37話 なくしちゃいけない人
<七下 莉玖>
「莉玖と別れることは、できません」
お義父さんと、お母さんに向かって放たれた兄さんの言葉に、場の空気が静まり返る。
お義父さんは何を言われたか分からないと言わんばかりに首を傾げている。母さんは、目を見開いたまま僕を見据えていた。
「できないって……どういうことだ、秋」
「……文字通りだよ。莉玖と別れることは、できない」
兄さんが何を考えているのかは分からない。ここまで断言するとは思わなかった。
……でも、嬉しい。嬉しすぎて、また涙が出てしまう。そうだ、兄さんは私のもの。私は、兄さんのもの。それが当たり前のことで、揺るぎのない事実だ。
少なくとも、16歳の私にとってはこれこそが正しさだった。
「葵さん、本当に申し訳ございません」
「………秋君」
「ふざけたことを言っている自覚はあります。ですが、僕は本当に莉玖のことが心から好なんです。この子じゃなきゃ埋められない何かが、自分の中にありますから」
「………………………秋、お前」
「……17歳だとしても、未来を決めて自分の意志で何かを判断することはできるじゃないですか。お二人が思っているほど、僕たちの絆は……そんなに、軟弱なものではありません」
二人は、呆気にとられたような顔をして口をポカンと開いていた。その光景を眺めている兄さんの拳が、ぶるぶる震えているのが見える。
………言わなきゃ。
掴みたい未来のためには、私も踏ん張らなきゃ。
「………お母さん」
「………莉玖?」
「ごめんなさい。お義父さんも、本当に申し訳ございません。でも、すべては兄の言う通りです。こんなこと、ただの戯言に聞こえるかもしれませんが……私は兄と、別れられません。一度別れたことがあるからこそ、確信できるんです」
「莉玖………お前まで」
「私たち、一度は別れたんです!こうなることが怖くて、変な噂されるのが嫌で、一度ちゃんと距離を置いてたんです!でも、やっぱり……やっぱり私は兄さんのこと、忘れられなくて……」
「……………莉玖」
驚いているような兄の声色に、背中を押されているような気がする。
私は早くなっていく息遣いを整いもせずに、ただただ二人にすべてをばら撒く。もう、そこには理性などが存在しなかった。
幼いから。そう、幼いからだ。私が感情に突き動かされるような人間だから、こんな風になってしまうのだ。
「兄さんは、兄さんは何も悪くありません!お願いします、兄さんのことを責めないでください。すべて、すべて私が悪いんです。兄さんは、ずっとずっと私以上に私の周りのことを気にしていて、悩みに悩んだ末に私を振ったんです。お二人を裏切らないために、兄さんは精一杯頑張りました!!」
「…………………」
「でも、私が迫ってたから……!私が、兄さんがいないと狂ってしまいそうだったから、兄さんのことが………こんな見た目をしている私に偏見を持たずに接してくれる兄さんが、優しい兄さんが好きで……だから、すべては私が、私が悪いんです。すべて私のせいです!お願いします、兄さんを責めないでください……」
後半まで行くともう涙声になって、視界は濡れて霞んでも私は懸命に言葉を紡いで行った。
気を抜いたらすぐにでも項垂れて前に倒れてしまいそうだった。それでも、これは私のせいだ。
兄さんを庇うためなら、私は何だってやる。
「………秋、これは本当か?」
「……………………」
「秋、聞いてるじゃないか」
「………ああ」
「……そうやって別れたと言うのに、お前はまたよりを戻した。その理由は何故だ?」
「……決まってる、そんなことくらい」
「は……?」
「莉玖は、自分が悪いと言ったけど」
はっ、と息を呑み込んで見上げた兄の横顔には、もう戸惑いと緊張などはなくて。
ただただ、いつも私に見せてくれる真剣な顔が、そこにあった。
「違う、これは全部僕が悪いんだ。僕がもっとちゃんとしていたらこんなことにはならなかったし、結局莉玖の気持ちを受け入れたのだって……僕だから」
「……秋君」
「……ごめんなさい、葵さん。葵さんが再婚したことを後悔させないために、僕なりに努力はしてきました。莉玖のこと突き放そうともしてましたし、物理的に距離を置こうともしてましたけど………でも、できないんです」
「…………………」
「お願いします。僕たちの関係を、どうか許してください」
燃えるような炎を宿したまま、兄さんは射貫くような視線を二人に送っている。
母さんはただただ困り顔で涙でぐちゃぐちゃになった私を見つめているし、お義父さんの険しい表情が崩されることもなかった。
息ができなくなりそうな、苦しい空気だった。
「………秋」
「………はい」
「お前は、ちょっと俺と話し合う必要がありそうだな。二人きりで」
その言葉を聞いた瞬間、私の頭はすぐに真っ白になる。
気付けば、自分でも驚くような声で私は叫んでいた。
「お義父さん!!兄さんは何も悪くありません!非があるとするなら、それは私で……!」
「いや、こいつにも確かに責任がある。莉玖、それはお前だけのせいじゃない」
「そんな、兄さんは!!」
「莉玖!!」
立ち上がって抗議しようとしたところで、引き裂くようなお母さんの声が私を凍らせる。
視線を移した。悲痛な表情になっているお母さんはただただ首を振って、私の口を塞いでくる。
「そんな………そんなぁ………」
「………秋、立て」
「………ああ」
「葵さん、俺たちはちょっと2階で話すから」
「ああ、分かりました。行ってらっしゃい」
兄さんは、私に一度たりとも目をくれなかった。それは愛情がないからではなく、私のことを考えての行動だ。
でも、苦しかった。いざ訪れた最悪に一人で耐えようとするのは、あまりにも悲惨なことなのに。少しくらいは私に、その荷物を分けてくれたらいいのに……僕の兄さんは、そんなことを許してくれない。
結局、体に力がなくなって前に倒れそうになった時に……。
「もう……この子ったら」
「………母さん」
今度は兄さんではなく、お母さんの懐が私を包んでくれる。
母さんは、本当に仕方ないと言わんばかりに私を見つめながら、親指で涙を拭いていた。
「……ごめんなさい。ごめんなさい……ごめん、ごめんなさい………」
「もう……」
「ごめんね……ごめんなさい、でも……でも……」
「はいはい、今は何も考えてないで、ただママに甘えなさい。辛かったでしょう?」
「ううっ………うぅ……うぅぅ……」
「……莉玖」
「ひぅっ、ふぅ……ふっ、ふぅう……」
「秋君のこと、そんなに好きなの?」
涙のせいで声が霞んでいても、体に力がなくて指一本動かす力がなくても。
それでも、私は兄さんを否定することができなかった。
「うん………すきぃ……」
「……………」
「好き……好きなの、離したくない人なの……本当に、優しくて、素敵で、いつも私が迷惑かけちゃうのに、受け入れてくれる人で……絶対に、なくしちゃいけない人なの。そんな……そんな兄さんなの………」
「………莉玖がこんなこと言うなんて。ママ、ちょっとびっくりしちゃったかも」
「ごめんなさい………本当に、本当にごめんなさい……でも、でも仕方なかった……こんな、こんな見た目してるのに、受け入れてくれるから……仕方なかったの……本当に……」
「はいはい、分かった。今日は一日大変だったでしょうから、今日だけはママにいっぱい甘えなさいな」
子供の頃、学校でいじめられて、からかわれた私を支えてくれたママの声。
そんな人を裏切ってしまったという罪悪感と共に、久々に感じるママの温もりがぐっと込み上がって来た。
背中を撫でられたまま、私は心地よさに抗えずに、優しい沼の底へ沈んで行く。
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