにも私の心を膨らませて虜にしてしまう人は、たぶんもう二度と現れないと思う。


この人を逃がしてはいけない。一秒たりとも、離れたくない。



「……じゃさ、莉玖」

「はい」

「海、行かない?」

「………海、ですか?」

「うん。日差しが強すぎるから海は夕方になってからじゃないと行けないけど、近くに水族館があるとこに行ったらいいんじゃないかな。そこでのんびり時間を潰して、カフェにでも入ろう?」

「ふふっ、なんだかデートっぽい感じがしますね」

「そうだね」



兄さんは私の膝の上に置いてある日傘をジッと見下ろしながら、微笑む。


やがて、ずっとこちらを不審に見ていた親子が電車に降りて、この車両ではもう私たちしか残らなくなる。もう声を抑える必要もない。


私は、既に日常と化したキスを優しく送りながら、兄さんを見つめる。



「兄さん」

「うん」

「責任、取ってくださいね?私、兄さんのためなら何でも諦められそうな気がしますから」

「責任は、よりを戻したその時から取るつもりだったから」

「…………どこまで私を惚れさせる気ですか」

「莉玖こそ、どれだけ僕を悪い人にしたら気が済むのかな。学校もサボって、親の言い付けも無視して駆け落ちなんて」

「ごめんなさい。兄をたぶらかすような悪い妹で」

「………………………」



兄さんはからかうように言っていたけど、何故か兄さんの悪い人、って言葉が心臓に深く突き刺さった。


そう、兄さんは普通になれる人間だったかもしれない。兄さんの中には確かな穴があるけど、そんな穴なんか誰もが持ち合わせているものだ。空虚ともどかしさという名の風穴は、誰にだってある。


そんな兄を狂わせたのは、紛れもない私だ。


責任を取るべきなのも、もとはと言えば兄さんじゃなくて私だ。私のせいでこんなことになったのだから。



「兄さん」

「うん」

「……本当のこと、言っていいですか?」

「なんでもいいよ」

「……私、不安です」

「……………………そっか」

「本当にごめんなさい。攫ってくださいというお願いは、ウソじゃなかったんです。兄さんとなら他のすべてを諦めてもいいと心底思っています。今だって、兄さんが傍にいてくれて幸せですもん」

「うん」



私の肩が震えているのを感じ取ったからか、兄さんは私の背に腕を回して、もっと私を抱き寄せてくる。


そう、こんな瞬間だ。こんな瞬間が重なったから、私は運命という二文字を確かな形に受け取ることができたのだ。


でも、現実はいつだって厳しい。世界は、いつだって私に優しくなかった。



「……でも、やっぱり怖いんです」

「何が?」

「お母さんを裏切ったことが。美紀ともう二度と会えないかもしれないという不安が……この時間がいつかは終わってしまいそうで、不安で仕方がないんです」

「……………………」

「本当に、こんなに脆い妹でごめんなさい。でも……でも、兄さんと一緒にいられないって思うと、怖くて」

「……莉玖」

「え……?んむっ、ちゅっ………」



不安と悩みを潰すようなキスじゃない。あくまで、私を尊重した上で行われる熱の伝道だ。


兄さんはいつだって、私のすべてを認めて、受け入れてくれる。



「……実を言うとね、莉玖」

「はい」

「僕も相当怖いんだ。父さんを裏切ったこともそうだけど、莉玖といつまでこうしていられるんだろうって思うと……やっぱり、不安でね」

「兄さんも、そうなんですね」

「当たり前だよ。子供だから」

「兄さんは、私にとってはずっと大人です」

「……莉玖と付き合って、何となく気付いたことなんだけどね」

「はい」

「やっぱり、人間の幸せが成り立つには、思った以上に多くのものが必要なみたい」

「………………………」



前の私なら、否定していたかもしれない。私が傍にいるのになんでそんなことを言うんですかと、胸の奥がモヤモヤしていたかもしれない。


でも、今はその言葉の意味が何となく分かる気がする。そう、私にも大事なものはあった。私には兄さんが大事だけど、お母さんと美紀が大事ではないわけではない。


そして、何よりも兄さんとの未来が一番大事で。


ここで流れているこの瞬間を、兄さんといる未来に繋げたかった。それができるかどうか分からないから、私は不安でいる。



「でも、僕にはやっぱり莉玖が一番大事だよ。莉玖がそうであるように」

「………………はい、私もです」

「……ぷふっ、まあ。こんなことになるとは思わなかったけどさ」



そう言いながら、兄さんは急に私の肩を抱いていた手でスマホを操作して、ある画面を私に向けてきた。



「責任は、ちゃんと取らなきゃいけないからね」

「……責任?急にどうしたんですか?兄さん」

「ここ、この海水浴場の最寄り駅の近く。何があるか見える?」

「はい?えっと、ラーメン屋さんに、スーパーに、区役所…………………えっ」

「そう、区役所」



……………まさか。


思ってもみなかった提案にポカンとしていると、兄さんは実に愉快そうな表情を浮かべたまま白歯を見せてくる。


普段の落ち着いている兄さんにとっては物珍しい、屈託のない笑顔。



「婚姻届けでも作成しようか」



そんなことを言われた途端に、私の頭は一気にフリーズした。

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