38話 父の提案
<七下 秋>
階段を昇って行く父の背中を見ながら、昔のことをぼんやりと思っていた。
母と離婚して辛そうに屈んでいた大きな背中。今の僕はもう父さん以上に背が高くなっているのに、何故かあの頃のように父の背中はただただ大きく見える。
父さんの足が止まったのは、僕の部屋の前だった。僕を一度振り向いた後、父さんは固まった顔でドアノブに手をかける。
……ようやく来るべき時が来たか。
唾を飲み込んで、僕は部屋の中へ入って行く。
「座れ」
「ああ」
短い会話を交えた後、僕は自分の部屋の椅子に、父さんはベッドの縁に座ってこちらをジッと見つめてきた。
先に口を開いたのは、僕だった。
「ごめん、父さん」
「…………………はああ」
「本当にごめん。悪いと思ってる。こんなことをやらかしてしまって……本当に、ごめんなさい」
「顔を上げろ。謝罪はもう何度もされた」
その言葉にギクッと反応して、僕は一縷の希望を抱いて頭を上げた。
父さんは相変わらずぎちぎちに固まった顔で、再びため息をつく。
「お前がお前なりに頑張ったということは、さっきの会話でよく分かった」
「………そう」
「ああ。だが、結果がこうなってしまったんだ。お前たちは血は繋がっていないとはいえ、書類上では紛れもない兄弟だ。付き合っていると言われてそうかとすんなり納得はできないんだよ、俺は」
「…………………ああ、分かってる」
「ふぅ………………」
父さんは、片手を上げて頭をガシガシ掻いた後にまたもやため息をついた。
それが、何かもどかしいことがある時に父さんがよく取る行動だということを、僕は知っている。
「俺は、お前のことを自慢の息子だと思っている」
「…………ああ」
「昔、お前の母と散々喧嘩を繰り返していたにも関わらず、お前は文句一つ言わなかった。むしろ、あんな状況に置かれてもなお勉学と家事に勤しんで、俺を慰めてくれた。俺は、そんなお前のことを自慢に思っていたし、本当によくできた息子だと何度も思っていた」
「…………………」
「でも、まさかこんなことになるとはな………まあ、お前にも色々あっただろう。それに莉玖は、義父である俺が言うのもなんだが、かなり綺麗な子だからな」
混乱した後の困っていた表情は、少しずつ疲れを湛えて行く。
僕は再び、顔を伏せるしかなかった。
「………なんで莉玖なんだ。他は誰でもよかったのに、なんでよりにもよって莉玖なんだ」
「……父さん」
「なんだ?」
「こういうことを言うのは間違っているとは思うけど……でも、僕の中には莉玖でしか埋められない穴があるんだよ」
「…………………」
「僕だって、他の子たちと全く絡んでなかったわけじゃない。僕と違って普通な恋愛をしている子たちも見て来たんだよ。でも、言葉で表すのは難しいけど、僕はあの子たちと決定的に何か違うところがあったんだ」
「決定的に、何が違ったんだ?」
「……僕は、たぶん普通じゃなかった」
昔から薄々と感じて来た思いが確かな形になって、言葉として紡がれる。そう、もし僕が普通だったら。
たぶん、こんなにも莉玖に溺れることもなかった。
「みんなにとしての当たり前が、僕にとしては当たり前じゃないんだよ。僕は……なんか、普通な人間になれるための大事な何かを欠いているんだ。そして、その穴を莉玖が埋めてくれる……こういえば分かるかな」
「……俺は、お前が何を言っているのかよく分からないな」
「だよね。本当にその通りだと思う。でも、確かなのが一つだけあるとするなら、僕には莉玖が必要だということだよ」
「………………もし上手く行かなくて別れたりしたら、どうするつもりだ?」
「……これも戯言に聞こえるだろうけど、僕たちは別れないよ、たぶん」
咄嗟に出て来た言葉に父さんだけではなく、僕まで驚いてしまった。
でも、そうだ。別れるはずがない。別れるはずがないと思う。僕には莉玖が必要で、莉玖には僕が必要だ。
互いの心臓に空いている穴を、お互いの存在でしか埋められない。生きるための動力をお互いの熱でしか見出せない。
「……そんな関係じゃないからね、僕たちは」
「……………………………」
「それに、大切な相手をどんな風に尊重していけばいいのか、僕たちは既にその術を知っている」
僕が莉玖と別れたのは、僕が莉玖の意思を全く尊重していなかったからだ。そして、莉玖がどんな風に苦しんでいたのかをこの目で見た僕は、もう二度とそんな判断を下せない。
薄っすらとした予感が現実になって身に降りかかってくる。そう、これは責任だ。今の僕には、莉玖の一生を負うための覚悟が必要だ。
「……最初で、最後のお願いだよ、父さん」
「………………………」
「どうか、僕と莉玖の関係を許してください」
椅子から立ち上がって、僕はすぐさま床に膝をついて頭を下げる。父さんは乾いた唇を何度か舌で湿らせているだけで、特になんとも言わなかった。
僕は、切実だった。莉玖が大事だからといえ、父さんと葵さんが大事じゃないわけではない。莉玖のためにも、僕のためにも、家族は必要だ。
苦々しく、父さんは言う。
「……別れない、と言ったな」
「ああ」
「なら、その言葉を証明してもらおう」
証明という言葉に頭をもたげると、父さんは腕を組んだまま口を開いた。
「高校を卒業するまで、お前には自炊をしてもらおう」
「……………………」
「その間だけは、何があっても絶対に莉玖と顔を合わせるな。分かったか?」
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