39話  攫って

<七下 秋>



莉玖と顔を合わせるな。


父の言葉が頭の中で木霊して、すべての意識がその文章に吸い寄せられている。眠れないまま夜を過ごして、学校に登校した。


莉玖は、結局三日間の停学処分を受けたらしい。来週明けからはちょうどテストなので、テストを受けさせるために学校側が配慮したのだろう。もちろん、この状態で莉玖がテス勉に集中できるとは思えない。


頭の中だ泥だらけになったままクラスに入って、自分の席にカバンを下ろすと、ちょうど真横から声がした。



「おう、秋」

「……一翔」

「どうした?夜更かしでもしたか?」

「ああ……まあ、そんなところ」



しれっと、輪を抜け出して気安く肩を組んでくる一翔に、僕は苦笑をこぼす。


本当に、大したヤツだ。クラスのみんなの視線とか気にならないのか、こいつは。



「ふうん、ツラいことがあれば相談しろよ?」

「ああ、そうさせてもらう」

「おう」



特に話を長引かせることなく、一翔はあっさり身を引いてのこのことクラスの中心に入って行く。それにつれて、教室の隅っこからひそひそと話し声が聞こえてきた。


……もう、どうでもいい。起きてしまったことだし、噂の内容はすべて事実だから。


僕は席に腰かけてどんよりとした頭を無理やり動かして、これからどうすべきかだけを考え始める。



『……莉玖と、離れ離れ』



胸がズキズキして、息が苦しくなって、胃が痛い。


莉玖が高校を卒業するまで残った時間は2年以上だ。その間、莉玖と全く会ってはいけないと?


……冗談じゃない。なんで、こんなにも好きなのに離れなきゃいけないんだ。僕にはもう莉玖さえいてくれればいいのに。莉玖だって、隣に僕がいてくれたらそれでいいと言っていたのに。


何度も父の言葉を思い返しても、納得できなかった。父さんにどういう権限があって僕たちの仲を断ち切るのかが分からない。



「ホームルーム始めるぞ~お前ら、席に着け!」

「は~~い」



僕たちは、子供だ。


まだ、両親に養われてもらえなければ生きていけない軟弱な生き物だ。何らかの判断をしたところで、それが真っ当な判断だとは認めてもらえない。


こんなにも好きなのに。


その気持ちがただの我儘として受け取られるのが耐えられない。七下莉玖という存在がいなきゃ生きられないと、僕は今もそう感じているのに。


なのに、許してもらえない。世の中の常識と保護者の言いつけに縛られて身動きが取れなくなった。



「七下」

「…………」

「……あれ?七下?」



人間は、愛だけでは生きられない。


たぶん、この言葉の真意を僕はまだ知らない。僕は大人じゃないし、お金を稼いだこともないから………ぼんやりと本で見た文章の意味を読み取るには、まだまだ知らないことが多すぎる。


だから、僕はまだ父さんと葵さんの大事さを、周りの環境の大事さをちゃんと分かっていないに違いない。


父さんの提案に乗るべきだ。2年間、たった2年を耐えれば僕たちは晴れて恋人同士になれる。なんのくすぶりもなしに繋がれて、他の人に心を惑わされる恐れもない。



「七下、おい!」

「…………………………」



だけど。


なんで、耐えなければいけないのだろう。なんで我慢しなきゃいけないのだろう。一時の衝動が体の隅々まで染み渡って、まともな思考をできなくさせる。


……いや、一時の衝動でいい。これくらい確かな形を持った衝動なら、どんとこいだ。


正しさなんて、くそ食らえ。



「――っ」

「お、おい。七下!!」



クラスに入って30分も経たないうちに、僕はカバンを持ち上げて教室を出て行く。


ただただぼうっとしていた担任の先生は僕が教室を出てからようやく声を上げたけど、もう遅かった。


校門を出る前に、スマホは予め切っておく。僕は走った。正門にはまだ先生と遅刻した生徒たちが残っているはずだから、仕方なく学校の壁を超えることにする。


幸い、裏門の近くの壁を誰にも気づかれずに超えることができた。


家に向かって、僕は走る。逃げるように走る。そう、逃げるように。



「はぁ、はぁ……はぁ、くそぉ……」



逃げたかった。


僕は今、現実逃避をしている。悪いことをしている。でも、僕みたいな人間には逃避も必要なのだ。一秒たりとも現実から目を背いてはいけないなんて、それはもうただの地獄じゃないか。


誰かにとっては虚しい逃げ場も、誰かにとっては楽園になれるのだ。


20分近くかかる道のりを5分ちょっとで走り抜けた後、僕は肩で息をしながらふらふらと家のドアに鍵を差し入れる。ドアが開いて、両親はいなくて莉玖だけがいる家の風景が目の前に広がる。


真っ直ぐ、僕は莉玖の部屋がいる2階へ足を運ぼうとした。



「………………兄、さん?」

「………………………莉玖」



でも、それより早く何かを感じ取ったのか、莉玖は両手で口元を隠しながら階段の最上段で僕を見下ろしている。


真っ白なワンピースを着ている妹は、ただただ驚いていた。


夏に近づく日差しを浴びて汗をかいていた僕は、溜まった息を吐いてから言う。



「父さんから聞いた?」

「……何を、ですか?」

「僕と莉玖が父さんたちに認めてもらうためにはね。2年以上顔を合わせてはいけないんだって」

「……………………ど、ういうこと……ですか?」

「父さんの提案。莉玖が卒業するまで、僕は莉玖と会ってはいけないんだよ。僕はここからだいぶ遠い県外の高校に転校させられて、莉玖と離れ離れになる。卒業した後もお互いのことを好きでいたら、許してくれるんだって」

「………………………………」



初めては驚愕で見開いていた赤い瞳が段々と細くなって、閉ざされる。


莉玖は僕が言ってくれた事実を噛みしめるように沈黙を続けた後、階段を降りてきた。



「………兄さん」

「うん」

「兄さんは、どうしたいですか?」



僕は門を閉じて、階段を降りてきた莉玖と向き合う。


莉玖は諦念したような面持ちで、僕を見据えてきた。



「言ってください、兄さん。なんでも従いますから。兄さんの言葉なら、なんでも。私は、どっちでもいいですよ?高校を卒業するまで兄さんに会えずに2年後に結ばれるのも、今この場で……駆け落ちするのも、どっちも悪くないと思います」

「……どうしてそれが悪くないと思えるの?駆け落ちの次には破滅しか待ってないのに?」

「兄さんが、ここに来てくれましたから」



噴き出しそうになるのをかろうじて我慢しながら、僕は薄笑みを湛えた。



「莉玖」

「はい」

「僕はさ、莉玖が幸せになって欲しいんだ」

「私は、兄さんが私の傍にいて欲しいです」



莉玖はそのまま、汗で若干濡れている僕の首元に腕を回して、息遣いが当たるような距離まで顔を近づけてくる。


愛おしさが滲み出る真っ赤な瞳に、僕は見惚れていた。



「私の幸せは兄さんですから」

「………………」

「私の中の穴は、兄さんでしか埋められません。兄さんが与えてくれるすべてはいつも本物でした。妥協とウソと常識で塗り固められた偽物は、要りません」

「莉―――」



莉玖は、僕の言葉をそんなに長く待たなかった。


何かを言い出そうとしたところで、僕の口はすぐに莉玖の柔らかな唇にふさがれ、恍惚とした感触と気持ちよさを伝えてくる。


いつの間にか息をするのも忘れて、お互い目を閉じたまま続いた優しいキス。


その甘美な幸せはすぐに遠くなって、莉玖はほんのりとした笑顔を向けてきた。



「……正直に、言っていいですか?」

「……うん、言ってごらん」

「ごめんなさい、ウソつきました。さっきの言葉は、ただの強がりです……2年も兄さんに会えないなんて、死んだ方がマシです」

「……よかった」

「ふふふっ、なにが良かったんですか?」

「ちょうど同じこと、僕も考えていたからね」

「……なるほど」



ああ、そう。この先にどんな結果が待ち伏せているのか、僕たちは知らない。


ただ、衝動と感情と承認欲求が混ざり合って、どろどろとした赤黒い何かになった。今まで育ててくれた両親には本当に、合わせる顔がない。


だけど、僕たちは確信している。たった16歳、15歳の子供が決め付けていいことではないけれど。


これは運命だと、僕たちは初めて会った時から薄々感じていたから。


これは、僕たちに残ったすべての時間を縛るような、甘ったるい呪いだ。



「逃げようか、莉玖」

「はい、兄さん」



もう一度軽くキスをしてから、莉玖は言う。



「私を、攫って?」

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