34話  隣に立つために

<七下 莉玖>



穴にでも潜りたい気分だった。


そう、私は暴力を振るった。クラスメイトを傷つけた。兄さんと両親に心配をかけてしまった。


私は、間違っていた。


でも、じゃどうしたらよかったかという質問が頭の中を煩わせた。美紀がバカにされたのに。一番の親友が、こんな醜い私を肯定してくれた人が、私のせいで蔑まれていたのに、訳知らん顔で見ていろって……?



「…………………莉玖」

「………………………」

「莉玖、顔を上げて?」



兄さんは、職員室の隅っこにある相談室で、私の肩を掴んでいた。


罪人である私は、ただただ項垂れるしかなかった。兄さんの顔を見る資格がない。これは、そう。私が招いた災いだ。



「……いや」

「莉玖」

「見ないでください……私が、私が全部悪いんですから」

「……そうだね。暴力を振るったのは確かによくないよ。でも、先に挑発してきたのは向こうなんでしょ?」

「そんなこと………私は、兄さんを、がっかりさせてしまいました」

「………莉玖」



いつの間にか涙声になっている私を、兄さんはその逞しい腕で包んでくれる。


兄さんの匂いが一気に立ち込めてきて、ただでさえ崩れかけていた涙腺が一気に爆発して、涙があふれる。


こんな醜態を好きな人に見られてしまったという恥ずかしさが、申し訳なさが募って体がはち切れそうだった。すぐにでも、この懐から逃げたかった。


でも、兄さんはそんな私を咎めずに、ただただ私を包んでいた。



「ごめんね。僕が不器用なせいで、莉玖に辛い思いをさせてしまった」

「んくっ、いや………いや、です……なんで、なんで兄さんが謝るんですかぁ……なんで、悪いのは、悪いのは全部わたしなのに。このままじゃ、お母さんたちにも私たちの関係がバレて………」

「そうだね、そうかもしれないね……でも、それは莉玖と復縁した時から覚悟していたことだから。大丈夫、莉玖は安心していいよ」

「ウソ、ウソです……兄さんだって、ずっとずっと不安がってたくせに……」

「どんなに不安でも、僕は絶対に莉玖を見捨てたりはしないよ?莉玖も知ってるでしょ?」

「バカ……バカ兄さん、バカ………バカぁ………」



なんで、この人はこんなにも優しいんだろう。


なんで、こんなにも醜い私を受け止めて、包んでくれるのだろう。私なんか、兄さんと全然釣り合わない。危うくて脆い時限爆弾みたいな私なんか、兄さんの足元にも及ばない存在だ。


なのに、この人は私を抱きしめてくれる。精一杯、私を安心させて楽にしてくれる。別れないと囁いてくれる。救ってくれる。



「んくっ、ふっ、ふっ、ふぅう……ふぅ……」



精一杯泣くのを止めようと息を荒く吸いながら、何度も思いを噛みしめた。この人じゃないと、もう私はダメだ。


この人の隣にいるために、ちゃんと努力しなきゃ。



「大丈夫?ティッシュ要る?」

「だいじょ………いえ。お願いします……」

「うん」



幼稚園児みたいに鼻まで啜って、私はようやく落ち着きを取り戻してから兄さんを見上げた。


きっと、兄さんだって昨日の今日で私以上にツラい思いをしていたはずだ。なのに、兄さんの顔には一切翳りがない。


ただただ、慈しむように私を見つめてくるだけだ。



「落ち着いた?」

「………はい」

「事情は大山先生から全部聞いたよ。放課後……父さんと葵さんも来るんでしょ?」

「……………そう、ですね。聞いた感じ、今は仕事が忙しいみたいですから……」

「……既に起きたことだから、こうなったらもう仕方がないよ。関係がバレる可能性も考えておかなきゃ」

「…………………………」



兄さんは、バレるという言葉をあまりにも平然とした顔で言い放っている。


心の中では、私以上にその言葉に押しつぶされそうになっているはずなのに。



「とにかく僕が今言いたいのはそれじゃなくて……莉玖、まだ先生に詳しい事情を話してないって聞いたけど、本当?」

「……はい、そうです」

「どうして言わなかったのか聞いてもいい?やっぱり、僕たちの関係がバレそうだったから?」

「……………………………」

「……莉玖」



兄さんは名前を呼んだ後、まだ俯いている私を下から見上げるようにして膝を曲げた。


優しい視線に縛られて、私は逃げられない。



「ちゃんと、先生にも僕にも理由を言って欲しいな。先生も僕も、莉玖が先に手を上げるような子じゃないって知っているからさ」

「………………………」

「このまま口を噤んでいたら、状況がますます悪くなるかもしれないよ。非は向こうにもあるんだから。ね?」



すぐには、口を開かなかった。


不安がまだ先走っていた。兄さんに嫌われるかもしれないという恐れが脳内を食い尽くして、もうすぐで狂ってしまいそうだった。


……でも、兄さんなら。


私が見て来た、私が信じている兄さんなら……いいんじゃないかと思って。


私は、大きく深呼吸をした後に、すべてを話し始める。



「実は、昨日から……」



なるべく詳細に、ありのままの事実を伝えようと心掛けて、私は言葉を紡いで行く。


ここでウソをついても仕方がない。兄さんが今望んでいるのは優しいウソじゃなくて、現実だ。担任の先生も、この後ここに来るはずの両親も……きっとそれを望んでいるはず。


受けなければならない。私が兄さんに恋をしてしまったことに対しての罰を、受けなければ。責任を負わなければ。


そうしないと、私は兄さんの傍にはいられない。



「そっか、分かったよ」

「………はい」

「ていうか、やっぱり池田のためだったんだ……あはっ」

「……笑い事じゃないですよ?」

「うん、分かってる。でも、なんか莉玖らしくてつい」

「皮肉にしか聞こえません……」

「そんな莉玖を、僕は愛してるよ」



………ああ、本当に。


この人は、本当にどれだけ私を狂わせたら気が済むの……。



「……私も」

「うん?」

「そんな意地悪な兄さんを、私も愛しています」

「………ありがとう」

「はい、兄さん」

「……莉玖」

「はい」

「何があっても一緒にいるからさ。不安にならなくてもいいよ」

「…………………」



ようやく、私は久々の笑顔を取り戻して兄さんを見つめる。



「兄さん」

「うん」

「……頑張ります、兄さんと一緒にいるために」

「うん、ありがとう」



この人の隣に立つために―――


先ずは、目の前の壁を超えて行かなきゃ。

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